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2013年09月 アーカイブ

2013年09月01日

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    埼玉県熊谷市 (国宝)妻沼聖天山歓喜院(めぬましょうでんざんかんぎいん)
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集団的自衛権について(再加筆版)

 そもそも個人の場合は「正当防衛権」―自己保存の本能を基礎に置く合理的な権利(自然権)で、急迫不正の侵害を排除するため実力行使(暴力・武器使用も)。
 国家の場合の「自衛権」も、同様の理屈で、他国による急迫不正の侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利
 安倍首相が新たに任命した内閣法制局長官の小松氏いわく
  「隣家に強盗が入って殺されそうだが、110番してもパトカーが直ぐに来ないかもしれないので隣人を守る」これも国内法では他者のための正当防衛だ。・・・・国際法の仕組みとして同様の制度があるのは、そんな変な制度ではない」と。
 しかし、「正当防衛」には急迫性と相当性の要件があり、今まさに侵害を受けているか受けようとしているという場合に限られ、単に侵害があるかもしれないと予測されるからといって予め武器を用意し待機して迎え撃つというのは、それには当たらず、また過剰防衛も禁じられている。予め「正当防衛」のための武器や防衛体制を整えておくにしても過剰防衛になってはならず、使用してはならないのだ。
 抑止のためといって武器・防衛体制を保持・強化すれば相手も同様に保持・強化し、互いにそれがエスカレートする。それに武器・武力を持つと、対話・交渉ぬきでそれに訴えがちとなり、武器を持ちあえば殺人事件が起こりやすく、軍備を持ち合えば戦争になりやすい。アメリカは市民に武器所持が認められていて殺人事件の最多発国になっており、最大の軍備保有国であって最多交戦国。それに対して最も厳しく銃規制しており、不戦憲法を定めている我が国は武器による犠牲者が世界で最も少ない国になっている、というのが現実なのである。

 国連憲章では武力による威嚇または武力の行使を一般的には禁止(違法とみなす)
 国連の集団安全保障―加盟国のいずれか1国に対する攻撃も全加盟国への攻撃
と見なして制裁措置(軍事的or非軍事―経済制裁など)
 国連がこの措置をとるまでに間(例外的措置)
  自ら反撃(実力で阻止・排除)―個別的自衛権
  自国が直接には武力攻撃を受けていなくても、自国と深い関係にある他の国家が攻撃を受けた場合には、これに対して共同で防衛する権利―集団的自衛権   
国際法上の常識では前者(個別的自衛権)のみが主権国家に固有な権利(自然権)と見なされている
 そもそも国連は、国際紛争はすべて国連の管理と統制の下に置くこととし、加盟各国の武力行使は許さないことを原則とした。「集団的自衛の固有の権利」という言葉は、もともと1945年(ダンバートン・オークス会議)の国連憲章原案にはなかったもので、後で憲章採択(サンフランシスコ会議)の際に、当時、アメリカが中南米諸国を国連加盟に踏み切らせる都合から、アメリカが主導する米州機構の軍事同盟を合理化するために導入され、国連憲章(51条)に盛り込まれたもので、後付けした概念なのだ。(それがNATOや日米安保など軍事同盟を正当化する根拠となった。)
 それに、51条で加盟各国に認めている自衛行動は、安保理事会が必要な措置をとるまでの間の一時的・限定的な緊急措置に留まる例外的措置なのであって、集団的自衛権の保有・行使など、どの国にも普通・当たり前のこととして認められているわけではないのだ、ということ。
 また、それが国際法上の「権利」(「違法」ではないということ)ではあっても加盟国の「義務」ではないし、国内法(憲法)で制約も―我が国では憲法(前文で「政府の行為による戦争の惨禍が再び起こることのないようにすることを決意」、9条1項で国権の発動たる戦争と武力による威嚇および武力の行使を放棄、2項で戦力の保持と国の交戦権を否認)で禁じているのだ。

 当方の解釈―他国の軍勢による侵略・攻撃に対して国は国際法上は自衛権をもつが、憲法はその発動・戦力(軍隊・軍備)の保持・行使する権利(交戦権)を放棄させている。ただし、国民には正当防衛権があり、武装または非暴力による抵抗権がある、と解す。
 これまでの政府答弁―内閣法制局の見解に基づいて―「国際法上は集団的自衛権を保有しているが、憲法9条の下においての許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」(自衛権の発動は「我が国に対する急迫不正の侵害がある」場合に限り、他国に対してある国によって急迫不正の侵害が加えられたからといって自衛権を発動・行使することまで許容してはいない)としてきた。
 
 よく「日本が米軍から助けられているのに、日本はアメリカを助けなくてもいいのか」と言いたてる向きがある。「日米同盟」といっても日米安保条約は日米対等ではないのであって、アメリカは世界最大の軍事大国であり、日本は沖縄をはじめ全土に米軍基地を提供して自衛隊は従属。
 日米安保条約(第5条)は集団的自衛権の行使を「日本国の施政の下にある領域」に限定し、自衛隊は日本にある米軍基地や大使館などが攻撃されたという場合ならば、米軍を助太刀できるが、それ以外にはアメリカ本土が攻撃されても、その他の米国施政権下にあるどこを攻撃されても、自衛隊を派遣して戦わせることはできない、となっている。

 ところが石破幹事長は「憲法には集団的自衛権を明示的に禁止する条文は書かれていない」と(憲法9条は「侵略戦争」「侵略のための武力行使」以外は何も禁止しておらず、何でもできると言わんばかり)。「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては」これを放棄すると書かれており、(自衛権行使は二国間あるいは多国間の国際紛争を前提とし、集団的自衛権の行使は国際紛争を武力で解決しようとするもので)その戦争と武力の行使は放棄すると書かれているのに。
 国連憲章には明示的に集団的自衛権の行使を肯定する条項が書かれているが、日本国憲法には、あえてそれが書かれていない、ということはその行使を認めていないということにほかならないのだ。

 安倍政権は「安全保障環境が厳しさを増している今日」その憲法解釈を見直す必要があり(集団的自衛権は行使できると)変えようとしている。

 政府の有識者懇談会(安保法制懇)―4類型(第一次安倍政権当時、首相自ら提起
―それぞれ集団的自衛権に当たるか否か検討
 ①公海上で共同行動している米国艦船が攻撃された場合に自衛艦が共に戦う。
(そもそも日米が共同行動中に米艦だけが攻撃さるなんて、あり得ないのに)
 ②米国本土に向かう北朝鮮の弾道ミサイルを自衛隊ミサイルが迎撃。
(そもそもミサイルが飛ぶ高度で、日本がそれを撃ち落とすのは不可能。結局は射前に攻撃しなければならなくなり、日本が攻撃すれば、北朝鮮から反撃されることになるのに。)
 ③PKO活動中の自衛隊部隊による外国軍隊への「駆けつけ警護」およびその際の武器使用。
(そもそも国際平和活動で、どこまで任務を引き受けるか。他国並みに武器使用ができないから他国並みの任務を果たせないという発想では「武器が任務を決める」ということになってしまうが、肝心なのは、できる任務は何か、どんな任務を引き受けるか、ということでなければならないのに)
 ④米軍や多国籍軍への後方支援(武器・弾薬の輸送・給油・医療など)
(そもそも相手側からみれば後方支援は武力行使と一体のものなのに)

 北岡氏(安保法制懇座長代理・国際大学学長)の考え―この4つの場合だけを問題にしているわけではなく、全面的に集団的自衛権の行使の禁止を解除する。
  国連の集団安全保障への自衛隊の参加をも認めるようにする。
  武器使用も国際基準に合わせればいい。
  共にする相手を同盟国アメリカ以外にも拡大すべきだ、と。
 安保法制懇では、集団的自衛権に限らず、武力行使そのもののハードルを下げ、多国籍軍やPKO(国際平和維持活動)への全面的な参加も論ず。
  「武力攻撃に至らない事態」―「日本周辺で軍対軍が接近・応酬する場面」「日本の領海に他国の潜水艦が居座る」等―にも対処。(尖閣で繰り返される中国の領海侵犯などを想定、「一つ一つの行為は武力攻撃ではないが、集積することで攻撃とみなし得る」と)。

 それらは、これまでの憲法解釈をさらに拡大解釈して、9条を有名無実にするもの(原理的にはいつでもどこでも武力行使―戦争できるようになる)。

 日本を守る米軍が日本国内で攻撃されれば、現在でも安保条約で自衛隊は反撃の行動をとれる。尖閣の場合も、そこが日本領であるかぎり、そこでの事態は「日本有事の事態」で、個別的自衛権の問題なので、今のままでも自衛隊は、そこで攻撃を受けた米艦のために反撃の行動をとれるのだ。(尚、北岡氏は「核兵器を持っている国があり、日本の領海にどんどん侵入してきている。」「日本が個別的自衛権だけで守るんだったら、核大国にならないとできない。むしろ信頼できる国と助け合う方が、より軍事力のレベルを低く抑えることができる」などと述べている―8月10日付朝日新聞―が、それは、尖閣を死守するためにはアメリカの核戦力を頼み、核戦争も辞さないということか。)
 結局いま集団的自衛権でやろうとしているのは、日本国外で(イラク戦争の場合のように「非戦闘地域」にとどまらず)自衛隊が攻撃されなくても米軍その他を支援して軍事行動をできるようにするということであり、日本を海外で戦争をする国につくりかえるということにほかならない―それこそがこの問題の本質)

 集団的自衛権には濫用の問題がある―それを口実(同盟を結んでいる相手国からの要請に応じるとして)他国への軍事介入・侵攻。
   事例―アメリカのベトナム戦争、ニカラグア侵攻、アフガン戦争
     旧ソ連のハンガリーへ軍事介入、チェコ侵攻、アフガンへの軍事介入

 安倍政権―「好」軍事―国際社会での軍事的役割(「軍事的国際貢献・米軍戦略の補完的役割)の拡大―自衛隊の海外派兵に前のめり
   ソマリア沖での「海賊対処」―ジプチに自衛隊基地
   イラク戦争に「人道的介入」― 一時サマワに自衛隊基地
   シリア?
   軍事費の増額―自衛隊に「海兵隊」部隊、敵基地攻撃能力の強化へ(「離島防衛」を名目に水陸両用車やオスプレイ導入、F35ステルス戦闘機購入
  平和憲法に逆行―「平和国家」ブランド・イメージを損ない、アメリカに追随する「好戦国家」イメージに・・・・被爆国でありながら原発輸出も
  それらは国益を害すもの・・・・アルジェリアでやられたようにテロから狙われる危険につながる。

 と考えるが如何なものだろうか。

県の革新懇に行ってきて思ったこと、考えたこと

 山形県革新懇総会に行ってきました。そこでは主として参院選への取り組みと、その結果について話されました。
 そのなかで、革新懇としては「3目標」(国民本位の経済、護憲、反安保)の観点から本県各候補に公開質問状を送って回答を公表するようにするといったこともあって然るべきだったのでは、との指摘がありました。
 人々からは共産党が舟山候補と反自民で連携すればという声もあったが、その点は第一に舟山候補の側に、近藤議員らTPPや原発・消費税でも意見が食い違う民主党の支援を受け入れ、共産党とは共同で闘う意思がなかったこと。それに「みどりの風」とは安保政策(日米同盟中軸路線)など基本政策で合わないところもあって、任期6年間のあいだにどう揺れ動くか分からないという疑問から同候補との選挙協力には無理があり、今後「一点共闘」でいくしかないと判断した、とのこと。
 それらの話を聞いてきて思ったことは次のようなことです。

 参院選は、自民党が圧勝、共産党が躍進。それは、民主党への失望、それに維新への違和感、「どうせ自民党が勝つに決まってる」との事前予測が投票率を下げ、民主・維新などから離れた票の大半が自民党に、残りが共産党に集まった、その結果だといわれる。(西谷修―東京外語大学院教授―は共産党が票を集めたのは反自民票の受け皿が他にないが故の「一時避難」で、同党の長期低落傾向は止まってはいない、との見方。同党自身も「実力以上の結果だ」としているが、「第3の躍進」の足掛かりとも。) 
 そこで問題は、今回の共産党の躍進が一過性に終わらず、同党が自民党の対決政党(反自民の「受け皿」政党)として多くの人々から信認を得て不動の地位を確保できるようになるには、国民の間に戦前から刷り込まれてきたマイナスイメージや「共産党アレルギー」ともいわれる誤解・偏見・風評を取り除く教宣(説明)が大いに必要となる、ということ。 
 (1)そもそも「共産党アレルギー」はどこから?
 この党は日本の政党としては一番歴史が古い(91年)が、結成と同時に非合法下に置かれ公然たる活動は禁止されていた。その綱領や主張は「主権在民」「大地主・財閥資本家の支配に反対」「反戦」など、天皇主権と地主・資本家の支配体制(国体)にまっこうから逆らうものだったから、国賊・非国民あつかいされて迫害を受け、治安維持法で徹底的に弾圧された。
 敗戦・米軍占領下で民主化が行われ、禁止が解かれて迫害・弾圧からは解放された(49年総選挙では共産党は4議席から35議席に大躍進)。しかし間もなく、列車転覆などの謀略事件(下山・三鷹・松川事件)が起き、それがいずれも「国鉄労組の共産党員の仕業」とされ、折から、ソ連や中国共産党の干渉(武装闘争路線の押しつけ)、それに呼応する派と反対派に内部分裂(「50年問題」)、それらに乗じたマッカーサーと吉田政府によるレッドパージ(職場から追放)にあうも、占領解除にともなって追放は解除され、統一を取戻し、干渉を排除して自主独立路線をとり続けるようになった。
 60 年・70年安保闘争など社会党と共産党が組んで革新共闘で盛り上がり、国政・自治体とも選挙で共産党は躍進した(72年総選挙で38議席、79年総選挙では39議席かくとく)が、80年社公合意(社会党が公明党と組んで共産党を排除)以後、あの手この手の反共作戦で封じ込められ、孤立へ追い込まれるようになった。
 それに、ソ連や中国共産党による革命モデル(武装闘争―暴力革命、革命の輸出―覇権主義)と社会主義モデル(一党独裁と統制経済)が悪い見本となって、共産主義といえば「自由がない」「民主主義がない」というイメージが人々の頭に焼きついた。
 この間、この党自身による微力な(非常に限られた)宣伝・広報手段(機関紙などは戦前は禁止され秘かに「地下」発行)に対して圧倒的なマスコミや多くのメディアによる反共宣伝と俗説の流布が行われ、これらのマイナスイメージがずうっと焼き付けられきた、その結果のアレルギーなのだ。
(2)よく聞かれる俗説
①「共産党」といえば「共産主義」、共産主義といえば「私有財産を認めない」という誤解。
 「共産」とは「共同で生産する」ということだが、それは、生産手段は共有しても、生活手段まで共有するということではなく、生活手段・享楽手段とも私有財産は保障されるということ。
 「共同で生産」ということは、旧ソ連のように国有・国営で国家・官僚が管理・運営するのではなく、生産者・労働者自身が管理・運営するやり方だということ。それに公有・公営だけではなく協同組合など多様な形態があるのだということ。
 資本主義は、生産手段の所有と企業の管理・運営が資本家(株主・投資家など)・企業経営者によって私的に行われるが、それは社会のニーズがあるからとか、労働者に収入を得させるためだけではなく、必要不可欠なのは利潤が得られることで、それが得られなければ成立しない。企業は、競争でリードを保ち追い越されないようにするため、たえず品質改善・製品開発・規模拡大・人材確保に努めなければならず、それらに必要な投資資金を確保するため、たえず最大限利潤を追求しなければならない。それに出資者(株主)に配当・利益を保障しなければならないのだ。だから、人々がたとえどんなに欠乏にあえいでいても利潤が得られなければ売らないし、代金引換えなしにタダで与えるなどというわけにはいかず、あくまで利潤が先行。環境公害防止費用や従業員の待遇改善(賃金アップ)などは二の次で、利潤を最大限確保するため、むしろそれら(環境コストや賃金コスト)を節約し抑えようとするので、環境公害と賃金(購買力)抑制が絶えず付きまとう。そして個々の私企業がてんでに最大限利潤をあげるべく競争しながら生産・販売を行うため、全体として生産過剰になり、(値下げしても売れ残り)恐慌や不況が避けられないことになる。
 労働は本来、人間にとって自己実現活動であり、喜ばしいものであるはずなのに、資本主義企業では労働の成果は資本家の手にわたってしまい(生産物は商品として売りさばかれ、儲け―利潤は会社と株主の手に)、労働者は一生懸命働けば働いただけ自分のふところが豊かになるわけではなく、働けば働くほど(サービス残業など)かえって辛い苦役となってしまうことにもなるのだ(労働疎外)。
 このように資本主義にはそもそもからして矛盾・不合理が付きまとうので、いつまでも最適な経済制度であり続けることなどあり得ず、いずれ社会主義(個人本位でなく社会本位)や共産主義のやり方に変わらざるを得ないのだということ。 
②「共産主義は独裁政治で自由がない」という誤解。
 そもそも共産主義(コミニズム)がめざしているのは「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会(コミュニティ-)」「人間の自由の全面的な実現を本来の特徴とする共同社会」であり、あらゆる束縛・抑圧・搾取・差別・暴力・戦争からの人間の解放なのである。 
 平等を重視するが、それは個々人の自由・人権が万人に等しく保障されなければならないと考えるからである。
 旧ソ連や中国・北朝鮮などで行われてきた一党独裁のやりかたが、社会主義・共産主義のイメージを貶めてきたが、日本共産党の考えでは、これらの国のやり方は本当の社会主義・共産主義とは無縁のものであり、自由と民主主義こそが社会主義・共産主義の命であるという考え。反対党を含む複数政党制も選挙による政権交代制も当然あって然るべきだというのが、その考え方。
③「暴力・怖い」イメージ
  革命といっても、民主主義の遅れた国で強権政治・圧政下にあった国で、実力行使(暴動・武装蜂起)に訴えるしかなくて行われたロシア革命や中国革命のような「暴力革命」路線はとらずに、言論の自由や法の支配、議会制度・選挙制度など民主主義の発達した我が国では、あくまで平和的・合法的な革命(議会の多数を得ての革命)をめざす、ということ。
④「独善」「なんでも反対」「万年野党だから何でも好き勝手なことが言える」といった誤解。
 実際は、国会では6割以上の法案に賛成(先の国会では、出された法案の57%に賛成)。
 しかし、戦前来、侵略戦争・圧制・強権政治などには弾圧・迫害に抗して頑強に反対(だからこそ「お上」の言うことに逆らうのは「非国民」と思い込んでいる人たちからは嫌われる存在だったのだ。)今は改憲・原発再稼働・消費税増税・TPP参加などには「ならぬことはならぬ」とばかりに徹底して反対している。反対するにしても、建設的な対案を示したうえで反対しているのであって、けっして「反対のための反対」ではないし、それに、それらには、国民の多くも反対しているのであって、けっして「独りよがり」「好き勝手」などではあるまい。
 同党は革新懇のような基本目標(3目標)で同調する無党派の人々との共同や、保守の人も含め基本政策や立場の違いはあっても、憲法・原発・TPPなど個々の問題で一致する人々や諸党派・諸団体との共同(「一点共闘」)に努めることを基本方針にしており、けっして「独り我が道」ということにはならない。
⑤「のけ者」イメージ―いつも「蚊帳の外」
 1980年社公合意(連合政権めざす)―社共の革新統一を分断、共産党排除へ
それ以後なにかにつけて「共産党を除く野党協議」「非自民・非共産連合」あるいは「共産党を除く与野党協議」などと共産党だけがのけ者に。(共産党はやむなく無党派と革新懇を結成へ)

 その他いろいろあるだろうが、これらの誤解や偏見を解き、マイナスイメージ・風評を払いのけ、人々に本当の考え方と実態を大いに知らしめ広めなければなるまい。それにどれだけ成功するか、それこそが、同党が今後長らく自民党に対する対決政党として最有力の地位を保つうえで、カギとなるのではあるまいか。

 これからまた「野党再編」・新党結成・対自民「非共産連合」・自民vs非共産の「新二大政党」など新たな「受け皿」を作り出し、共産党に対するネガティブ・キャンペーンの展開と合わせて反自民票が共産党に向かわせないようにするあの手この手の反共作戦・共産党封じ込め策が講じられるだろうが、それにどれだけ抗しきれるか。

 改憲派は自民党をはじめ維新・みんなの党など、その勢力は圧倒的だ。それに比べて護憲派は(かつて社会党は自民党に対抗する野党最大勢力だったが)社民党は細る一方。こうなると共産党に賭けるしかないのでは、とも思ったしだいなのですが如何なものでしょうか。

2013年09月10日

東京オリンピック誘致「祝勝」に思う(加筆修正版)

 20年オリンピック東京開催決定、「祝勝」「圧勝」(イスタンブール、マドリードに対して)、「日本国民が一つになって」「オールジャパンで勝ち得た」というわけ。
 テレビは、それで一色。「ヤッター!」と言って大喜びしている人たちだけが映っている。まさに日本中が沸き立っているかのようだ。
 IOC総会プレゼンテーションでの安倍総理の発言が効を奏したというわけだ。フクシマについては「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は港湾内に完全にブロックされている」「抜本解決のプログラムを私が責任をもって決定し、着手している」「7年後の20年には全く問題ない」と胸を張って言い切ったもんだ。
 漫画家のやくみつる氏―「これまで首相が、国民に向かってあのような自身に満ちた話をしたことがあっただろうか」「現実逃避にならないようにしてほしい」と。
 京大原子炉実験所の小出裕章助教―「何を根拠に、状況はコントロールされているなどと言えるのか分からない。あきれた。安易な発言をしても約束をやぶることになるだけだ」と。(汚染水は現在「打つ手がない」のが実態なのに。)
 オリンピック東京誘致は、尖閣国有化のきっかけとなった島の購入計画を思いついたのと同様そもそも石原前知事の思い付きから始まったもの。それは、戦争と同じく、国民の関心を様々な問題からそらせ、考えないようにさせ、忘れさせて「心を一つ」にさせる効果を狙える。その他にも様々な政治的・経済的効果が得られる、という思惑がからむ。
 「勝利」というが、それは安倍首相や猪瀬知事・石原前知事ら政治家と彼らを支持している国民「多数派」の政治的勝利。「アベノミクス」が「アベノリンピクス」とまで言われるようになった。何兆円もの経済波及効果国威発揚―ナショナリズム(「日の丸・君が代」に熱狂する愛国主義)の高揚には、それが効果抜群。
 要するに、これによって莫大な政治的・経済的利益にありつける政治家・建設・不動産・観光・ホテル業などの業者、それらとの資材・商品の第1次取引・第2次取引にあずかれる中小零細業者とそれらの従業員にいたるまで、多くの庶民にとってもメリットになるには違いあるまい。
 しかし、それらとは何の関わりもなく取り残される、こちとらのような無関係者も少なくあるまい。
 いずれにしても消費税増税反対や実質改憲(集団的自衛権の行使容認)反対、原発の再稼働・輸出反対などの庶民の声はかすみ、かき消されていくのか。福島の被災者は「置き去りにされる」と悲しんでいる。
 スポーツ愛好者・アスリートたちにとってはオリンピックはどこで開催されようと大歓迎であり、こちとらだってオリンピックはどこであろうとも日本人選手を応援し、勝つと喜ぶ。オリンピックには理念(オリンピック精神というもの)がある。しかし、それを利害損得に結び付けてしか考えず、自国・地元開催に執着し、ロビー活動など誘致合戦で、自国の恥部(原発公害)をひた隠しにし、他国をだしぬいて(猪瀬都知事などはイスタンブールをさして「イスラムはケンカばかりしている」と発言してひんしゅくをかったが、そこで反政府暴動が起こって内心「それ見たことか」とほくそ笑んだか?に思われ)、(イスタンブールは治安・安全への不安、マドリードは経済危機・財政不安などの)敵失で「勝った勝った」と喜ぶ厚顔は、どうしても好きになれない。かつて言われた「エコノミックアニマル」との汚名をまたかうことになりかねないではないか。当方などはトルコ旅行に行ってきたこともあってイスタンブール(そこで橋やトンネルの建設にあたっていたのは日本のゼネコンだったが)に譲ってやればよかったのに、などと思ったりしていたものを。
 選手・競技者だったら(開催地がどこであろうと)「勝って」メダルをとったら報奨金がもらえるが、負けてもスポーツマンとしての自らの才能と努力の成果(鍛えた心技体)と目標の達成感が得られる。一方、国と都市が開催地誘致合戦で(世界中でただ一国一都市だけが)「勝って」得られるものは政治的・経済的利益(「票」と「カネ」。国威発揚とオリンピック特需によるビジネス・チャンスと利得)で、それが国民・市民にも及び、その恩恵・「おこぼれ」にありつけて喜ばしいことには違いない。しかし、誘致合戦に負けた国と都市はそれへの財政出費がムダ金・損失となり、国民・市民はダメージを被り悲運・失望に打ちひしがれることになる。今回誘致合戦に負けたその2国をはじめとして、他のすべての国・都市にとっては何の利益も恩恵もない。誘致合戦に勝って、世界中で日本人だけが恩恵・利益を独占することになる。オリンピックのこのような誘致合戦は一国一都市だけの自国・自市エゴ(エゴイズム)を満足させるやり方。そのようなやり方は、オリンピック精神とは全くマッチしない(そぐわない)やり方というしかあるまい。(朝日新聞の「声」欄に「複数国で開催してはどうか」という投稿があった。開催地を国単位ではなく地域ごとにして、アジア・アメリカ・ヨーロッパ・アフリカなど世界をいくつかのグループに分け、開催地はまずグループを決める。そしてグループ内で競技種目ごとに開催国を複数選ぶ、というもの。そういったやり方の工夫・改善があって然るべきだろう。)
 誘致合戦に勝って幸運を射当てた国と都市の国民・市民は(今回われわれ日本国民はオリンピック特需で景気回復・震災復興など自国の国益にばかり気をとられるのではなく)、せめて他国すべての国々の国民への思いやりの気持ち(利益を分かち合う精神)を持たなければなるまい(「オリンピック・ムーブメント―スポーツを通じて世界平和をめざす」などと口で唱えるだけでなく、また日本に来ておカネを落として行ってくれる外国のお客様に「おもてなし」などといったことばかりでなく、国が貧しくて或は争乱でオリンピックに選手を送ることが出来ない国の人々に支援・和平の手をさしのべる等)。利益を独り占めして自分だけ喜ぶのではなく、トルコ国民とイスタンブール市民、スペイン国民とマドリード市民をはじめ、すべての国・都市の国民・市民をも慮る(おもんばかる)ことを忘れてはいけない。シリア・パレスチナ・エジプト・アフガン・イラク・北朝鮮など諸国民の不幸を置き去りにしてはいけない。なのにマスコミや首相・都知事らのはしゃぎぶりをみていると、どうも。ただ単に「日本が勝った、よかった、何兆円もの経済効果が見込まれてよかった、日本国民に夢と希望が得られてよかった」などと専ら自分の国のことばかりで、他国民のことを慮ることがなく、オリンピック精神にはどうも程遠い。日本人は自国本位で他国民の悲運や不幸を意に介さない国民なのか、なんて思われたくないものだが、そんなことを感じてるのは当方だけだろうか。

 もっと以前、ヒトラーの時代にはベルリン・オリンピックがあって、ヒトラーはそれを国威発揚、戦争準備につなげて最大限利用した。その4年後(1940年)の開催地は東京と決まっていた。しかし、大日本帝国は1937年に日中戦争に突入して、それを返上し、1941年には太平洋戦争に突入した、という歴史があったことなども、世界史をかじったものとしてはどうしても考えてしまう。オリンピックを政治や経済的利害にからめて利用するようなことはあってはならないと思うのだ。

 そんなむずかしいことを考えずに「素直に喜べばいい」ではないか、「このひねくれ者」あるいは、もしかして「非国民」とさえも呼ばれそうだが、自国の歴史の暗部や原発の恥部を素直に認めようとしない政治家のおかげでオリンピック誘致を「勝ち得た」からといって、素直に喜んでなんかいられようか
 とにかく安倍自民党政権と猪瀬都政は7年後までも安泰ということになる。その政権下で消費税増税に耐え、原発もTPPも集団的自衛権の行使も基地問題も改憲問題も余計なことは心配せずに、ひたすら東京オリンピックをめざして黙々励み、皆に合わせて「日の丸」を振り、「君が代」を唱っていればいいのだ、となるのか。「五輪ファシズム」が怖い!

2013年09月11日

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埼玉県行田市  さきたま古墳公園内 稲荷山古墳(金錯銘鉄剣が出土した前方後円墳)
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                同じ公園内 丸墓山古墳(円墳としては国内最大)

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            米沢市 小野川温泉の近く
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2013年09月15日

五輪で必要なのは諸国民を思いやる心

 五輪の招致合戦に勝って日本国民は喜びに沸き立っている。東京で自国選手の活躍とそれを生で目の当たりにできる楽しみ。子供たちや若者に夢と希望。デフレ脱却への経済効果。震災復興のはずみにもなる。アピールしたのは日本人の優れたサービス精神「おもてなし」。懸念はフクシマ原発事故の収拾だが、それも首相が「大丈夫だ」と国際公約してくれた。
 テレビなどマスコミの多くが報じているのは、こういった自国の国益と自国民にとって都合のいいことばかりのようだが、オリンピック開催の意味は、それを通じて諸国・諸地域の代表選手が一堂に会して競技・交流し、友情と連帯・世界平和の促進をはかることなのであって、自国民だけがいい思いをして喜んでいればいいというものではなく、不可欠なのは他の諸国民に対して思いやる心。
 世界の諸国・諸地域の中には、様々な欠乏や対立・争乱に直面し、悲惨な状況に置かれている多くの人々がいて、オリンピックに選手を送るにも思うにまかせない国がいくつもある。そのことに思いを致し、そういう国や地域で人道支援事業にあたっているNGO、中には紛争地で武装解除に当たっているNPOさえもあるが、苦難にあえぐ国や地域の人々と、それに手をさしのべて一生懸命頑張っている人たちにも焦点を当てた報道や論評があってもいいのではあるまいか。

2013年09月20日

現行憲法と自民党改憲案とで、どちらが安全保障に適しているか

 安全保障とは①攻撃・侵害されないこと、②国民の生命・財産が攻撃・侵害から守られること。
 そのためには軍備・軍隊(交戦権もつ)・軍事同盟(集団的自衛権の行使が出来る)を持つのと、持たないのとでは、どちらが適しているか、或いは危険か―どちらが攻撃されないか、どちらが生命・財産が守られるか(破壊・殺戮が無くて済むか)、である。

 現行憲法では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持することを決意し」、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する」(国際紛争は平和的外交手段によって解決する)、「陸海空その他の戦力は保持せず国の交戦権を認めない」として軍備などは持たないことにしている。そこには「敵をつくらない」という考え方があり(「安全保障の要諦は敵を減らすこと」―軍事ジャーナリストの田岡氏)、当方にはさらに「軍備を持たず、攻撃意志を持たないことによって、他の諸国民の安全をも保障する」(個人レベルでも、互いに自分が武器を持たないことによって、互いに安全を保障し合う。我が国では国民は皆そうしていて治安が保たれており、世界でも有数の安全国になっている。それにひきかえ、市民に互いに銃を持ち合うことを認めているアメリカは銃による犠牲者が世界で最も多い国になっている)という考え方がある。
 一方、自民党改憲案では「国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」としながら、「国防軍を保持する」として、戦力を保持し国の交戦権を認め、軍備の保有、軍事同盟(集団的自衛権の行使)など全て認めるようにしている。
 自民党政権は、以前から米ソ冷戦で、自衛隊と日米安保条約―日米同盟体制の下に軍事を増強してきたが、それはソ連・中国・北朝鮮を敵視する(仮想敵国とみなす)ものだった。それを現在に至るまでも続けてきて、相手の国々の同様な日米敵視・軍備増強を招いてきた(「お互い様」なのである)。
 そこで、このような現行憲法と自民党改憲案とで、安全保障にはどちらがより適しているか―どちらが安心・安全で、どちらが危険か―である。

 朝日新聞の「声」欄に「憲法、現実に即した条文に」という、改憲を「歓迎」する投稿があった。「警察予備隊から自衛隊へと衣替えして以来」、「自衛隊は強化され」てきた。「自衛隊という戦力を保持しているのは明らかに憲法違反」。「現在の憲法9条は自衛権を無視した『夢物語』であり、現実の状況と共存出来ない」。「憲法改正に手をつけず温存することは、もはや限界」であり、「現実の状況に即した条文でなければならない」というものだ。

 それに対して、作家の森村誠一が「現実が不戦憲法を裏切った」との反論を寄せていた。
それは、「憲法が古びたのではなく」、「戦争を知らない世代の人口を踏まえた現実が変わったのです。」「つまり、現実が戦争の悲惨さと犠牲を忘れて悪化したのであって、憲法が時代遅れの夢物語になったわけでは」ない。「現実がタカ派政権によって操作されているのです。」「不戦憲法が最大限の妥協をし、国民感情が自衛隊と協調するようになった」が、「憲法は国家・政権が暴走しないためのブレーキです」というもの。

 そこで当方が考えたのは次のようなこと。

 現実―安倍首相らが「我が国の安全保障環境が悪化している」と称する状況
     中国の「脅威」―軍備増強、尖閣問題(←日本政府が島を国有化)
     北朝鮮の「脅威」―拉致問題、核・ミサイル(←冷戦・米と日韓の脅威)
               軍事的対決政策をとっているが、その軍事力は日米韓に比べれば極めて貧弱で、核を持つのは攻撃を受けないためで、それに攻撃を加えれば自暴自棄的に反撃するだろう、それが脅威。
     シリア―内戦(政府軍・反政府軍)―化学兵器使用
     イラン―核・ミサイル開発(←アメリカ・イスラエルの脅威)
 これら現実の危機的状況をもたらしたのは、そもそも日本の立場からすれば平和憲法(軍事制限)か、それとも日米同盟に基づく軍事的対決政策か?
 それはどちらなのかといえば、むしろ軍事的対決政策によって作り出されたのでは
 憲法で軍事が制限されているとは言っても、今の日本は核兵器・ICBMなど以外はほとんど保有しており、アメリカと同盟して核の傘に入れてもらっている(アメリカの核戦力を利用している)。
 戦後、「自衛隊」の発足、日米安保条約の締結以来ずうっと、軍備は増強され(海軍力は自衛隊単独でもアメリカに次ぐ)、外交・軍事ともアメリカに追従し、平和外交のイニシャチブは全く発揮することなく、軍事偏重を続けてきた。(ただ朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争・イラク戦争などに際して参戦は憲法によって禁じられ、湾岸戦争では資金支援と掃海艇の派遣、アフガン戦争では給油艦のインド洋派遣、イラク戦争では「非戦闘地域」への「人道復興支援」、兵員・物資輸送など後方支援にとどまった―そのため自衛隊は1人の犠牲者も出していない。)
 国民の間でも、タカ派には現実の戦争を知らずに、軍隊や兵器の勇ましさ・かっこよさ・痛快さ、日米同盟の絆、トモダチ作戦、「美しい日本」・「強い日本」など綺麗ごとやゲーム感覚で、それこそ「夢物語」を描いている向きが少なくないのでは。
 ある防衛省幹部は、(憲法解釈を変え集団的自衛権の行使を容認する動きに懸念を示して)「普通の軍隊を持つまともな国になりたいという理念が先行している。中国や北朝鮮にどう対応するかという目下の課題にもっと集中してほしい」と(8月3日の朝日の記事)。つまり解釈改憲(自衛隊の集団的自衛権の行使容認)であれ、明文改憲(自衛隊の国軍化)であれ、それらはむしろ、自衛隊を「普通の軍隊」にするという「理念」を先行するもので、「目下の課題」即ち「現実の状況に即したものではない」ということを指摘したものと見られる。

 これらの危機を打開し問題を解決するには、軍事的強硬策か、国際道理に立った平和的外交的努力に徹する非軍事的方法か、それとも軍事・非軍事両用か、どれが最も現実的な解決法か?
 これらのうちどれが攻撃を招かないか、どれが犠牲者を出さず、破壊・殺戮が無くて済むか
  尖閣沖で自衛艦が中国艦にレーザー照射されたということがあったが、その時のことを自民党の片山さつき議員は「9条がなければ撃っていますよ」と発言したそうである。それは9条なんかがあるから、我が方は手も足もでず、されるがままに耐え忍ばなければならないのだと、平和憲法を恨んでの発言なのだが、もし9条がなくて撃っていれば交戦になり、戦争になっていたかもしれない。戦争になったら、どうなるか。勝てたか、(軍事作戦には)勝てたとしても、それで国民の生命・財産が無事守られ、傷は軽くて(犠牲や損害が軽微で)済むなんて、そんなわけはないだろう。それをくい止めたのは、まさに9条にほかなるまい。それが現実。(尚、自衛隊と米軍で「離島奪還訓練」などやっているが、アメリカは中国との緊密な経済相互依存関係を犠牲にして日本の「尖閣死守」のため米兵を犠牲にさらすようなことはすまい、というのが現実。)
 軍事的強硬策―武力による威嚇または武力行使は、相手をも同様な軍事的強硬策をとらせ、対決・軍事衝突・戦争を誘発し、かえって悲惨な結果になってしまうのでは?
 軍事力は相手からの攻撃を抑止するためのもの(抑止力)だといっても、その強化(自衛隊の国防軍化)は、相手に対して不信・疑心暗鬼を与え、いくら対話を求め、交渉を進展させようとしても、それ(軍事力・強化)がかえって解決の妨げ・障害になるのでは。森村氏は自衛隊が「国防軍に昇格すれば」、「戦争誘発力」ともなると。
 20年前、アメリカで留学中の日本人高校生射殺事件があったとき、その日本人高校生はハロウィンパーテーの訪問先を間違えて入っていこうとした家の人から不審者と見間違えられて撃たれたのだが、もしその家の人が「銃を持っていなければ、まず言葉をかわしたはず」と言われる。武器や軍備を持てば、武器や軍備を持てば、、どうしても力に頼り、話し合いや協議・交渉を尽すことが疎かになりがち。これまでの日本政府のやり方がそうだ。お互い様で、中国や北朝鮮など相手側もそうだが、対話・協議・交渉に入ろうとせずに突っぱねる(尖閣については、日本側は「日中間に領土問題は存在しない」と言って交渉をつっぱねている)。そしてそれを相手のせいにする(「むこう側が~する方が先だ」などと)。

 要するに、危機的状況を打開し、平和を回復するには、現行憲法(非軍事・平和外交に徹するやり方)と自民党改憲案(軍事に依存するやり方)とで、安全保障上どちらが適しているかであろう。

2013年09月26日

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火の鳥       9月29日午後5時18分 米沢駅のホームの外れから撮影
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いつか見た(確かに見た)夕焼雲
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