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2004年07月 アーカイブ

2004年07月12日

北朝鮮問題

 対北朝鮮強硬派が優勢の中、小泉首相が先の訪朝で「敵対から友好へ」「核を完全に廃棄することによって得られるものと、核を持つことによって得られるものは天と地ほど違う」と述べたことについてはもろ手をあげて賛同したい。
 拉致はテロと同様、人道に反する許しがたい犯罪であり、それに対しては、「金正日打倒」「日朝国交正常化反対」「経済制裁発動」「食糧援助ストップ」など声をあげたくなる気持ちは、心情的には理解できるが、実際問題として、そのような敵対政策と国交正常化推進政策とで、はたしてどちらが問題解決にとって適切なのかである。
 あのような国と国交正常化しなくともよく、敵対政策を続け通すという敵対関係継続政策からは、どんな解決が生まれるというのだろうか。軍事的・経済的圧力はかえって相手を硬化させ、解決を難しくしないのだろうか。
 そもそもかの国の独裁体制も先軍政治も強制収容所も拉致も、もとはといえば(歴史をたどれば)日本によるかつての植民地支配に対する抗日ゲリラ闘争とそれ以来の反日感情および朝鮮戦争以来のこの国の対米・対韓国冷戦─常時臨戦体制の中から生まれたものである。
 それをその敵対関係をそのままにして、なおかつ軍事的・経済的圧力を加えるのでは、ただ反発を強めるばかりで、こちらの要求に素直に応ずることなどあり得まい。むしろ敵視政策はもうやめ、敵対関係継続政策をやめにして、友好の手をさしのべてこそ、相手は心を開き、拉致問題に関する要求にも、核開発の放棄にも応ずる気になるのではないだろうか。ただし友好の手をさしのべるといっても、イデオロギー的偏見(反共)や民族的偏見はもちろん、軍事的・経済的圧力はひかえるものの、交渉にあたっては毅然として道理と誠意を以てのぞむ以外は、相手に余計なアメを与え、ご機嫌をとり、無法・非道行為にたいして甘い対応をするというわけではない。
 小泉首相は、「敵対から友好へ」と切り換えようと言明して話をもちかけ、金正日総書記も拉致被害者家族の帰国と死亡したとされた不明者の再調査に応じ、また核問題等に関する六者協議を進展させることに応じたのである。
 尚、首相の「核を完全に廃棄することによって得られるものと、核をもつことによって得られるものは----」との言葉は、アメリカに対しても言えることであり、また我が国においても、小泉首相をはじめ自民党・公明党・民主党などが日本の平和憲法を解釈改憲から明文改憲へと進め、ミサイル防衛(米国製ミサイルの配備、「敵基地への先制攻撃」も)、中には核武装さえ容認する向きも(2003年11月毎日新聞の調査によれば衆議院で自民党議員63人、民主党議員17人)あるが、それらによって得られるものと平和憲法を厳守することによって得られるものは天地ほど違うのだということも、首相に言いたいものである。
 それはともかく、金正日にたいして首相が述べたあの言葉は至言というべきであろう。

イラク復興はこうすれば

 暫定政府に形式的に主権委譲がおこなわれ、この先、国民の選挙で正式政府ができようが、アメリカ連合軍が国連のお墨付きを得た多国籍軍と名を改めようが、アメリカ連合軍がそのまま駐留を続けるかぎり、テロや戦闘はやまない。アメリカ軍がいかに掃討作戦をあの手この手でおこなっても収まりはすまい。
 「テロがあるから米軍が必要なのか、米軍がいるからテロが続くのか。人々は答を出しかねている。」と朝日新聞社説は書く(2004、7、4)。小泉首相は「イラク開戦時前からテロは各地にあった。イラク開戦があったからテロが起きたんじゃない。」(2004、7、6秋田県大曲市内での街頭演説)というが、イラクでは開戦前にテロが頻発することはなかったし、テロリストが暗躍することもなく、フセインとアルカイダのつながりもなかったことも今ははっきりしていることだ。イラクに米軍が来て、そこにい続けるようになってからテロが頻発しだしたことは誰の目にも明らかではないのか。アメリカ軍が居座り続け、テロやゲリラがおこなわれる原因・理由が存在するかぎり、いくら掃討・鎮圧しようとしても、テロやゲリラは絶えることはないのである。アメリカ以外の外国人が人質にされ、イラク人警察官や暫定政府高官が犠牲になることが多いが、ゲリラやテロの究極的なターゲットはアメリカ軍であり、次いでそれに加担している国の人間である。
 したがってテロやゲリラを鎮静させる最善の方法は、イラクの攻撃を始めて占領・駐留を続けているアメリカ軍とそれに加担している国々の軍(日本の自衛隊を含む)をすべて撤退させることである。そうすれば反米テロ・反米ゲリラは収まる。イラク国家・社会の治安回復・再建・復興は、そこから始まる。それらはイラク国民自身が主体となっておこない、それにたいする人的支援(サポート)は国連を中心とし、手を汚していない(すなわちイラク攻撃・占領に当ったアメリカとその連合国以外)国々(フランス・ドイツ・ロシア・中国・アラブ諸国など)の者たちでおこない、その経費は(イラク社会の秩序やインフラを破壊し荒廃させたその責任から)アメリカとその連合国が負担する。(それらのことは新たな国連決議で、国連が決める。)それ以外にないのではないか。
 しかしアメリカに、それに応ずるいさぎよさがあれば大したものだが、応じるわけがない、ということか。だとすればイラクは、パレスチナと同様いつはてることもなくテロやゲリラが横行し、治安回復・再建・復興はいつのことになるかわからない、ということにならざるをえまい。

日本国憲法は世界の宝

 日本国憲法は世界共有の宝ともいうべきものであり、広島の原爆ドームとともに世界遺産ともいうべきものである。ただしそれは単に稀少であるが故の世界遺産ではなく、日本国民のみならずアジア諸国民、世界の諸国民にとってその死活に関わり、子孫の運命に関わる共有遺産だからである。
 それが言えるのは、第二次世界大戦という人類史上未曾有の世界戦争の結果創られたということの他に、次のような事実によってである。
 1991年アメリカではオーバービー教授を中心に「憲法9条の会」が立ち上げられ、合衆国憲法に日本国憲法の精神を織り込むことをめざしている。
 1999年5月オランダで開かれた「ハーグ平和アピール市民会議」では、「公正な世界秩序のための10の基本原則」を採択し、その冒頭の第1原則に「各国議会は、日本国憲法9条のように、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」とうたっている。
 2000年5月、国連本部で開かれたNGOの集まり「ミレニアム=フォーラム」では「すべての国が日本国憲法9条にのべられている戦争放棄の原則を自国の憲法において採択する」という提案がとりあげられている。
 そのようなやさきに当の日本で9条が廃止されたとあっては「国際社会において名誉ある地位」を占めるどころか、世界に恥をさらすことになるだろう。
 世界共有の宝、世界共有遺産を日本国民が壊してはならないのである。
 それにもかかわらず、今、国会議員の圧倒的多数が改憲派で占められ、護憲派は極めて劣勢である。早晩、国会で改憲案が発議され国民投票にかけられる。
 日本国民は、21世紀を通じて生きる我が子や孫たちのために、ひいては世界諸国民のために、この平和憲法を死守しなければならない。

 この私がホームページを開いたのは、実は、このことを人々に訴えるためにほかならないのです。

私の憲法論

 私は63歳になりますが、生まれて一年後に太平洋戦争が勃発し、5歳になる年にそれが終わって、その翌年に現在の日本国憲法は制定された、というしだい。
 この憲法を論ずるにあたって、まず踏まえておかなければならないことは、それは日本人のみならずアジア諸国民・アメリカ人・ロシア人その他幾千万にもおよぶ戦争の犠牲を通じて、世界史上この上もない高い代価を払って得られたものだ、ということである。
 この憲法はアメリカに押しつけられた憲法だという向きがあるが、マッカーサー回顧録によれば、戦争放棄の条項は制定当時首相であった幣原喜重郎が提案したものだという。その回顧録には次のようにある。(自由書房、高校政経教科書指導書「新政治経済指導資料」)「日本の新憲法にある有名な『戦争放棄』条項は、私の個人的な命令で日本に押しつけたものだという非難が、実情を知らない人々や刊行物によってしばしば行われている。これは次の事実が示すように真実ではない。------首相(占領軍最高司令官マッカーサーを訪れた幣原首相)はそこで、新憲法を起草する際、戦争と戦力の維持を永久に放棄する条項を含めてはどうか、と提案した。日本はそうすることによって、軍国主義と警察による恐怖政治の再発を防ぎ、同時に日本は将来、平和の道を進むつもりだということを、自由世界の最も懐疑的な連中にも納得させるだけの確かな証拠を示すことができる、というのが首相の説明だった。----私は腰がぬけるほど驚いた。----氏は----顔をくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』といった。」
 ところが憲法制定の翌年、アメリカ側から、世界戦略の都合上、日本の再軍備とそのため憲法修正が必要だとの方針が打ち出され、今度は吉田茂首相に憲法を改定してきちんとした軍隊をつくれといってきた。しかし吉田首相はそれには応じなかったという。
 そこに朝鮮戦争が始まって、それを機にマッカーサーは日本に警察予備隊(自衛隊の前身)をつくらせた。それは9条の実質的な解釈改憲の始まりであった。その後占領解除、主権委譲はおこなわれたものの日米安保条約で米軍基地駐留を認めさせられ、自衛隊がその補完部隊とされるようになった。
 自衛隊と米軍の協力による有事即応態勢づくりはさらに着々と進められていった。そして自衛隊は、今や(軍事費では)アメリカに次ぐ世界第二の規模に成長し、アメリカ軍の後にくっついて海外にまで派遣されるようになり、今イラクに行っているのである。
 それでも、派兵には未だ遠慮がちの日本にたいして再びアメリカ(アーミテージ国務副長官)から憲法改正を促され、政府与党および民主党もそれに応じようとしているのが今の状況なのである。
 憲法9条(非武装中立)と日米安保条約および自衛隊は矛盾し、本来両立しがたいものであるが、これまでずうっと、日本政府は自国憲法とアメリカのどちらに忠実であったかといえば、アメリカの方に忠実であった。そして今、日米同盟は21世紀を通じて不動のものと見なし、憲法(9条)を捨て去ろうとしているのである。
 思うに、小泉首相や日本政府にとって、縛りから解放さるべきは憲法からではなく日米同盟の呪縛からであり、靖国神社(公式参拝)からであろう。それらは日本の自主外交・国際平和貢献の妨げとなり、我が国の国際社会における名誉ある地位と信用を損なってきたものである。日米安保とそれに基づくアメリカへの追従政策さえなければ、反米テロリストや北朝鮮のような反米国家の脅威におびえる必要はないのであり、アメリカと反米勢力、双方を説得できる説得力を確保することもできるのである。日米同盟という虎の威を借りなくとも、いや、借りたりしないほうがかえって核開発やテポドンに脅える必要もなく、日本の首相が金正日と談判でき、米朝双方を説得できるというものである。さもなければアメリカの手下や子分の分際で誰が言うことを聞くかだ。(小泉首相は訪朝して談判をしてきたわけであるが)
 憲法を制定して58年もたっているのに、いったいいつまで日米同盟にすがりついていないと何もできないというのか。沖縄はいつまで米軍基地の島であり続けなければならないのか。

「アメリカ追従国家」か「不戦平和大国」か

 世界の各国はそれぞれ諸国民から一定のイメージをもたれ、評価もされているだろう。
 スイスやスウェーデンだったら「中立・平和国家」。アメリカだったら「自称『自由と民主主義の国』で好戦国」。ロシアだったら「かつての超大国で今は三流国家」。北朝鮮や旧イラクだったら「独裁国家」「ならず者国家」。
 それでは、我が日本はどういうイメージで見られているか。かつては「軍国主義の国」、ひと頃は「エコノミックアニマルの国」、今は「経済大国」、最近ハリウッド映画のおかげで「サムライの国」とのイメージも付け加わっている。それにもう一つ「親米国家」(「アメリカ追従国家」)。
 しかし日本国憲法がめざしているのは「不戦平和大国」であり、その「不戦平和大国日本」のイメージが世界に定着して、我が国が各国から信頼を得、国際社会において「名誉ある地位」を確保するようになれば、それが我が国にとって国益となるのである。
 我が国は「アメリカ追従国家」のイメージを払拭し、「刀を捨てたサムライの国」「不戦平和大国」のイメージ定着をめざさなければならないのではないかと思う。

21世紀は反テロ戦争の時代か

 21世紀は犯罪も暴力も戦争もテロもなくなりはしないどころか、それらはますます増えるばかりであるかのように語られる。はたしてそうだろうか。
 それらは、なにも21世紀になったからといって、こらえ性がなくキレやすく狂暴な人間が増えるようになったからというわけではあるまいし、宗教・イデオロギーのせいでもあるまい。狂信化・過激化はむしろ社会の不条理と生活の不安の結果であろう。それらの根本原因は生活の貧困・欠乏・不安・社会的不公正・富の偏在などのことにほかならない。いわゆるテロや紛争の発生する土壌である。
 それは、グローバリゼーションがこのまま進んで資本主義市場経済が世界をおおうようになると、貧富の格差が拡大してますます激化する可能性はある。しかしその進行を抑制し、先進諸国による援助・協力によってそれら(欠乏・富の偏在・不公正など)を改善することも可能なのである。ところがアメリカ等はその方(市場経済自由化の抑制、援助・協力)には消極的で、かえってそれを自由(新自由主義など)の名のもとに放任・放置し、人々の不満爆発-テロや紛争が起きた時(有事)にそれを力(軍事)で抑えつけることばかりに力を注ぐ。そしてその戦争政策と武力行使を「21世紀は反テロ戦争の時代」などと称して脅威を煽って正当化する。それがかえって激しい抵抗を招くのである。
 したがって、そのような軍事優先は邪道であり、いかに圧倒的な軍事力をもってしてもテロを根絶することはできない。欠乏・富の偏在・不公正を放置しながら(ODA等の援助はやっているとしても軍事費に比べればはるかに少ない)、アメリカが、そしてそのアメリカにくっついてこの日本がミサイル防衛など軍事力をいかに完ぺきに備えようとも、反米・反日のテロや大量破壊兵器の脅威を無くすことはできないのである。

日本国憲法に基づく安全保障とは

 それは非軍事的(軍事に頼らない)方法による安全保障で、それには次のようなことが考えられる。

  1、自国が軍隊(戦力)を持たず、交戦権も放棄することによって他国の安全を保障する。
  2、日米安保条約はやめ、アメリカを含むすべての国と友好関係(平和友好条約)を結ぶ。
  3、常日頃から、ODAその他によって、飢餓・貧困、開発、保健・医療、災害復旧などにたいする援助・協力にせっせと取り組むことによって、紛争やテロの発生する土壌(人々の不満)を無くし、日本や日本人が攻撃 の対象にされテロの標的にされる心配を無くする。いわゆる予防的国防である。
  4、それでも万々一、他国が弾道ミサイルを撃ち込んでくるとか、侵攻してきて島や本土の一部あるいは全土を占領するとかのことがあった場合には、警察力や市民のレジスタンス、ボイコット・ストライキといった不服従抵抗などハード・ソフト両面にわたって可能なあらゆる手段・方法を駆使して抵抗する。また国連の集団安全保障措置(軍事的・非軍事的制裁措置)によって侵略軍・占領軍は排除する。

 なおこの場合「万々一」ということは、そのような事態はほとんどあり得ないことだということ。なぜなら、友好国・援助協力国でなんの脅威もなく敵対国でもない国にたいして攻撃を加えて得られるメリットはないわけであり、食糧・物資など奪うものがあっても、日本国民の抵抗・不服従や国際社会の非難、国連の制裁によって失うものの方が大きくなることを考えれば、それは無意味なことであり、無意味なことをするバカはいないからである。
 現代戦争においては軍事的防衛は困難を極め、軍隊によらない防衛のほうが軍隊による防衛よりもリスク(犠牲や被害)が少ないのである。
 なお不審船や工作員・テロリストの潜入、武装集団の侵入、密輸・密入国などにたいしては海上保安庁で対処するが、現在のそれでは不十分だとすれば、改編・増強して「警備隊」とする。自衛隊は装備等は縮小してこれに改編する。
 警備隊は上記のうち4(万々一の侵攻があった場合)に対応する。ただし国連の軍事的措置(国連軍や多国籍軍)には参加しない。

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