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2013年01月 アーカイブ

2013年01月01日

1月のつぶやき(上に加筆)

●大鵬が亡くなった。当方とタメだったんだな。樺太で生まれ、幼くしてウクライナ人の父親と離れ離れ。終戦直後母親と命からがら北海道に渡って道内各地を転々。転校を繰り返し、貧しく納豆売りをし、いじめにもあいながら子供時代を過ごしたという。柏鵬時代は、当方は柏戸の方を応援したものたが、柏戸は16年前58歳で亡くなっている。大鵬の方はずうっと健在だったと思っていたが、引退して5年後に脳梗塞で倒れ、その後遺症を引きずってきてたんだな。死因は心臓不整脈の一種らしい。
 
 もう一人、お婆ちゃん詩人の柴田トヨさん。101歳、特別養護老人ホームで、老衰で逝かれた。詩集「くじけないで」をもう一度読んでみた。こんな詩があった。
 『神様』
「昔 お国のために と 死に急いだ若者たちがいた
今 いじめを苦にして 自殺していく子供たちがいる
神様 生きる勇気を どうして 与えてあげなかったの
戦争の仕掛人 いじめる人たちを 貴方の力で 跪かせて」
 『返事』
「風が耳元で 『もうそろそろ あの世に行きましょう』なんて 猫撫で声で誘うのよ
だから 私 すぐに返事をしたの 『あと少しこっちに居るわ やり残した事があるから』 風は困った顔をして すーっと帰って行った」
       今回の「返事」は・・・・・だったのだろうか
●新聞に「体罰問題、部活動指導者に聞く」という記事。「東京都の40代の柔道部顧問は『親が子に手を上げるのと同じ。真剣に向き合えば、100回叱るより効果はある』と話」していたと。
 「1回で聞かなかったら1,000回でも話して聞かせればいいんだ」と言っている女房に「この話、どう思う?」と訊いたら、「そういう考えだから、戦争になんなだべや」という。
 そういえば尖閣の領海にちょくちょく入ってきてる中国の艦船に対して、海保はその度にスピーカーで警告を発しているが、一発砲撃を食らわせたらどうなるか、その方が100回警告するよりも効果がある、と言ってるみたいなものかもしれないな。
●新聞に教え子(65歳)のS君の投稿が載っていた。最高裁裁判官の国民審査について。「今まで全て無印」「裁判官がこれまでどのような裁判に関わったかなど知るすべもない。ほとんどの人がよく分からず判断しているのではないかと思う。」「選挙民の大半は困惑しているのが現状ではないか」と。 その通りだ。事実それで免職になった裁判官はゼロ。当方もずうっと以前からそれを感じていたのだが、その仕組み・投票用紙の記入の仕方なども全く改善されることなく、マスコミでも(議員選挙のほうは盛んに取り上げられ報道されるが)裁判官の国民審査のほうは、それが取り上げられることはいたって少ない。今回は、朝日では、投票日前、社説は一回だけ、記事も1~2回、投稿は一つ(「違憲状態 助長する人に『×』を」というもの)、それに「一人一票実現国民会議」なるものの意見広告が数回載っただけ。あとは投票日間際に選管から配られた審査広報だけ。(当方は、それらを見て裁判官が「君が代」などに関する職務命令をどいつもこいつも合憲と判断していることなどで全て×にしてきた。)
 投票後は、朝日の「声」投稿が一つ(「儀式化した裁判官国民審査」―「信任されるためのシステムとしか思えなかった」というもの)出ているだけ。
 S君の投稿は山形新聞にちょくちょく載っているが、アッパレ!いいところをついているよ。
●女房が、娘が孫にイライラしながら乱暴な対応をする時があるのを口説いて、「三四回ばかり聞かなかったぐらいで切れたりしてはいけない。千回でも繰り返し口で言って聞かせればいいんだ」と。娘が
返した言葉は「千回も言ってなきゃならないんだったら、その間お母さんは死んじゃうんではないの」という憎まれ口。バカ娘!
 かくいう私は、高校教師だった在職中は生徒を怒って「はたき付ける」ことも、たまにはあったし、我が子を「折檻」することもあった。去年は孫を泣かせたこともある。
 高校運動部での体罰事件が起きているが、それに関して元ジャイアンツの桑田が「中学まで毎日のように練習で殴られていた」が「私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありま背ん」と言って、「体罰不要」論を説いていた(朝日)が、なるほど尤も。えらい!
●米沢で雪下ろし事故―医院の院長が亡くなられた。当方と同じ歳、当方がつい先月、孫と一緒にインフルエンザ予防の注射を受けに行ってお世話になったばかり。
 早朝、院長が自ら車庫の雪下ろしをしようと、スノーダンプをかついで梯子を登って2メートルの高さから転落。原因は「くも膜下出血」とのこと。
 学校や幼稚園の校医を務め、様々な方面で多くの方々がお世話になっていただけに痛ましいかぎりだ。
 それにつけても、高血圧や糖尿などにストレスを抱えながら、寒中に頭や身体に無理を強いて「くも膜下」などに襲われることのないよう、くれぐれも気を付けなくてはならないな。
●元日の朝日新聞に「日の丸を掲げたい街―官民を挙げて掲揚に乗り出した市や町がある」として石川県中能登町・鹿児島県垂水市・大分県津久見市3市町でのその状況を報じていた。
 中能登町は日の丸の掲揚率日本一を町の目標にしており、日の丸購入の呼びかけを強める方針。「日の丸を掲げていない家の主婦は周囲に目をやって声を潜め」て「わざわざ買うつもりはないけど、旗を掲げている家を見ると負い目みたいなものを感じますよ」と。町民の冷たい目を感じる、そのような居心地のわるい街には住みたがらない人もいるだろうに、そんな町に発展性はあるのだろうか。
 津久見市の副市長は「教育基本法は『国と郷土を愛する』を目標に掲げている。公教育は法律に従ってなされるべきだ。イデオロギーの問題ではない」と。そもそも副市長や教育委員会など行政当局は教育の条件整備を事とし、教育の指導内容や教育法に口を出すのは越権行為であり教育への「不当な支配」に当たるはず(前の安倍政権の下で改定される前の教育基本法ではそうなっていた)。そもそも法律で特定の歴史観や国家観・価値観などイデオロギーを押し付けるのは違憲。日の丸・君が代を教員や生徒に強制するのは特定のイデオロギーの押し付けであり、法律や職務命令に従う従わない以前の問題。
 米沢でも当方が住む町の隣の町内では、祝日というと軒並み日の丸を掲げているが、町内会でそんなことを決めていいのだろうか。
 再び安倍政権それに石原・橋下らの先駆け・加勢で、そのうちどの町内でも、或いはどの学校でも日の丸を掲げ、君が代を起立斉唱しないと「まずいことに」なるのだろうか。
 そんなことになったら北朝鮮と本質的には同然ということになってしまう。イデオロギーの自由と多様性が無くなり、窮屈で住み難い国、住み難い町、学び難い学校になってしまう。納税義務を果たし、「ふるさと応援寄附」もし、法規を守って住んできたのに、村八分(のようなもの)にあって出ていくしかなくなるのか。悪い夢で済めばいいが。
●紅白を聞き流しながら、12年最後の新聞切り抜き、一片づつボールペンで日付を記入(分類して紙袋に)、「12.12.31」と。
 そのうちの一枚に「12年世相カルタ」が載っていた。その中から3句紹介。
 「(を)おかしいよ、4割台で議席8割」
 「(ふ)不安倍増 安倍晋三」
 「(し)”自由”の国は銃の国」          なるほど・・・・・・
  
 紅白も、いくつか目を止めた。
  「ヨイトマケの歌」 美輪あきひろ。 どんなかっこうで出てくるのかと思って目をやったら、まとも。
 じいっと聴き入った。やはり「じーん」ときた。
  それは、いつか夢の中で、なにかの集会に集まった大群衆が歌った労働歌だった(そう聴こえた)。涙目を覚まして気が付いたら、その歌は「ヨイトマケの歌」だったのだ。

 紅白が終わるとNHKは「ゆく年くる年」で、各地の寺の除夜の鐘とともに初詣の紹介。陸前高田の寺に新しく建てられた地蔵堂の母子3体は津波でなぎ倒された松原の松の木で彫られたとのこと。いつか子供らと行って初詣してきたことのある鎌倉の鶴岡八幡宮の銀杏の大木は大震災の前年、暴風で倒れ、根本だけが残った、そこに芽が生え出て葉をつけたという。
 0:00を回って間もなく、新春最初のニュースは安倍総理の年頭会見。「デフレと円高からの脱却で経済再生・復興、教育・外交にも全力を挙げて取り組む」、「領土・領海を断固として守り抜くため、国境離島の振興・管理・警戒警備の強化を進める」との談話。その後には尖閣の海の映像に「9月の国有化決定以来20回目の中国監視船の一時領海侵入」というニュースだった。
 今年は東シナ海波高しの年になるのか。

安倍自民党の支持基盤―ヤンキー?(最後の方に加筆・修正版)

 国民はABCDの4層に分類されるという。小泉内閣が「郵政選挙」前、「メディアを使って選挙戦をどう戦うべきか」という分析を頼んだスリードという広告会社が考えたもの。
 A層は政治家・有識者・大手メディアの人間など社会的地位が高く、IQも高く、小泉構造改革への関心が高い層。
 B層は主婦層・若者層・高齢者層など大衆で、比較的IQが低く、マスコミ報道に流されやすい層。具体的な政策よりも人気によって政治家を支持する傾向にある。
 C層は、IQは高いが、小泉改革に慎重な層。
 D層はIQも小泉改革への関心も低い。

 経済アナリストの森永卓郎氏によれば、B層は「郵政選挙」における小泉政権の支持母体、「政権交代選挙」における民主党の支持母体にもなった、という。

 しかし、ここでIQの高い低いを基準にしているのには違和感がある。それを言うなら「見識」の高い低いと言い換えた方がよいのでは。
 そのように考えた場合でも、安倍自民党の支持基盤はやはりB層

 それから、12月27日付の朝日新聞のオピニオン欄に「ふたたび安倍政権」と題して精神科医の斎藤環氏と漫画家の小林よしのり氏の見解が載っていた。
 斉藤氏によると、安倍自民党の支持基盤はヤンキーで、いわば自民党はヤンキー政党だという。
ヤンキーの特徴は反知性主義・気合主義・決断主義・行動主義(それに当方が付け加えるならば「ケンカ好き」)。
 「理屈をこねる暇があったら行動しろ」「気合をいれて自立するんだ」「決断と実行だ」
というわけで行動力は旺盛だが、長期的スパンで物事を考えたり歴史的思考が苦手なので短絡的な判断をしがちだという。
 地元に残り、祭りの担い手で地域の顔役になり地方議会の議員になって自民党とつながることになる。
 若者の特徴として正義感に燃えるところから、彼らなりの(不十分な認識の範囲内で)「○○許せない」、「○○○許せない」と敵対行動に向かいがち。そして反中・反北朝鮮・反サヨクにかりたてられる。
 

 秋葉原で安倍総裁の街頭演説に日の丸を手に集まって「ぶっつぶせー!ぶっつぶせー朝日」「国賊」「売国奴」「中国と北朝鮮の手先」と叫ぶ。そこで安倍総裁は「国民の本当の声はここにある」と呼応する。これらの若者が安倍自民党の一つの支持母体となっているのだ、というわけ。

 小林氏は、かねがねアンチ朝日で反サヨク・反「自虐史観」論者のはずなのに、朝日からインタビューを受けて意見を寄せている。彼によれば「ネット右翼」は、「小泉構造改革の影響で激増した仕事につけず人間関係で孤立した若者、そんな人々の一部が『誰からも必要とされない無価値な自分』に履かせるゲタとして愛国心を使い、『自分はそうでない人々より価値があるのだ』と他人をたたいて憂さを晴らしている」。それがネット右翼で、安倍氏は、そのようなネット右翼ともたれあっている、というのだ。

 「ABCD4層」論でいうと、自民党や維新の会の支持母体になっているB層に、このヤンキーとネット右翼が入っている、というわけか。

 彼らは親権力(権力寄り)
 しからば、彼らの勢いに対して,反権力であるサヨク(リベラル)は何故弱いのだろうか?なぜ「ネット右翼」だけで「ネット左翼」は無いのだろうか?
 C層(知性派)は何故ニヒリスティックに選挙を棄権するのか?
 なぜ?

 よくわからないが、それにはマスコミのせいもあることは確かだろう。
 マスコミが視聴率や購読部数を稼ぐ対象はマジョリティー(多数派)であり、彼らによって選ばれた政府寄りか、野党第一党(準政権党)寄りになるのである。
 今回の選挙期間中もその前も後も、マスコミは徹底して自公民(2大政党+1)、それに「第3極」なるものの話題性から「維新の会」、途中から出てきた「未来の党」などだけを取り上げ、他は取り上げないか、わずかしか取り上げない。他の小政党はどうせ政権には関わらないからというわけである。
 そして記事やニュース解説は、大半が政権の枠組み(自民・民主のどちらが中心か、どの組み合わせになるか)、野田・安倍のどちらが首相にふさわしいかなどの政局報道がほとんど。
 それに「競馬の予想屋のような」選挙予測や世論調査を(「自民党大勝の見込み」などと)繰り返し、「勝ち馬」意識を煽る。これはメディアが望む政権に導く世論誘導でもある。

 このようにマスコミに問題があることは確かである。
 しかし、マスコミからあまり取り上げてもらえず出演の機会が少ない政党やその支持者は、それを口説いているだけで、自分の非力さを他のせいにしてばかりいてもしようがないわけであり、自らの発信力・アピール力とその方法をなんとかして研究・工夫し鍛え広げるしかないわけである。(機関紙だけでなく、インターネットTVの放送局を開設するとか。)そのためにはそれこそ何倍・何十倍もの努力を傾けるしかないのだろう。

  サヨクは何故弱いか?といえば、その原因の一つには、ヤンキーのような元気・行動力の点の弱さがあるのだろう。生真面目で大人しい沈思黙考タイプ。(かつて見られた過激派は今は見られない。しかし、そんなのはかえって人々の反感を招くばかりだから、暴走族と同様、歓迎はできない。)
 ただ金曜官邸デモなど、根性のある行動派サヨク(反権力)の若者も台頭しつつあるようで、それは救いというものだろう。

<加筆>
 「31歳フリーター、希望は戦争」といえば赤木智弘氏。彼がそう書いた07年、前の安倍政権当時。同じ弱者でも高齢者は経済成長世代。それにひきかえポストバブル世代で正規職にはありつけず、いつまでも結婚もできず、親元で暮らす若者たち。
 赤木氏によれば平和とは「穏やかで変わりないこと」で流動性のない閉塞状態。このような平和が続けば上のような世代間格差・不平等が一生続く。しかし、戦争が起こればたくさんの人が死ぬが、日本は流動化する。戦争は国民全員が「生きるか死ぬか」のどちらかに平等に賭けるギャンブル。(既得権を)持てる者にとってはそれを失うのが悲惨だが、持たない者にとってはチャンス。だから「希望は戦争」・日本の軍国化ということになり、彼ら若者は右傾化にむかうことになる。左翼は労働者の権利(既得権)を擁護するだけで、フリーターやニートなどの境遇に置かれている若者には手を差し伸べない。
 団塊世代の正社員層の所得水準を引き下げ、その分を回してほしい。さもなければ戦争に向かうしかない、というのが赤木氏の考え。
  
 しかし、財界・大企業経営者層などにとっては、たえず企業経営と収益の安定確保を求め、安あがりな人件費、そのための労働市場の流動化(非正規雇用・派遣労働者の雇用の自由化)を希望する。小泉政権の構造改革とそれを受け継いだ安倍政権はそれに呼応。その結果の格差・貧困の深刻化。政府や支配層にとっては、その国内矛盾・国民の不満を外にそらすうえで外敵(脅威)の存在、戦争の危機(トラブル)はむしろ好都合(北朝鮮や中国が危ないことやってくれると、内心それを喜ぶのは彼ら)。そういう意味では戦争(それが起こるかもしれない危機的状況・脅威があること)を「希望」(歓迎)しているのはむしろ安倍自民党政府と支配層その他の準支配政党。彼らの思惑に乗せられてはならない。

 それに、日本が軍国化し戦争になれば、社会は流動化して平等になるのだろうか。国民全員が平等に苦しみ続ければいいのか。二等兵のインテリを学歴のない一等兵がひっぱたければ、それでいいのか。
 旧日本軍の実態、イラク戦争やアフガン戦争に従事してきたアメリカ兵の実態を解っているのだろうか。戦争の現実は、生死のギャンブル機会の平等なんかではない。死は(学歴も地位も財産も)持たざる若者に圧倒的に偏り、持てる者はぬくぬく、高齢者は免れても死ぬのは若者なのだから。。
 それに今、戦争ではなくても東日本は大震災・原発事故で避難・流動化しているが、非正規・不安定雇用の境遇に置かれていた若者たちはそのお蔭でいい思いをしているのだろうか。

 左翼が定職を持たないか不安定雇用にある若者に手を差し伸べない、と全て決めつけて言っているが、果たしてそうか。連合系労組などやそれを支持基盤にしている政党や政治家などには、そうとられても仕方ないようなものもあるのは確かだが、そうではない左翼政党や労組もあり、これらは、他のどこもそれを取り上げ取り組んでいないことに一生懸命取り組んでいる。
 それに労働者の権利を「利権」などと、企業経営者・業界団体・各省庁・特殊法人などの既得権益と混同している。彼らの権利は様々な人権とともに世界各国の労働者や民衆が連帯し懸命に闘ったあげくに獲得し、憲法で保証・擁護されている権利なのであって、左翼がそれを擁護するのは当たり前のこと。
 そのような左翼を誤解して敵対し、右に走って軍国化・戦争などをめざすのではなく、左翼も含め正規・非正規も含めた労働者の仲間と連帯し、現状打破ひいては社会変革のために、その闘いにこそ賭けるべきだろう。穏やかに現状に甘んじているだけの「平和」が嫌だというなら。

 赤木氏は、最近では反原発運動を批判し、音楽家の坂本龍一氏が昨年7月の「さよなら原発大集会」でスピーチした「たかが電気のために命を危険に晒して」という言葉をとらえて、電気もお金もあればこそ命を保ち生きていられるのに、とんでもないことを言ってると。
 しかし、この場合、電気やお金と命の価値を比べ、「どちらかを犠牲にしなければならないとしたらどちらを守るか」を考えれば、電気やお金のために命を犠牲にしてもしかたがないなどと言う人はいないだろう。命は、各人にとっては、それがあってこそ「生きる意欲」(なんらかの日常的な小さな目標・課題あるいは大きな夢・志・使命を抱き、それを果たそうとする意欲)がそこから生じて生きられ、常に「生きる目的」と一体をなしている。それに対して食糧・資源・エネルギー・産業・お金・生活環境・地球環境もすべては(生きる目的に対する)手段にすぎない。例えば坂本氏などにとっては、人々の心をうつすばらしい音楽をつくりたいという目的のために生きる自分の命―それは取り替えがきかない唯一つの命。それに対して、命とその機能を維持するためには、食べ物もピアノも電気の明かりも必要不可欠な手段ではあるが、これらは「この食べ物が嫌なら別の食べ物」「原発の電気が嫌だから太陽光」「お金がないからこれで我慢」とか「これをやって稼ぐ」といったふうに取り換えがきく単なる手段の一つにすぎない。そういう意味では電気などは「たかが電気」なのである。(電気は命を保ち、生活や仕事のために、現代では必要不可欠な手段ではあるが、代替エネルギーがあれば原発などは不要なのである。)
 原発(事故)で漏出した放射能を浴びれば、高齢者は大丈夫でも、子供や若者たちは将来にわたって大丈夫かといえば、そうはいかない。高齢者は残り少ない余生をぬくぬく電気で暖まって生きていられればいいが、子供や若者たちはそうはいくまい。

 赤木氏(今はフリーライターだが国民保険の保険料を納めるお金の余裕はないとのこと)。彼の真意は、とにもかくにも格差・貧困問題にあり、それを何とかしてくれ、さもないとヤンキーに限らず若者たちは戦争に向かい、軍国化を支持して皆ウヨクに向かうぞと警告しているのだと思われる。
 ところが、財界や支配政党(自公)の政府・準支配政党(民主・維新・「みんな」など)は、いずれも格差貧困を拡大する構造改革(規制緩和・民営化・自己責任・市場競争主義)路線と日米同盟を続け、戦争・軍事政策に前のめり、改憲して「戦争をしない国」から「戦争する国」をめざしている。そして若者をその路線に乗せようとしているのだ。ヤンキーやフリターやニートたちが「希望は戦争」などと言ってそれに迎合したら、それこそ支配層の思う壺だ。
 穏やかな現状に甘んじているだけの「平和」に我慢がならないというのであれば、隣国や左翼を敵視・敵対するよりも、「流動化」(格差・貧困の現状打破)は、自国の支配勢力に抗い、被支配勢力の仲間たちと連帯して自らの手で勝ち得るしかあるまい
。向かうとしたら、そっちの方に向かうべきなのでは。

 そう思うのだが、如何なものだろうか。

2013年01月12日

体罰より千回でも口で

 「天声人語」には「『いい体罰』も『悪い体罰』もない」、「あくまで恐怖と身体的な苦痛なしで子らを育て導く『覚悟と決意』が必要だ」と。
 それにしても、体罰を教育論上「愛の鞭」とか「やむを得ざる必要悪」などとして容認する向きは少なくない。
 それに、大声で怒鳴るとか、苦痛を伴わない程度に叩き(はたき)つけて「喝を入れる」ということはよくあること。
 短気な私は、高校教師だった在職中は生徒を怒って「はたき付ける」ことも、たまにはあったし、我が子を「折檻」することもあった。近年には孫を泣かせたこともある。
 妻も、我が子が小さかった頃は「叩かれないとわからないのか」と叱っていたこともよくあったものだが、その妻が、最近、親になった子が孫にイライラしながら乱暴な対応をする時があるのを口説いて、「三四回ばかり聞かなかったぐらいで切れたりしてはいけない。千回でも繰り返し口で言って聞かせればいいんだ」と。(そう言われて子が返した言葉は「千回も言ってなきゃならないんだったら、その間お母さんは死んじゃうんではないの」という憎まれ口だったが)相手が聞き入れ、言ったことが身に付くまで何回でも繰り返し言い、何回でも練習を繰り返させる辛抱強さ、そういう厳しさこそが、親や教師には必要なんだ、ということだろう。

2013年01月15日


     源平壇之浦の合戦図

                     源義経の八艘飛び


        義経の家来

2013年01月17日

「考える」と「思う」―この国の民主主義を考える(最後の方に加筆)

 作家の池澤夏樹氏は(1月12日の朝日に)「今、気になっているのは、みんなが『考える』より『思う』でことを決めるようになったことだ。5分間の論理的な思考より1秒の好悪の判断。」「SNS(ツイッターやフェイスブックなど―筆者)が一人一人が発言することを容易にした、・・・それは『思い』であって『考え』ではないことの方が多い。」と書いている。そして今回の選挙について、「さてもゲーム的な選挙であった。」「一個一個の争点をいくら論じてもそれが有権者の投票行動に結びつかない。原発・・・も、TPP・・・も、・・・2%の物価上昇・インフレ政策の是非も、自民党という大きな名前では議論にならない。議論らしい議論は何もなかった。」と。

 ところで、当方の「評論」は、ここでいう「考え」に当たり、「つぶやき」は「思い」に当たるだろう。
 それはさておき、この国の昨今の「民主主義」の実態を考えると、池澤氏のご指摘はごもっとも、という気がする。
 まず、マスコミやメディア。 本来ジャーナリズムの使命は「人々に真実をタブーなく伝えること」と「権力の監視」ということにある。ところが、企業経営で成り立っているマスコミやメディアは企業収益にとらわれ、記事やニュースなども、どうしても「売らんかな」マインドにとらわれ、できるだけ多くの人々(マジョリティー)の好みに合わせ、興味本位(読者・視聴者から歓心を買い、不興を買わないよう)に書かれ、面白いか話題性のある記事や番組が作られて報道・放映される。(デモなど乱闘でも起きないかぎり、ほとんど取り上げられることはないのである。)民間メディアの場合はスポンサーや広告主から下りられたり、NHKの場合は政権与党など政治家からクレームを付けられないように気を使わなければならない。そのため企業や政治権力者におもねる企業・政権寄りか、当たり障りのない「事なかれ主義」的な記事や報道になってしまう。

 政治家も同じで、思想・政策・理論・識見よりも(マスコミやメディアもそれらはあまり問題にせず)、人気・「キャラ(クター)」を売り込み、メディアもその方に焦点を当てる。
 その典型的な権力者・政治家が以前には小泉首相、今は・・・・。
 安倍首相は、以前(01年)、NHKの従軍慰安婦問題を扱った番組にクレームをつけ放送内容を改変させたということが問題になった(安倍氏らは否定、最高裁判決でも不問に付されたが、その前の高裁ではNHK側が「政治家の意図を忖度して当たり障りのない番組にすることを考え改変がおこなわれた」としたことについては最高裁は判断していない。その後、当時のNHK現場職員による告白本も出ており、内部告発者は告発内容を取り下げてもいない。)。
 先日、NHKのニュース・ウオッチ9で下村文科大臣にじっくりインタビューしていたが、幼くして父親を亡くし、母はどんなに貧しくても生活保護を拒んで働き、高校・大学には奨学金で入って文部行政を目指したとか生い立ちなどを紹介していたが、彼が安倍氏と同様「従軍慰安婦」問題の事実否定論者であり反「自虐史観」の立場で歴史教科書の内容に圧力をかけてきたことなど、その思想傾向については全く触れることはなかった。(数日後の同ニュース番組で大阪市立高校の体罰問題でインタビューを行った義家政務官については、かつて「ヤンキー先生」といわれ、高校時代は暴力事件を起こして退学処分になったことがあると紹介していたが。彼が自民党にいて活躍することでヤンキーたちが同党になびくことにもなっているのでは。)
 彼ら政治家にSNS(ツイッターなど)などを通じて寄せる「ネト~」たちの発言(投稿)は、論理的な思考で「考え」ぬかれた意見ではなく、ワンフレーズやショートコメントでキャラが「かわいい」とか「いとおしい」とか「すてきだ」とか、或い彼が批判する相手をバッシングするなど好悪の「思い」や「信念」といっても思い込みでしかないものがほとんど。
 政治家・権力者の方も、SNSは自分を彼らに売り込み、支持者として或いは「親衛隊」のようにして動員する道具として活用される。
 安倍首相は、記者たちからどんな質問が出るか分からず答えに窮することがある「ぶら下がり取材」を拒否し、首相の方から求めた記者会見だけに止め、その一方でSMS(ネット交流サイト「フェイスブック」)でさかんに発信しており、「ネト~」たちの賛同(批判的な書き込みに対しては「非国民」「国賊」などと罵って叩く)書き込みをたくさん得て気をよくしているのだという。(kinkin.tvのパックイン・ニュースのパネリスト山田氏)「ネット交流」とはいっても、対立意見を理解しようとはせず罵り合うだけで議論にはならない。だから「ネトウヨ」の側だけの独壇場となり、「ネトサヨ」の方は引いてしまうということになるのだろう。

 今、マスコミやメディアにしょっちゅう取り上げられ、頻繁に映像が露出され、ツイッターなどSMSで「思い」が数多く寄せられ、人気を得て支持を獲得している政治家・権力者が安倍首相であり、石原・橋下氏らの面々。
 
 しかし、このような彼らの間で行われる政治は、はたして民主主義と言えるのだろうか?
それは真の民主主義からは程遠いのだ。
 「思い」だけで一国の政治を振り回されてはかなわないし、「思い」だけで政治参加をした気になってもらっても困る。(「安倍さん、やってみなはれ」と、1月17日付朝日『社説余滴』に書いていたのは同紙の経済社説担当者の一人。アベノミクスの危うさに批判的な社説に対して「私は意見を異にする」として、安倍首相が「10年以上にわたるデフレからの脱却は人類史上、劇的な取り組みであろう」と述べたことに対して「人生はとどのつまり賭けや、やってみなはれ」というサントリー創業者の言葉を引いて書いているのだ。要するにギャンブル。真珠湾奇襲に始まる対米開戦のようなもの。こんなので一国の政治が振り回されてはかなわない、ということではあるまいか。)
 「『思い』に自信がつき『考え』を排除する。時には多くの人が手近に敵を見つけて叩くというゲームに熱中する。」(池澤氏) それは、かつてヒトラーと彼を支持して集まった若者たち・大衆によるファシズムのようにもなりかねないのだから。
 
 しかし、そんなことにはならないようすることも可能であるし、民主主義を守り生かすことも可能なのだ。
 「思い」には、単に軽薄な思い込み・好悪・愛憎・「むかつく」「楽しい」など気分的・感情的ものばかりではなく、思慮分別・信念・道徳的心情などといった理性的で深い洞察に基づくものもあるし、一概に軽いといって軽視さるべきではない。
 また、SNS(ネット)も、単に安倍首相や橋下維新代表など右寄り政治家と「ネトウヨ」たちだけが活用しているわけではないし、そこが彼らの独壇場になるというわけでもない。 安倍首相のフェイスブック登録者は「日本一」とはいっても、18万人。批評家の濱野智史によれば、「ネットで楽しんでいる人たちのごく少数派にすぎない」という。
 SNSは、首相官邸前デモに集まる人たちが(単に動員されて受身的に集まるのではなく)彼ら自身の「思い」から自発的に呼びかけ合って集まるツール(道具)としても活用されているのだ。
 濱野氏は(12年9月14日付朝日「オピニオン」欄で)政治家のリーダーシップもさることながら、より重要なのはリーダーに付いて行こうとするフォロワーたちのほうで、むしろそのフォロワーシップのほうが重要。それで、「リーダーシップがないから皆が付いていかないんじゃなくて、皆が付いていかないからリーダーシップになってない」のだとも指摘している(「最初のフォロワーの存在が、一人のバカをリーダーに変える」とさえ言った人がいるとのこと)。
 ところで、フォロワーたちが、いわば「思い」を持って発信し集まる人たちだとすれば、リーダー(知識人や政治家)は「考える」人。そこでフォロワーたちは、リーダーに対して、ただ動員されて付いていくのではなく、自分の「思い」をもって彼を推して支えもする。リーダーはそれに答えて、知識・思想・論理をもってよく「考え」、リーダーシップを発揮する。
 要するに、フォロワーシップとリーダーシップが両方相まって運動はうまく、ということだろう。
 このように、「思う」人たちと、「思い」をSNS(ネット)で発信し交流する人たちは、右寄り勢力だけでなく、その対抗勢力(民主勢力)の側にも存在し、彼らの頑張りようによって、右寄り勢力によるファシズムを阻止し、民主主義を守り生かすこともできるのであって、そこに期待をかけたい。
 それにしても、改憲派のリーダーたちに対する護憲派のリーダーたちのリーダーシップ(今、それはあまりに弱い)とそれへのフォロワーシップがもっともっと発揮されることが期待される。
 

2013年01月31日

どこの新聞が役にたつか(加筆版)

 新聞各紙の発行部数ランキング(Wikipedia「日本の新聞」より。部数は概数で夕刊や日曜版を含む)
 1、読売       992 万部            16、スポーツ報知   135万部
 2、朝日       790              17、北海道新聞    116
 3、聖教新聞    550              18、佼成新聞     100
 4、毎日        342               19、デイリースポーツ 99.9
 5、日経        302               20、西日本新聞    81.4
 6、中日        273               21、静岡新聞     69.3
 7、東京スポーツ   242              22、中国新聞     67.2
 8、日刊スポーツ   196              23、神戸新聞     56
 9、西日本スポーツ 196              24、東京新聞     56
 10, スポーツニッポン171              25、京都新聞     51.6
 11, 日刊ゲンダイ   168              26、新潟新聞     49.1
 12, しんぶん赤旗   168              27、信濃毎日     48.6
 13, 産経       162              28、河北新報     48.2
 14, 夕刊フジ     155              29、山陽新聞     45.5
 15, サンケイスポーツ136              30、南日本新聞    36.7

 これらのうち「聖教新聞」と「佼成新聞」は宗教団体(創価学会と立正佼成会)の新聞、「しんぶん赤旗」は政党機関紙。聖教新聞が読売・朝日に次ぎ毎日を上回る部数を誇っているとは驚き。赤旗も産経を上回っているなんて。
 尚、政党機関紙に限って挙げれば、次のよう<2011,1,24付の朝日GLOBE(日曜版)より>。
 1、共産党―「しんぶん赤旗」―公称140万部(日刊・日曜版あわせて)
 2、公明党―「公明新聞」  ―公称 80万部(日刊・日曜版)
 3、自民党―「自由民主」  ―公称 68万部(週刊だけ)
 4、社民党―「社会新報」  ―公称 13万部(週刊だけ)
 5、民主党―「プレス民主」 ―   7万部(タブロイド判、月2回だけ発行)

 実は、政党機関紙なんかでなくても日本の新聞で、どの人にとっても中立・不偏不党な新聞などないし、一般に多数派に偏っている。しかし、色んな人がいて、色んな新聞があってもいい。一般紙でも(スポーツ新聞などは別として)各紙によって政治スタンス(政府寄りか大政党よりか財界寄りか等)がある―社説・論説、取り上げる記事などにそれが見てとれる。
 たとえば、読売・日経・産経3紙と朝日・毎日2紙との間にはやや違いがある場合もある。読売など3紙のほうは改憲派、原発維持派。
 沖縄基地問題では読売など3紙は安保優先派。ただし、朝日・毎日とも安保肯定派であることには違いはなく、日米同盟基軸論、消費税増税もTPP参加も容認では同じ論調。

 人々は、それぞれに好みや利害・勧誘・行きがかりなど色んな理由で、これらの新聞のどれかをとっているか、読んでいるのだろうが、キーポイントは、その人(その立ち位置・生き方・好み・価値観など)にとって、その新聞が、有用で当てになる情報が得られるということと、自分の思いに一番マッチした考え方(論理)が得られるという点で、一番役に立つということだろう。
 当方の場合は次のような考え方をしている。
 一介の庶民として家族・子や孫たちが、暮らし、仕事や勉強、命と健康、自由・人権などの点で将来にわたって安心を得るために有用で確かな情報と自分の思い(護憲・脱原発・脱消費税依存・脱財界優先・脱安保など)にマッチした考え方(論理)が一番得られるのはどの新聞か、ということだ。
 尚、とかく新聞・メディアの多くは時流に乗り(「バスに乗り遅れるな」とばかりに、日中戦争といえば「暴支膺懲」―暴れる「支那人」を懲らしめよ、日米開戦といえば「大東亜戦争」、戦後は安全保障といえば日米安保、原発といえば「原子力平和利用」、政治改革といえば小選挙区制、郵政といえば民営化、増税といえば消費税、といったように)、人々は時流に流されることが多い。但し、一つだけ、戦前からずうっと立ち位置(誰の―どういう階層―の立場に立っているか)がはっきりしていて一貫した理念を持って、反戦・反軍国主義・反安保・反原発・反消費税を貫いてきた新聞がある。その新聞の考え方(論説・論調)を基準にして見てみると、あれこれの新聞・メディアの論調がどれだけ右(保守)寄りか左(リベラル)寄りかの度合いを見分けることができるわけ。そういう新聞があるとすれば、その新聞は貴重な存在だろう。
 ところでkinkin.tv―それは新聞ではなくインターネット・テレビなのだが、俳優の愛川欽也が主宰してやっている。その中のパックイン・ニュース。去年の3月まではCS朝日ニュースターで毎週土曜日「パックイン・ジャーナル」という番組名でやっていた。愛川氏が司会して5名のパネリストとともにその週の時事問題を論じ合う討論番組。16年間続いてきた番組だったが、朝日ニュースターでは、それが打ち切られてしまい、視聴者から延長の要望があって愛川氏が急きょ自らTV局を開設してインターネットで流し続けてきた(有料視聴)。愛川氏の立ち位置は護憲・リベラル。当方などにとってはたいへん役にたつ番組だったが、この3月で打ち切りとのこと。残念でならない。

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