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2010年06月 アーカイブ

2010年06月02日

普天間問題は決着しておらず「安保」が争点に

普天間問題の核心をなす争点は次の3点だと思う。
①住民の「負担」(有事に際して標的にされる危険や墜落事故などの危険、爆音や米兵犯罪などの迷惑被害)の軽減・解消のためには―
 普天間基地の無条件閉鎖・撤去か、代替地への移設か。移設なら沖縄県内に(反野古周辺へ―「基地のたらい回し」)か、他県へか、それとも国外へか(グアム・テニアンか、韓国か)。
 鳩山首相は、「滑走路を反野古崎へ、ヘリコプター部隊の一部訓練を徳之島の他、本土の自衛隊基地に分散移転」と決断。
 沖縄県民・徳之島住民など地元住民の多くは、それに反対。
②北東アジア・朝鮮半島における有事・危機的事態の発生(事の成り行き次第では北朝鮮の暴発、第二次朝鮮戦争・体制崩壊にともなう大混乱も)が予想される。それに対して、たとえそうなっても(最悪の結果―悲惨な事態―が生じても)仕方ないと覚悟を決めて軍備(在日・在沖米軍基地の維持)に努めるか、あくまで(どんなことがあっても)軍事衝突・交戦の回避をめざしてあらゆる努力を尽くすか。
 前者は、朝鮮半島で(最悪の場合)戦争が起きても仕方ないと覚悟を決めて、それに備えて、それ(韓国在留米国人の救出、北朝鮮の核施設の占領など)に出動する米軍海兵隊の駐留・基地は日本にどうしても必要だという考え方。
 それに対して、後者は、「戦争を覚悟するなんてごめんだ。悲惨な結果を招く交戦(日本の基地から出撃し、日本が攻撃されるなど)は何がなんでも回避しなければならず、それにつながるような米軍基地は撤去したほうがよい」という考え方。
 「抑止力」とは、もしある国が攻撃をしかけてこようものなら反撃されてかえってひどい目にあうから攻撃はひかえたほうが賢明だと国々に思わせることによって他国からの攻撃と戦争を抑止する、そのための軍備。
 鳩山首相が「学びに学んだ」という「抑止力」論だが、それは我が国に日米同盟や米軍基地を含めた軍備を維持することによって、「いざとなったら(もし北朝鮮などが攻撃をしかけてこようものなら)反撃し、戦争になってもやむをえない」という「戦争の覚悟」あっての抑止力論。
 そのような「戦争の覚悟」に対して、戦争をしない「不戦の覚悟」というものもあるはず。
 我が国では、憲法が政府に命じているのは戦争放棄と交戦権の否認であり、その下で我々日本国民に求められているのは「不戦の覚悟」。
 実際問題として、「覚悟」とはリスク(惨害をこうむる危険)に対する覚悟であるが、戦争にともなうリスクと不戦(戦わないこと)によってこうむるリスクとで、どちらがよりリスクが大きいか。現代戦争のありようから考えれば、庶民にとっては戦争にともなうリスクのほうがはるかに大きいと考えられる。
 ところが鳩山首相は、「朝鮮半島で、たとえ戦争が起ったとしてもやむをえない」と覚悟を決め、その時に備えて、米軍海兵隊基地は日本・沖縄のどこかに必要だとの結論に至ったようだ(5月28日の記者会見で首相いわく「韓国哨戒艦の沈没に象徴的なように、最近の朝鮮半島情勢など東アジア情勢は緊迫している」と。朝日は、「首相は沈没事件を普天間議論に、抑止力としての在日米軍の存在意義を強調する材料として、積極的に利用し始めた」と書いている)。
③安全保障戦略―日米安保(軍事的対米依存)の是非―継続か、打ち切り(非軍事安全保障戦略への転換へ)か。
 鳩山首相は日米安保を是とし「継続」の考え(「日米同盟の深化へ」と)。

 それぞれ、どちらであるべきか、ということだ。
 岡田外相は「これは国民の命がかかった問題なので」と述べ、鳩山首相も「国民の命を大切にする政治」と述べていた。
 天災(地震・台風など)ならば、一定の確率でそれは必ずやってくるので、回避はできない。だから、それがいつやって来ても命が大丈夫なように(被害が最小限で済むように)備えが必要だ。それに対して戦争(暴発・軍事衝突、それらからのエスカレート)は人間の意思が引き起こすものであって、意思によって(対話・自制によって)回避できるし、回避すべきもの。それを、あたかも天災のようなつもりで、(暴発・軍事衝突・戦争が)いつ起きても大丈夫なように軍備を整えておかなければならないなどというのは間違い。相手に攻撃の意思を起こさせないように「抑止力」として軍備(兵器・同盟・基地など)を備えるのだといって軍備を合理化するが、軍備は相手の攻撃を思い止まらせるとはかぎらず、かえって攻撃意思をかきたてるということも多々あり、軍備があれば「どんなことがあっても、それは使わない」などということはありえず、あれば使いたがり、「いざとなれば」などといって、それを使おうとする意思が働く。軍備は攻撃・戦争を回避する「抑止力」になるとはかぎらないのだ。そう考えると軍備などは無くてもいいし、無いほうがいいとも言える。
 基地にともなう住民「負担」(攻撃の標的にされるとか、墜落事故に巻き込まれるなどの命の危険、騒音、米兵による犯罪被害など)は、ある程度軽減はできても、基地があるかぎり、それは一定の確率(沖縄での米兵によるレイプ・強盗・ひき逃げ等の刑事事件はこれまで5,500件、1年に100件)で必ず起き、回避することはできない。が、基地を閉鎖・撤去すれば、それは直ちに回避される。

 国民の命と安全に責任を持つ政府に今さし迫って課せられている責務は、はたしてどれか。普天間基地についていえば、「移設」(移設先に代替施設ができあがるまで普天間基地は継続)か、それとも「無条件閉鎖・撤去」か。
 沖縄県民の大多数は「即時・無条件撤去」を求めている。(5月31日付毎日新聞によれば、沖縄県民世論調査で、「移設」に反対が84%、反対の理由は「無条件で基地を撤去すべきだと思うから」が38%、「国外に移すべきだと思うから」が36%で、合計7割を超える。)(5月31日付毎日新聞によれば、沖縄県民世論調査で、「移設」に反対が84%、反対の理由は「無条件で基地を撤去すべきだと思うから」が38%、「国外に移すべきだと思うから」が36%で、合計7割を超える。)
 ところが、鳩山首相は「移設」にこだわり、当初、前政権が反野古沿岸部への移設(「沖縄県内たらい回し」)を決めていたのに対して、それを見直し(移設先を)「国外か、最低でも県外に」と公約していたにもかかわらず、「迷走」のあげく、結局、前政権が米国政府と合意していた反野古移設案(「現行案」)と基本的にはなんら変わりのない「移設」に踏み切って米国政府と再合意したのだ。沖縄県民の大多数はそれを許さないだろう。
 普天間問題の今後は「反野古への移設阻止」、「即時・無条件撤去」の追求に焦点がしぼられよう。
 鳩山首相は、小沢幹事長とともに、「政治とカネ」問題と、この普天間問題での「裏切り」(公約違反)で非難をあび、支持率激減で辞任にした。辞任にあたって鳩山首相は「国民が聞く耳を持たなくなってきた」と言ったが、首相のほうが、外務・防衛官僚の声しか聞く耳を持たなかったし、アメリカに対してはオバマ大統領に“Trust me”(私に任せて)と言っただけで、まともに交渉した痕跡さえないといわれている。彼は辞めても、反野古移設を決めた日米合意・共同声明と閣議決定はそのまま残る。鳩山首相が辞めても、基地を押しつけられている地域住民の現状がそのままでは、あまりに理不尽だ。後継首相がそれをそのまま推進するなどということを許してはならず、撤回をさせなければならない。そして沖縄県民・名護市民・徳之島島民をはじめとする国民が後押ししてアメリカと再交渉させなければならない。

 さらに、来るべき参院選は、この普天間基地問題とともに安保問題を争点とすべきである。
 鳩山首相は退陣の弁で「米国に依存し続ける安全保障が50 年、100年続いていいとは思わない」「日本の平和を日本人自身で作り上げていく」と、その「思い」を述べている。しかし「思い」だけで終わらせてならないのだ。

2010年06月03日

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 いずれも米沢出身の彫刻家・桜井祐一(1914ー1981)の作品

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    このうちの一人は当方の懐かしい小学校の同級生


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    米沢駅前通りに通ずる住之江橋

2010年06月05日

「『普天間』で覚悟」とは?

 「『普天間』で我々も覚悟必要」との投稿があった。日本の安全保障の問題を国民全員が熟考すべきだというのは、その通りだと思う。
この問題で「覚悟」と言う場合、もっと突き詰めて考えれば、「戦争の覚悟」にたいして「不戦の覚悟」というものもあり得るわけで、そこのところにも考え及ぼす必要があるのでは。
 ところで、「抑止力」とは武力攻撃や戦争をしかけてくるのを抑止するための軍備。
日米同盟も米軍基地も、その「抑止力」というわけ。そこには、「もし攻撃をしかけてこられたら応戦し反撃する、その用意がある」ということで、「やむを得ざる戦争」を容認し、「いざとなったら戦争も辞さないという覚悟」を前提にしているのが抑止力論だろう。
 そのような「戦争の覚悟」に対して、「戦争をしない覚悟」というものもあるのでは。
 我が国では、憲法が政府に命じているのは戦争放棄と交戦権の否認であり、その下で我々日本国民に求められているのは「不戦の覚悟」のはず。
 実際問題として、「覚悟」とはリスク(惨害をこうむる危険)に対する覚悟であるが、戦争にともなうリスクと不戦(戦わないこと)によってこうむるリスクとで、どちらがよりリスクが大きいか。現代戦争のありようから考えれば、戦争にともなうリスクのほうがはるかに大きいと考えられ、覚悟なら「不戦の覚悟」こそ必要なのでは。

 

2010年06月14日

鳩山から菅への首相交代と世論(加筆・修正版)

 鳩山首相は退陣の弁で「米国に依存し続ける安全保障が50 年、100年続いていいとは思わない」「日本の平和を日本人自身で作り上げていく」と、その「思い」を述べている。しかし「思い」だけで終わらせてならないのだ。
 鳩山氏は、その後(6月11日、BS朝日の番組で)「反省の弁」。いわく「アメリカは辺野古で非常に固かった。外務省も防衛省も今までの経緯があるものだから、『最後はここ(辺野古)しかないぞ』という思いがあった。」「(県外移転には米国だけでなく、外務・防衛両省とも非協力的であった。)本当は、みんな説得するぐらいの肝が据わってなきゃならなかった」(もっとリーダー・シップがあれば)と。しかし、鳩山首相が決断した閣議決定に自分も署名した菅氏は、後継首相に指名されると早々にオバマ大統領と電話会談をして「日米合意」の継続を約束、関係閣僚(外務・防衛・沖縄担当大臣)を留任させ、所信表明演説では「日米合意を踏まえつつ、同時に沖縄の負担軽減に尽力する覚悟」、「外交・安全保障は今後も日米同盟を機軸とし、日米同盟関係を深化させる」と言いきった。
 一方、世論のほうは、5月31日発表の世論調査では、鳩山首相が(辺野古移設を日米合意して)決めた政府方針を「評価する」が27%、それに対して「評価しない」が57%であった。ところが菅首相就任後、6月10日発表の世論調査(いずれも朝日新聞)では、新首相の「日米合意を踏まえての対応」を「評価する」が49%、「評価しない」が26%。首相が変わっただけで、辺野古移設の基本方針は変わりないのに、それに対して「評価する」が「しない」を上回り、逆転してしまっているのだ。「世論も世論だ」ということか?
 しかし、沖縄の世論は5月31日発表の世論調査(琉球新報と毎日新聞の合同調査)では辺野古移設に賛成6.3%に対して反対が84.1%であり、日米安保については「維持すべきだ」が7.3%だけ(「平和友好条約に改めるべきだ」が54.7%、「破棄すべきだ」が13.6%、「多国間安保条約に改めるべきだ」が9.7%)。首相が菅氏に替わったからといって、それが逆転するなどということはあり得るだろうか。
 マス・メディアの立つ位置を見ると、朝日など主要メディアは、日米同盟はもとより、海兵隊の「抑止力」も肯定。朝日は昨年12月29日の社説で「日本防衛や地域の安定のため海兵隊が担ってきた抑止力は何らかの形で補う必要がある」と書いており、その後にわたって「(沖縄県民の基地負担)分かち合いの必要を全国民に訴える」など県外移設論にとどまり、無条件撤去・国外移設は問題外というスタンス。全国紙に対して「琉球新報」や「沖縄タイムス」などの地方紙は「抑止力」論を批判している。
 消費税増税も、朝日などはかねがね社説でそれを促しており、同紙が行った6月14日発表の世論調査では消費税増税に賛成が49%で、反対44%を上回っている。
 このようなマス・メディアの世論誘導があるわけである。
 ジャーナリズムには権力チェックの役割と中立性の原則というものがあるが、営利企業でもある新聞社や放送局はもとより、「公共放送」といわれるNHKにしても、あらゆる人々にたいして公正・中立かといえば、それはありえない。多様な興味・関心・要求・意見をもつ人々のうち、その多数派に照準を合わせ、かれらの意に沿った論調を展開する。多数派といえば、前政権の自民党と新政権の民主党のどちらかで、このところの「小鳩政権」批判など民主党に対して厳しい論調が続いているのに反発して、「政権が替わったのに、マスコミは政権交代をしていない」といってメディア批判をする向きもあるが、朝日など主要メディアは、いずれにしても基本政策に共通点の多い自民・民主「二大政党制」肯定の立場で、そのどっちかであればよく、少数派にとっては公正・中立でもなんでもないわけである。
 このような主要メディアからは、普天間基地問題でも「無条件撤去」論が(沖縄県民の間ではそれへの支持が一番多いのに)取り上げられることはほとんどなく、「安保反対」論が取り上げられることもほとんどない。それに「消費税増税反対」論が取り上げられることもいたって少ない。
 これが日本のマスコミなのだ。

2010年06月18日

理想主義と現実主義(加筆・修正版)

 鳩山前首相の「友愛精神」とか「命を守る政治」とか「東アジア共同体」とか「普天間基地移設は国外、最低でも県外へ」とかを掲げた「理想主義」?に対して菅新首相は「現実主義」で行くと言っている。(就任記者会見では、最大幸福社会ならぬ「最少不幸社会」をめざすと言い、所信表明演説では「世界平和という理想を求めつつ、『現実主義』を基調とした外交を推進すべき」と。)
 ところで、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と定めているのは日本国憲法(前文)である。北朝鮮国民の場合はどうなのか。我々日本人にとっては北朝鮮が脅威であり、その核・ミサイルは恐怖なのだが、北朝鮮の方も、(アメリカとは60年前以来朝鮮戦争、休戦はしているものの、戦争自体はまだ終わってはいないし、日本からは100年前の日韓併合以来恐怖を強いられてきた植民地支配にたいして北朝鮮は何一つ清算してもらっておらず)アメリカ、それと同盟する韓国・日本の軍事力はそれこそ脅威・恐怖であり、そのうえ「経済制裁」という兵糧攻めを受け欠乏にもさいなまれているのだろう。
 北朝鮮国民も日本国民も共に平和のうちに生存するにはどうすればよいのだろうか。
それには、共に恐怖の原因―軍備を(「核」も、「核の傘」も、ミサイルも、ミサイル防衛システムも、軍事同盟も米軍基地も)撤去し合えばよいのであり、北朝鮮国民に対しては、欠乏をひどくする経済制裁も解除してやらなければならないわけである。
 それに対して、「いや、そんなことは出来るわけない。要は北朝鮮さえ核・ミサイル開発を放棄すればよいのであって、現政権がそれを拒み続けるかぎり、日米韓側は「核の傘」も基地も維持し続け軍事的・経済的圧力(制裁)を加え続けるしかなく、場合によっては攻撃のやむなきも」というのが現在の日米韓政府の考え方。はたしてどちらが現実的か。
 韓国人のあいだでは「北風政策」に対する「太陽政策」論―キム・デジュン元大統領とノ・ムヒョン前大統領らの考え方がある。それは必ずしも理想主義ではなく、むしろ現実主義に基づいている。なぜなら、経済力・軍事力とも北朝鮮に比べて韓国のほうがいくら圧倒的に優勢だとは言っても、戦争したらソウルが実際「火の海」になり、共倒れさえも起きかねないし、北朝鮮国家が崩壊してしまったら韓国が大量難民(窮民)を抱え込まなければならないことになり(その経済運営の困難はベルリンの壁崩壊で東ドイツ国民を抱え込んだ西ドイツの比ではなく―人口比・GNP比などの格差で)、国がもたなくなる、ということが解っているからにほかならない。
 ところが、直ぐ近くで北朝鮮と対峙している韓国人と違って、とかく日本人は戦争に対してリアリティーをもって考えない向き(平和ボケ)が多く、タカ派的になりがち。また、日本人の中には、相手側からみれば自国の方が脅威になっているのに、そのことは気に止めず、相手の脅威にばかり気をとられる傾向があるようにも思われる。日本人はとかく主観的情緒的で非現実的な判断に陥りがちだということ。
 北朝鮮の専制政治体制では、かつて我国が専制体制にあった時のように非理性的な暴挙に走る危険性がある一方、韓国は(哨戒艦沈没事件で大統領が打ち出した対北強硬姿勢に対する反応などを見ると)むしろ政府より国民のほうが冷静で理性的なようだが、現在の日本やアメリカは民主主義が発達しているから、国民の理性がはたらいて暴挙にはしることなどないかといえば、さにあらずで、フィーバー(熱狂)した多数国民によって戦争を後押ししがちだという一面もあるのだ(9.11からアメリカがアフガン~イラク戦争に突入した、あの時のように)。
 菅首相の「現実主義外交」は、はたしてどうか?「国民や世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくか」「貧困・戦争などをなくすことにこそ、政治は力を尽くすべきだ」と言っているのだが。
 菅首相は「時には自国のために代償を払う覚悟ができるか。国民一人ひとりがこうした責任を自覚し、それを背景に行われるのが外交である」とも言っている。しかし沖縄県民の多くは、自国のためにこれまで負わされ続けてきた基地負担を今後も負い続けるなんて、そんな覚悟はもうできないと言っているのである。また、沖縄県民以外の日本国民にしても、その「代償」をずうっと払い続けるなんて、そんな「責任の自覚」を求められても困るわけである。「覚悟」を言うならば「基地を維持して戦争もやむをえないとする戦争の覚悟」ではなく、「基地を撤去して、戦争だけは止めさせる不戦の覚悟」というものもあるはず。「戦争の覚悟」と「不戦の覚悟」、そのどちらが、より現実的・合理的か(国益と国家の損失の損益計算に照らして―とは言っても戦争をやったら、人的・物的な資源の消耗・損失・惨害を考えれば、何もかもお終い、それでもいいのかだ)。
 現実主義とは、空想や主観的情緒に陥らずに現実に則して合理的に物事を考える立場だが、それには二通りがある。一つは、現状を肯定して踏襲。それに対して、もう一つは、現実を踏まえながら、理想に向かって現状を変革。(理想主義とは、単なる空想とは異なり、現実主義でも後者のそれと両立する。)
 日米同盟関係と沖縄の基地についても、現状―前政権・前首相の日米合意―を肯定・踏襲するのと、変更するのと、二通りあるが、菅首相の「現実主義」は前者。
 菅氏は01年民主党幹事長当時は「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権をとれば、しっかり米国に提示することを約束する」と言っており、06年党代表代行当時は「あそこ(沖縄)から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいますが、海兵隊は守る軍隊ではありません。地球の裏側まで飛んでいって攻める部隊なのです。・・・・沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係のないことなのです」と言っていたのに、政権の座に着いた今は、「東アジアの安全保障環境には最近の朝鮮半島の情勢にみられるとおり不安定性・不確実性が残っている現時点において、海兵隊をふくむ在日米軍の抑止力は、安全保障上の観点からきわめて重要だ」との現実認識で在日米軍基地の維持を肯定する。一方、基地を押し付けられている沖縄県民の物理的・精神的負担の現実(その深刻な実態と切実な願い)も解っている(?)、そのうえで、「移設」受け入れをあくまで県民に「説得」しようというつもりなのだろう(「誠心誠意説明し、理解を求めていく」とは言っているが、県民の「合意を得る(それが前提だ)」とは言わない)。
 (その「説得」とは説得工作―基地所在市町村長・議会の移設容認派に根回し・交付金・「地域振興策」・地元土建業者などへの利益誘導、「辺野古に移設すれば普天間基地住民の負担軽減は可能となるが、そこへ移設しなければ普天間はいつまでもそのままだぞ」と脅す―「アメとムチ」で地元切り崩し)
 8月には辺野古のどこかに滑走路の場所、工法を決定。9月に名護市の市議選、11月に沖縄県知事選がおこなわれる。この間、移設容認派の拡大に向けて説得工作を進めていくのだろう。

 菅首相は市民運動からスタートした政治家だというが、彼が「現実主義」といっても、権力(日米の支配層)の立場に立って(自らの政権維持とともに)現状維持に帰してしまうのであれば、それはもはや自民党同様の保守主義であって市民主義ではない。市民(民衆)の立場に立って、彼らの置かれた現状を変革してこその市民主義だろう。
 消費税(富裕層・貧困層の別なく一律5%から10%に増税)のこともそうだ。権力(支配層・富裕層)の立場に立ってそれを容認するか、庶民の立場に立って反対するかだ。(財政赤字解消・財源の確保のためというなら、それは、所得税の最高税率を上げて富裕層に増税、大企業の法人税減税・証券優遇税制などやめること、事業仕分けの徹底、特別会計における「埋蔵金」の廃止、それに米軍への「思いやり予算」など軍事費のカット等によって行うべきなのだ。)
 普天間基地の県内移設容認といい消費税増税容認といい、菅首相が推し進めようとしている政策は「最少不幸社会」からは、むしろかけ離れ、自民党と同様に、かえって不幸な人々を増やす方向に向かうのではあるまいか。
 鳩山前首相の理想主義(現状―辺野古移設案へ回帰など自民党前政権の路線に逆戻り)も空しかったが、菅新首相の現実主義も、現状維持よりも消費税増税などもっとひどいことになるのだとすれば、なおさら空しい。

2010年06月23日

政党選択選挙(加筆・修正版)

 世の中、「恵まれている人・生活にあまり困っていない人」と「恵まれない人・生活に困っている人」とに分かれている。選挙はそのどちらにつくか、ということにほかならない。
 当方の場合、それはイデオロギーなどからではなく、生まれ育った境遇(カネや財産にも、力やアタマにも恵まれないということ―人々の印象によっては「そうかな」と思われる向きもあるだろうが、内情をよく知っている人なら肯かれるだろう)から 自分と同様に恵まれない人の側につく。それは子どもの頃からの(ケンカやいじめにしても、いつも弱い方の側についた)習性のようなもの。大学で思想を学んだり、誰かから感化されたからではない。選挙というと結局、「恵まれない人・生活に困っている人」の立場にたって政治に取り組んでくれている政党や候補者かどうかで選んでいる。
 今回の争点は、なんといっても消費税と安保(米軍基地問題)。恵まれている人は消費税など増税してもたいして困らないのだろうし、安保・米軍基地問題など現状のままでも別に困らない、それどころか、米軍駐留と基地があるお陰で利益をこうむり、既得権を得ている者もいるわけだ。それに対して消費税を増税するなんて困るし、米軍基地が置かれているおかげで危険・(それに税金を注ぎ込まれていることも含めて)迷惑を被っている人たちがいる。
 当方は後者の立場にたって消費税増税問題・安保(米軍基地問題)に対応している党や候補者に投票しようと思っている。

 そもそも、当方がここで発している「声なき声」、その見解・意見も特定のイデオロギーからではなく、生来のパーソナリテー(性格)やメンタリテー(心性)からきているものと思っている。それは子供時代に、育った境遇の中で形成された。だから、政治・経済・教育・社会などの諸問題や諸政策に対する選択判断基準は一貫している、と思っている。
 当方の生まれ育った境遇から来ているその心性とはどんなものかといえば、「バカでお人好し」「嘘がつけないバカ正直」「自分より相手の方を思いやる」「欲が無い」「人と張り合うのを好まない」、「弱い方に味方したがる」「自分を誇ることを好まない」「自慢する人、威張る人、傲慢な人、人を見下す人間、人をバカにする人間を嫌う」等など(そうかな?と思う向きもありだろうけど)。
 当方のイデオロギー的傾向(思想傾向)も、それら生来のメンタリテー(心性)から来ているのだろう。当方が違和感をもつイデオロギ-は国家主義・自国優越主義・権威主義・多数派独裁主義・官僚主義・資本至上主義・反共主義・競争主義など

 各党は「恵まれている人・生活にあまり困っていない人」「恵まれない人・生活に困っている人」それぞれどの立場に立っているか。
 報道各社は「不偏不党」の建て前からどんな読者や視聴者からも受けるような八方美人的な報じ方をしているようにも思えるが、結局そのスタンスは自民・民主二大政党に偏している(批判するにしても両党のどちらかの立場に立って一方を批判。消費税増税と日米同盟堅持では基本的に一致している両党に同調)。「二大政党」とともに、中間層以上の「恵まれた人・生活にあまり困っていない人」―読者・視聴者の多数派―に的を絞って報道しているからだ。

 むのたけじ氏(ジャーナリスト、社会評論家)いわく「弱い者、小さい者、貧しい者の側の人間なんだから、そちらの側に立ってものごとを考えよう」(生活クラブ生協連合会発行の月刊誌掲載の対談から)。そうだ。そういうことなんだな。

ねたみ?
 朝日新聞(6月28日付)に「若者の夢を奪う税の累進性強化」と題した投稿があって、次のようなことが書いてあった。「累進度の世界に冠たる高さ」「累進性のさらなる強化は若者から『努力すればより良い生活を手に入れられる』という夢をますます奪い、社会の活力を損なうのではないか。」「格差とは、身分制度のように努力しても乗り越えられない壁」なのに「単なる所得の違いから子どもの成績まで格差として表現する、ねたみとも言えるいまの風潮」と。はたしてそうか?
 まず、我が国の税の累進度は高いというが、それは逆で、むしろ低い方。所得税の最高税率は、以前(1970年代)は10%から75%まで19段階もあったこともあったが、今は10%から40%まで6段階だけ。給与水準の違いによる税負担率の差は、OECD加盟30ヵ国中下から3番目に小さい。
 いま若者に「努力すればより良い生活を手に入れられる」という夢を持たない者が多くなっているのは確かだが、それは累進税率が高いせいではなく、高い税率で税を納めなければならないほどの給与が得られないことのほうが問題。40%(最高税率)を納めなければならない1,800万円以上もの給与なんてどうせいつまで経ってもありつけそうにない。それどころか、どんなに努力しても正社員になれない、就職さえできない、ということのほうが問題なのだ。
 格差とは、同じ能力を持った者が同じ努力を払っても同じ待遇が得られず、差があることだ。今は昔のような身分制度はなくなっているとはいえ、経営者・株主と従業員、大企業の社員と中小零細企業の社員、正社員と非正社員、公務員と民間社員とでは、同じ能力を持った者が同じ努力を払っても同じ待遇は得られておらず、それぞれ大きな差がある。そのように不合理な(身分制度のように努力しても乗り越えられない壁による)格差があることは厳然たる事実である。それを批判することは単なる「ねたみ」などではあるまい。
 子どもの成績でも、家庭環境(家計所得など)によって成績に差があることは厳然たる事実であり、そのような教育格差を批判することは、できる子をうらやましがる単なる「ねたみ」とは事が違うだろう。
 ところで夢(志)とは自己実現欲求から生まれるのだと思うが、それには利己的欲望(自分だけ『より良い生活』が手に入れられればよい)だけではなく、利他的欲求(他人のために尽くして感謝される喜びを得ようとする欲求)あるいは共同的欲求(他人と共にやって喜びを分かち合う)もあり、他の人々と共に『より良い生活』を、ということを夢と考える人もいるわけである。
 税は(憲法上、民主国家として国民に納税義務を課している我が国では)市民にとって、搾取ではなく、福祉・教育・公共事業・公共サービスなどの財源(資金)を互いに出し合うことによって、いわば『より良い生活を手に入れられる』という夢を広げるものであって、その夢を奪い、やる気を損なうようなものではないはず。
 但しその税は各人の負担能力に見合った公平・適正な税(応能負担)でなければならない。ところが消費税は(たとえ「福祉目的」のためという名目であっても)負担能力の有無にかかわらず、子供でも、年金暮らしの老人でも、ワーキングプアか職の無い若者でも容赦なく取られ、所得の低い人ほど負担が重くのしかかる不公平税制であるので、それは、国におカネを出し合って社会に貢献するなどというものではなく、まるで国からピンはねされる搾取のようなもの。
 このような消費税を増税することこそ子供・老人それに若者から夢を奪うものと言うべきだろう。

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