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2005年08月 アーカイブ

2005年08月12日

朝まで生テレビ―「帝国軍人があの戦争のすべてを語る」(第二弾)に疑問

 元軍人、陸海それぞれ5人ずつ。うち陸軍の二人だけが兵卒で、あとは下士官と将校。いずれも戦場で戦い、或は現場で働いた方々で、幸運にも生きて帰れはしたが、その辛酸と苦難は並たいていのものではなかった、とは思う。

しかし、よく考えてみると、この方々は、大方は陸や海の戦場で敵兵・敵機・敵艦と遭遇して戦闘にたずさわったか、或は本土や島で敵を迎え撃とうとして待機していた方々ばかりで、侵攻し占領した都市や村で住民や人民と直に接して関わりあったという現場経験は(シベリアに抑留された方と七三一部隊におられた方はともかくとして)格別無い方々ばかりのようであったということ。したがって、この方々は、戦闘以外には、相手国の人民に対する加害行為などは何もなかったという立場の方々ばかりのようで、どなたにも加害意識は見られず、その点の反省を語られた人は(「七三一」の方を除いて)誰もおられなかったということ。

「アメリカは、野蛮にも、戦闘能力のないものに対して機銃掃射をやったりしたが、日本は白旗を掲げている敵艦を撃つようなことはしなかった」と語られた方がいた―真珠湾で錨をおろして停泊している艦隊に奇襲をかけたこと等は度外視している―が、田原氏が「中国の人たちの話を聞くと、日本はアメリカよりも、もっとひどいことをしたと言いますが?」と問いかけると、その方は「それは、陸軍さんはどうだったかわかりませんが、海軍はそういうことはしません」と言われた。たしかに、海軍は主として太平洋の海の戦場でアメリカ軍を相手に戦ったのだろうし、都市や村の住民や人民を相手にしたのは陸軍であったろう。もう一人の方は、日本軍は内地には43万人しかおらず、1050万もの将兵は大陸と太平洋に散らばっていたと言っておられたが、その大部分は中国をはじめとする大陸の都市や村で住民・人民を相手にしたのである。帝国軍人はそこで彼らに何をしてきたのかが問題なのではないか?

これらの方々が語っていることは、結局、日本に無理難題(アメリカの「ハル・ノート」のことで、中国やインドシナから手を引けというもの。中国人民などからすればむしろ当然の要求なのだが、日本はそれを突っぱねた)を突きつけて戦争を仕向け、「勝てば官軍」で一方的に戦犯裁判を押し付けたアメリカなど連合国側の方が悪いのであって、日本側には誰にも罪は無く、(ドイツの力を過信したとか、ソ連を信用したのが間違いだったとか、手を広げ過ぎたとか、引き方を誤ったなど)戦略を誤った上層部と、無謀な作戦を、反対を押し切って強行した軍司令官に非はあっても、すべてのことは、国を思う気持で、あの時はそうするしか選択肢がなく、或はそれが最良の方法だと思って、皆よかれと思ってやったことなのだ、という話になっている。

それから、最後の締めくくりで田原氏が、「平和はだいじ。しかし平和を守るには安全保障が要る。戦後の日本人にはそこが抜けたんだ、と皆さんは言いたいんでしょ」と云われたが、それには非常に引っかかった。それは、まるで、先だって自民党が出した「新憲法草案」が、現行憲法の「戦争放棄」に変えて「安全保障」としていることを正当づけて言われたものと受けとられた。

以上の点で疑問を感じました。いかがなものでしょうか?

2005年08月17日

アジアの人たちの悲劇も取り上げて

 16年も前、本紙に「なぜ教えない」という投稿で、「毎年夏になると、テレビでは原爆や空襲など戦争を扱った番組が増える。しかし、その中で日本の中国侵略を扱ったものは少ない。なぜ、日本人は、アジア侵略の事実に触れようとはしないのだろうか。」と指摘していた高校生がいた。

 今年は、戦後60周年ということで、この夏はいつも以上に戦争関連番組が放映された。

ところが、それらを見ると、やはり自国の悲劇を扱ったものばかりで、アジアの人たちの悲劇を正面から扱ったものは一つもない。ずうっとこうなのだ。

 こういう流し方をされると、いやおうなしに、日本人は被害者としか意識されなくなる。とかく、戦争責任に無頓着な向きが多くなっている原因は、このような番組の流し方にもあるような気がしてならない。

 私が勤めた学校では、毎年、修学旅行の広島行きをひかえて全校映画教室がおこなわれ、原爆や戦争映画が上映されたが、時には中国映画の「南京1937」なども上映された。生徒の中には、感想文に日本軍人に扮した俳優を大根役者などと酷評した者もいたが、しっかり見ていたように思う。

 テレビは被侵略国側の悲劇をもきちんと取り上げ、歴史教科書もこれらをはずすようなことをしないようにすべきなのではないだろうか。

2005年08月18日

戦争の被害者と加害者

 民放のあるテレビ局の戦後60年特別企画「ヒロシマ」を見たが、その中に、原爆開発にたずさわり広島上空から「きのこ雲」を自ら撮影したというハロルド・アグニュー博士が出演していた。彼は来日して広島を訪れたが、そこで、「『罪なき民間人』というが、それは違う。戦時中は誰もが戦争に貢献をしていた。罪なき人はいない」と述べた。しかし、原爆資料館を見学すると、そこでは、説明を聞きながら「ひどい話だ」を連発していた。その後二人の被爆者の方と面会し、話を交わしているうちに、被爆者の方から「謝ってほしい」という言葉が出た。すると博士は「私は謝らない。リメンバー・パールハーバー、謝るのはそちらの方だ」と言ったものだ。被爆者の方はくやしくて残念でしかたないという面持ち。

 それを見て私は考え込んでしまった。アメリカ人でさえ、日本人はあくまで加害者なのだと思っている。ましてや中国人・韓国人などアジアの人たちはなおさらだろう。

 番組の中で筑紫哲也氏は「戦争の被害者の気持を加害者の方が思いやるというのは、とても難しい」と述べていたが、日本人が中国・韓国などアジア諸国の被害者の方々を思いやるのは、やはり難しいことなのだろうか。

2005年08月19日

近現代を教えないのは暗黙の了解?

 8月15日、NHKの大型討論番組「これからの日本―歴史認識」があった。そこで、日本では近現代をちょっとしか教えない、その理由を町村外相(前文相)は、「一つには、最初から真面目にやり過ぎてるということもあるんですが、逆に、近現代をやるためには先生の思想性が問われるからなんですよ。教員組合の人たちは、どっちかというとマルクス=レーニン主義的な教え方をしたがる。教育委員会・文部省は、それは困るという。したがって、だいたい江戸時代で終わるようにして、近現代はさわらない。これが暗黙の了解なんです。これは事実なんです」と語った。私はまさかとは思ったが、日本人と他のアジアの人たちが多数集まったスタジオ内からざわめきの声は聞かれたものの、一人の日本人年輩者から「大臣は正直なことをおっしゃった」という同調意見があっただけで、異論・反論はなかった。大臣のこの発言が本当だとしたら、一体何ということだ。

私自身は、私立高校で、教師なりたての頃はともかく、また受験にとらわれている生徒には教えにくいことはあったが、それ以外には近現代は時間をかけて教えたつもりだし、文部省と教員組合との間で暗黙の了解があったとは夢にも思わなかった。

これは聞き捨てならない事だ。

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