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2018年08月 アーカイブ

2018年08月01日

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2018年08月05日

生産手段は、なぜ私有ではなく共有制が望ましいか

 以下の記述は、筆者が1998年2月に書いたものだが、後半にある<生産手段の社会化と計画経済>のところだけは1993年8月に書いたもの。
 訂正箇所2つあり―
  ①<歴史>のところで真ん中からやや下の行
    「る。それに対して社会主義というのは生産手段・・・・」の「ね」は削除
  ②<生産手段の社会化と計画経済>のところで、20行目
    「一橋大の・・・・教授にれば」の「寄」は「よ」に 
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2018年08月07日

マルクス・エンゲルスの「共産主義」について2点(加筆版)

(1)財産所有については
共産主義というと、辞書などでは次のように説明されている。
 広辞苑―「私有財産制の否定と共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想・運動」
 ブリタニカ国際百科事典―「私有財産制を廃止して全財産を社会全体の共有にしようとする思想」 
 山川出版・倫理用語集(1992年版)―「資本主義社会をこえ、生産手段の共有と生産力の高度化により、階級も搾取もない理想社会の実現をめざす思想。」
 Wikipedia―「財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざす。その理念・共有化の範囲や形態、あるいは共産主義社会実現のための方法論などには古くから多数の議論があり、このため「共産主義」の定義は多数存在している。」
 Wikibooks―「中学校社会 歴史」の「ロシア革命」のところで―共産主義とは「工場などの生産手段を、国などの公共機関が管理することで、地主や工場主などの資本家による労働者への不利なあつかいをふせごうとする経済に関する主義。生産手段を共有するので、『共産主義』という日本語訳なわけである。したがって工場主や社長などは、会社や設備を私有できなくなるので、共産主義は私有財産の否定の思想でもある。だが、ロシア革命などの歴史的な経緯から、社会主義と共産主義とが混同されることがある。社会主義と同様に、天皇制を打倒しようとする思想と混同された。」
 以上のような説明がなされている。

 戦前・戦中の天皇制政府が治安維持法で共産党を禁止した理由は「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的とする結社」だから、ということだった。
 「共産主義は私有財産を取り上げる」という誤解はマルクスの時代からあり、日本でも戦前戦後を通じて、反共主義の側からくり返されてきたわけである。

[次は、いずれもネットに出ている04年10月14日付け「しんぶん赤旗」の記事から]
 広辞苑などの記述は、「素朴な共産思想(プラトンの『国家論』、トマス・モアの『ユートピア』などのことか?―引用者)には見られても、マルクス・エンゲルスが到達した考えや日本共産党の考えにはあてはまりません。」
 マルクス・エンゲルスの共産主義社会における私有財産問題に対する考え―「変革によって社会化されるのは、生産手段だけで、生活手段を社会化する必要はない。生活手段については、私有財産として生産者自身のものとなる権利が保障される」と(『資本論』第1部)。
 エンゲルスは(1867年の『資本論』刊行から間もない時期に、インタナショナル<国際労働者協会>に「労働者から財産を奪う」という攻撃が加えられたとき)、「(インタナショナルは)個々人に彼自身の労働の果実を保障する個人的な財産を廃止する意図はなく、反対にそれ(個人的財産)を確立しようと意図しているのである」と(反撃)(全集17、615ページ)。
 現在の日本共産党は綱領で「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化」であり、「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」としている。
 要するに共産主義とは、私有財産制を廃止するものではなく、生産手段(機械・道具・生産施設・設備と原材料)に限って共有制にするもので、生活手段(家屋・屋敷・生活用具・趣味用品などの私的生活のための財産)は私有制が維持され保障されるということである。

 尚、資本主義の現段階
生産力の高度発展―
  「第4次産業革命」―機械が自ら考えて動く自律化
    ↑
   第3次  “  ―コンピュータ→自動化(指示を与えれば機械が勝手に作る)
    ↑
   第2次  “  ―電力→大量生産
    ↑
   第1次  “  ―蒸気機関→機械化
 機械化・自律自動化(機械・AIロボットが肩代わり)―省力化(人手が少なくて済む)
 (単なるロボットは予め決められプログラムされた動作しかできず、自己判断できないが、AI-=人工知能は自ら思考する能力をもち、自己判断でき、自発的に発展していく。)
 きつい・汚い・危険な仕事や単調で退屈な仕事だけでなく、人間が「生きるための労働」をAIやロボットが肩代わりしてくれる(人手が要らなくなる)。
 需要と供給やユーザー(使用者・顧客)の消費行動はビッグデータ解析によって未来予測(先読み)が可能に。(ビッグデータはAIが管理)
 必要労働量の減少→労働時間が短縮―週5日労働(週休2日)から「週3日労働(週休4日)」とかへ
  人手が余る―雇用が減り失業増える
 労働コスト低下→賃金低下―職種によって格差―労働者(従業員)と資本家(株主・経営者)との所得格差

 それが、共産主義(生産手段―機械・ロボット・AIも―社会で共有)になると
  (「知的財産」もネットワークによって人々がシェアし合うようになり、「個人」に帰属するということがなくなる。)
 労働(仕事)が「生きるため、食うため、カネを得るため(嫌でも、しかたなく)」から「自分の生きがい、自己実現のため(好きで)」へ。
 また労働が、自由時間に趣味やリクレーションを楽しむのと同様に、或は創造的価値を得る(創造の成果は社会に還元される)、それが「生きがい」となる。
 生計費・必要経費は必要に応じて支給(生活に最低限必要な金額が一律に給付=ベーシック・インカムは実験的に導入している国はフィンランド・オランダ・カナダなど既にあり。)

(2)現実的運動については
 マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で次のように書いているという(内田樹・石川康宏『若者よ マルクスを読もう』かもがわ出版)。
 「共産主義は、われわれにとって、つくりだされるべき状態(であって―引用者)、現実がしたがわなければならない(であろう)理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、現在の状態を廃棄する現実的運動である。この運動の諸条件は、いま現存する前提から生じる。」
 石川氏によれば、それは「つまり共産主義は、理想の国(ユートピア)の手前勝手な設計図から生まれるものではなく、資本主義がもつ問題を一つ一つ解決していったその先に、結果として形をさだめるものとなる。」「未来は、人間が社会に自由に押しつけることができるものではなく、いまある社会の内から生まれ出てくるものだというわけ」(そういう角度から、エンゲルスは自分たちの学説を『空想的社会主義』と区別される『科学的社会主義』だと特徴づけている、と)。
 要するに、共産主義で生産手段を共有して行われる労働は、「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る(分配)」という段階から、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という、生産力が最高度に達して生産があり余るほど高まった発展段階が目指されるが、それは、単に理想として思い描くだけのものではなく、現存する資本主義がもつ問題を一つ一つ解決(変革)していったその先に実現する現実的運動なのだ、ということである。


2018年08月12日

「必要な物やサービスを得るには対価が必要だ」というのは当たり前のことか(加筆版)

 ここで確認しておかなければならないのは、いずれも、資本主義の下で暮らしている人々は、とかく、①に「物やサービスを得るには見返りが必要で、全てカネで売買・交換するもんだ」ということ、②に「労働とは、それでカネを得て、買って、食うために働くこと」で「働かざる者は食うべからず」と思い込んでいる向きが多いのではと思われるが、それは固定観念(思い込み)に過ぎないのだということ。以下にそのことを論じてみたい。

「物やサービスを得るには見返りが必要」ということについて
 資本主義の下では、それが普通であろう。そこでは市場原理(利己的欲望に基づく損得が基準)に基づく交換経済(市場経済)が基本だから。(交換といっても、定価―例えば100円の物を100円で買えば、買った人にとっては等価交換と思われるが、実は原価は90円で、それに儲け=剰余価値=利潤として10円がプラスされていて、不等価交換なのだ。)
 そこでは人々は、所有し或いは生産した物やサービス(労働者は自らの労働力)を商品として(値段が付き、その金額で)売って、そのカネ(販売代金)で必要な商品を手に入れる。そこでは物やサービスの提供は、すべてその見返り(代金・賃金報酬・利潤)を前提にして(当て込んで)行われる。それに値段を付ける(幾らで買うか、売るか)その取引きには利害打算が伴う。それで、有利な見返りが得られなければ、生産・販売・サービス提供は止める。たとえそれ(物やサービスの提供)が得られないと死活にかかわる程の窮地に陥ってしまうとしても。
 このやり方は、代金も報酬も利子も払うのが当たりまえ、払わなければ商品やサービスの提供が止められるのも当たりまえで、容赦しないという非情さがある。
 しかしこのような市場原理に基づく交換経済のやり方に対して協同原理に基づくボランタリー経済とか贈与経済(ギフト・エコノミー)といったやり方がある。それは見返りを期待しないで何かを与える共同体関係に基づくやり方である。
 「贈与経済」とは、「まず与える」、それに対して「お返し」があるも、その「お返し」は、「交換経済」における「見返り」(「代金」とか金銭的報酬)とは異なり、予め金額や支払い義務など設定され要求されることはない。但しその「お返し」は、見かけ上は任意なのであるが、実際上は同等もしくはそれ以上のものでなければならない。(但し、その量と内容が適切であるかどうかは客観的には決まらない。)
 ボランティアの場合は、いわば「時間の贈与」であり、こちらから「まず動く」という意味あいをもつことにもなる。それが奉仕した相手からは直接「お返し」はこなくても(たとえばAがメンバーBに奉仕したとして、Bはそれに報いるのにAではなく、他のメンバーCに奉仕する、といったようにして)他から返ってくる(連鎖的相互奉仕)。つまり「与えれば、いつかは報われる」ということになる。(そういえば、インターネット情報も、こちらから送れば相手から情報が返ってくる、そして相互やりとりが繰り返される。かくして情報を提供する側ともらう側の関係が常に入れ替わることになる。)
 いずれも「与えることで与えられる」(与え合う)という面をもつ。それが市場経済と違うところは、やりとりをする相互の間に成立する人と人との関係は、単なる経済性だけでなく、カネには換算できない豊かで多様な価値を含んだものになる。
 共産主義とは、そのような共同体的ギフト・エコノミーの類にほかなるまい。なぜなら、それ(共産主義)は「各人が能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というやり方であり、誰もが(資本主義におけるような労働疎外がなく、AI・ロボット・Iot・ビッグデータ装置などの高度先端技術の活用とあいまって)その能力を存分に発揮した労働の成果として社会に提供したものを、人々が「必要に応じて受け取ることができる」ということで、「与えることで与えられる」システムにほかならないからである。

「労働とは、それでカネを得て、買って、食うために働くことだ」ということについて。
 資本主義の下では、労働者はそういうことで(おカネのために)働くことになっている。そこで労働者が雇われて得るそのおカネ(賃金)は自らの労働力を売った代金である。そしてその労働力はカネを支払ってそれを買った資本家(会社のオーナー)のものとなって、それをどのように利用しようと(従業員をどのように使おうと)資本家・経営者に裁量権があり、彼ら労働者の労働の成果は資本家の手に渡ってしまう。資本家は(その労働力を利用して)最大限利潤を得ようと努めれば努めるほど、労働者の労働はきつくなり、辛い苦役のようになってしまうし、或は一生懸命働けば働いたで、その成果はそもそも働いた自分のものであるはずなのに資本家・経営者のふところに入る利潤が増えるだけとなる(それが労働疎外)。
 共産主義とは、資本主義のそのようなやり方を廃して、生産手段を労働者=生産者たちの共有制にすることによって労働の成果を自分たちの手に取り戻すことにほかならない。そしてそこでの労働(仕事)は本来の自己実現活動もしくは創造的な活動として楽しく「生きがい」となる、ということだ。
 尚、資本主義の下でも、家事労働は賃金なしでやられており、ボランティアは―有償の場合もあるが―多くは無償である。

 要するに「物やサービスはカネで交換・売買して得られるもの」だとか、「労働は資本家・経営者からカネで雇ってもらって働くもの」だというやり方は、資本主義では当たり前のように思えても、それは昔からずうっとどの社会でも行われたものでもなく、そこには矛盾や不合理があり、歴史が過ぎれば変わりゆく(切り換えられていく)もの。.
 一方、共同体的ギフト・エコノミー・システムは「人間行動の新しいやり方でもなければ、過度の理想主義的な見方でもない。それは歴史 に深く根ざしており、富や金銭の追求よりも人間心理にとってはるかに基本的なものである」(ドラッガー財団刊『未来社会の変革』の書中ギフォード・ビンチョー氏の記述より)。協同組合・NPO(非営利協同組織)など、それにつながる何らかの形態が現実に存在するのである。
 つまり、資本主義も、「必ず見返りをとる」交換経済も、いつまでも当たり前のこととして通用し続けるわけではなく、また共産主義は、旧ソ連型社会主義(実態は国家資本主義)のように国有・公営企業で、政府が立てた国家計画に基づいて官僚が経営を行い、国家に雇われた労働者が労働(ノルマ)に応じて(「見返り」として賃金を)受け取る社会主義でもなければ、現実離れしたユートピアのような机上の空論でもないということだ。

 と思うのだが、如何なものだろうか。


2018年08月17日


2018年08月23日

国連で「朝鮮戦争の終結」を

 朝鮮戦争は、休戦協定は結んでいるものの、いつ再開されるか分からぬまま38度線を挟んで対峙しながら、正式な戦争終結(和平協定)はずるずる先延ばしされて今日に至っている。
 北朝鮮の非核化には、先ずはその朝鮮戦争の終結を確定して、以後再開をしないことを確約することが先決なのではあるまいか。さもないと(いつ戦争再開されるかも分からない状態のままでは)非核化に踏み切るにも、二の足を踏みがちとならざるを得まい。
 とかくすると、先ずは北朝鮮が完全非核化の具体的措置を実行すること、その方が先だといった論調になりがちだが、論理的な筋道からいえば、「戦争(再開)はもうない」といことが確定して初めて「核抑止力はもういらない」となって核放棄に踏み切れるというもの。
 先の南北首脳会談で、戦争終結宣言を年内に行う方向で合意し、米大統領に対してもそれを求めている。
 それにつけても、先ずもって朝鮮戦争の当事者(参戦国)がそろって、それに合意しなければならず、その参戦国といえば北朝鮮とそれを支援した中国、それに対する米韓その他英仏など合わせて16ヵ国もが国連軍として参戦している。だとすれば、休戦協定の際にもそうだったが、協定の調印は、国連軍側は米国が代表して行うとしても、この朝鮮戦争終結については国連の場で(安保理や総会)で協議、終戦宣言採択をやって然るべきなのではないだろうか。

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