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2020年01月 アーカイブ

2020年01月03日

15%が社会を変える

<以下は国際ジャーナリストで「9条の会」の世話人も務める伊藤千尋氏の著書『9条を活かす日本―15%が社会を変える』新日本出版社による>

悪政を覆す方法―選挙で50%以上の票を獲得できればよいが、選挙まで待たなくても15%の市民が立ち上がれば、社会の空気を変えることができる―「15%の法則」。
 10%強の人々が一斉に目立つ行動をとれば、世の中すべてがそうしているように見える。
  例:9・11の時の星条旗―ロスアンゼルスの中心部、街を走る車はすべて国旗の小旗をつけている・・・・ように見えた(新聞もテレビも「すべての車が国旗を掲げて愛国の意志を表明しています」と流した)が、実は(交差点に立って数えてみると)11~13%だった。
   ベルリンの壁崩壊の時―きっかけは東ドイツ第2の都市ライプチヒの中心部にある教会で月曜の夕方行われる祈りを終わって出た市民200人が、そのまま自由化を求めるデモを始め、その後も毎週月曜にデモ。人数が5千人、2万5千人へと膨らんだが、ここまでは警察が武力で鎮圧。しかし、7万人(ライプチヒの全人口の10%強)に膨らむと警官は手出ししなくなった。当局の目には市民がみんなデモをしているように見えたのだ。それが12万人(20%)に達すると警官は交通整理をしてデモに協力するほかなかった。デモはベルリンに飛び火し、首都で史上最大の100万人に達し、数日後ベルリンの壁は崩壊した。
 南米チリの選挙―1990年(国民投票によって)民主化した後の選挙結果分析―
有権者の3割―固い右派
    3割―固い左派
    4割―中間派―自分では何もせず、政治の流れに引きずられる。
   選挙では、その中間派を引き寄せた方が3割と4割の合計7割を占めて勝利。
   右でも左でも、中間派にまで影響力を及ぼすのは、結束してエネルギーを持った時。
   3割が結束するためには、その半分の15%が強く行動に出た時だろう。
 右派3割、左派3割、中間派4割という割合はどこの国でも似たようなものではないか。
 (国民の3割は保守的で3割は革新的、残る4割は無関心か或いはどちらにもなびく中間層)
 どこの国でも15%が結束した勢力が、その社会を政治的にリードするのでは―15%の市民が一斉に明確な行動を起こせば、直ちに社会の空気を変えることができる。
 「一斉に明確な行動」―「みんながそういう思いで、そうしているように見える」アピール力を持った行動―デモ、「アベ政治を許さない」の札を付けるとか・・・・。

「街角で訴えても、無視して通り過ぎる人がほとんどで、この声が届いているのか不安―反応が感じられない―しかし、訴えは通じないように見えても実は通じていた。その人々の耳にも聞こえているのだ―あきらめずに声を上げることが、いつの日か壮大な人々の行動を呼び起こし、国政を変えていくのだ。」
 「最大の悲劇は悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は暴力の陰に隠れた同罪者である」―キング牧師 
「行動する良心たれ。行動しない良心は悪の側にいる」―キム・デジュン

整然とした非暴力の抗議行動、思想や信条を超えて幅広い人々が集まる。
マスコミは報道しなくても、SNSなどネットや口コミで知り、共鳴して集まる。

どのようにして支持・不支持が分かれるのか(完成版)

 政治や事業など何か大事なことを人に託そうとする場合、人物や団体が複数あがっている選択肢があれば、親近感・信頼感のある方を選ぶ(→支持)
 為政者・政党を選ぶ場合は
[支持層]
  国際ジャーナリストの伊藤千尋氏によれば「右派3割、左派3割、中間派4割という割合はどこの国でも似たようなものではないか。(国民の3割は保守的で3割は革新的、残る4割は無関心か或いはどちらにもなびく中間層)」。
保守―30%―現政権支持・現体制維持―変化を求めない(対症療法的・部分的改革だけ)
            現状―あたりまえ
            先例踏襲―変えるよりも変えない方が楽で合理的だと
革新―30%(今の日本では立憲民主・共産・国民民主・社民・れいわ等合わせても10%台だが、それはバラバラな状態で各党別個に支持率をとっているからで、既に進めている野党共闘・統一候補の擁立・選挙協力から政権交代可能な野党連合政権としての共通政策・ビジョンを打ち出して、「野党連合」とひとくくりにして支持率を問うならば、それら野党の各党支持率を足し合わせた数を大幅に上回るパーセンテージとなろう)―それらが現政権に反対・現体制に不満―政権交代・変革を求める
         その積極的部分15%が声を上げ、行動を起こせば→人々の意識・文化を変え
         るエネルギーとなる。
保革どっちでもない―40%―「無党派」「無関心」―消極的―「他人事」「思考停止」
                          自分の考え・意思を持たない
                          保革どちらか、影響力の強い方に付く
 世論調査で政党支持率や内閣支持率調査、或は国政選挙などに際しての投票では、一般に有権者は各党・各候補の政策・公約を比較検討、熟知してその適否を判断して投票、つまり政策で支持・投票するよりは、その候補者・政党に対する印象・親近感・信頼性などの感覚的なもので支持・投票する向きが多いのでは。

[親近感(シンパシー・共感)]―現政権を支持する保守派と現政権に反対で野党を支持する革新派、それぞれが(3割づつ)存在し、一方は現政権与党の方に親近感を持ち、他方は現政権に反対な野党の方に親近感を持ち、支持を寄せるわけである。
 一般に親近感を持つのは、どのような人に対してかといえば―
   自分と同じような・似たような境遇の人
   自分の「好みのタイプ」
   趣味が共通
   価値観が共通―次のような色々な価値の中で優先しがちなのが共通
         実利 
         力(強さ)
         快楽
         人間的自由・人権
         モラル(公正さ・人道)
  自分の考えにマッチした考えを持った人 
  政治的には、政権に対して(賛成か反対か)自分と同様な政策の考えや感情を持った人には
                                      親近感もつ
 人間性―誠実―良心的な人(表向きはともかく実際上は全ての人が、そういう人に親近感を持
                               つとは限らないのだが)
       宮澤賢治が「雨ニモマケズ」で「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」ような人
       アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師のような人
        国連の難民高等弁務官を務めた緒方貞子のような人
       それとも安倍首相とかトランプ大統領のような人?
 「恵まれた人たち」・「恵まれない人たち」、強者・弱者、「勝け組」・「負け組」
                       どちらの立場に立つか、どちらに組するか
 応援・支援、味方になる―「弱きを助け、強きをくじく」
                     口先だけ「寄り添う」というのではなく
  
  親近感を持てないのは、どのような人か―
         嘘・誤魔化し、はぐらかし、隠す
         身びいき―私物化
         エリート意識―「凡人」を見下す―頭いい人(分析力・数学の能力のある人)ほど「確証バイアス」(仮説・自説を検証する際にそのエビデンス―根拠・証拠となる情報ばかり集め、自説に合わない情報はとりあわず、無視、軽視する)にかかりやすい―「自分が愚かでないことと騙されにくいことを、何よりも誇りにしている」独善家・冷笑家―短期的な現状のエビデンスを根拠に、不確実で不安定な世界の未来に賭けて行動した人の瑕疵(欠陥)を突き、行動しない自分の心を守ることを優先し、なにも起きないかのように振る舞う。
      傲慢不遜―人を恫喝・ヤジる
      自分に協力・味方する者は大事にし優しくするが、敵と見なした存在は露骨に攻め
                                       立てる。
    しかし、そのような人であっても、権力を持っているその方に組した方が自分の立場上(「寄らば大樹」で)有利だと思えば、そちらにつくということがあるわけである。
 
国に対する親近感―
  自分の生まれ育った国―家族・同胞・仲間・人情・山河(自然・風景)には愛着
             オリンピックやワールドカップ大会などで自国選手を応援する気持
             ちにはなるも、オリンピックなどは国籍や民族などのナショナリズ
             ムを超え、世界平和を希求し謳歌する「平和の祭典」なのであっ
             て、国力を競い、国威を発揚するためのものではない。
  自国民優越意識―他国民・外国人とくにアジア・アフリカ系外国人を見下す
  国のやること―政府のやること―には大人しく従う。
      「愛国心」―かつては「忠君愛国」の教育で(小学校の国語の教科書には
              「サイタ サイタ サクラガサイタ」「ススメ ススメ ヘイタ
              イ ススメ」「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」「ニホン
             ヨイクニ キヨイクニ セカイデヒトツノカミノクニ」などと)
                               国家主義・軍国主義に。
 
 そこで問題は政治についてであるが、選挙の際に投票し、支持率調査で支持する政治家(候補者)・政党に対して国民(有権者)は保守系か革新系かなど、どんな政治家・政党に親近感をもって支持・投票するのかだ。

 支持・評価の判断材料となる情報やエビデンス(根拠)を提供してくれるメディア(SNSも含めて、NHK・読売・産経・朝日・毎日・フジ系・朝日系・日テレ系など大手や地方紙・政党機関紙も)や論者に対して―自分の考えとマッチした情報・エビデンスを提供してくれるメディア・論者・発信者に親近感をもつ。悪く言えば「自分に都合のいい情報・エビデンス」を選びがち。
 メディアや論者にも、自分の考えに近く親近感のもてるメディア・論者もあれば、そうでない(自分とは反対側の方に近い)ものもあるわけである。人によっては特定のメディアに対して親近感をもち信頼を置いて、それを情報源にしている者もいるわけである。
 一般にマスメディア(ジャーナリズム)は「社会の公器」として公正・中立が原則とされ、また「権力の監視」の役割をもつとされているが、中には政府の広報機関でもあるかのような「政府.与党寄り」なものがあり、政府与党やその同調者からみれば、そのほうが「真とも」であり、そうでない方が偏向だとみなされたりする。
 首相が各界の有名人・著名人・芸能人それに後援会員まで集めて「桜を見る会」など公費で主催したりして問題になっているが、メディア幹部や記者とは料理店で会食、互いに「親近感」をもって接する場を設けている。(情報交換の場、メディア側にとっては取材の場のつもりにしているのだろうが。)
 (昨年は24回、「読売」は5回、「日経」は6回
 最近では11月15日フジテレビグループ代表と会食
         18日「読売」の論説委員長・編集局長と会食
         20日内閣記者会キャップと会食
       12月10日「日経」の政治部長らと会食
          17日報道各社の首相番記者と会食)(これらのニュース・ソースは首相との会食には招かれることのない新聞社の記事情報)
 首相はほとんど毎日テレビ・新聞に顔が映る。時には野党から追及を受ける場面などマイナス・イメージに映る場合もあるが、野党は首相や閣僚の不祥事追求・批判など「揚げ足取りばかり」やっているかのように受け取られるのに対して、首相の方は内政・外交とも絶えず精力的に取り組んでいる姿がアップされ「やってる感」(頑張ってる感)が目に焼き付いてプラス・イメージとなる。たまにわずかしか映されることのない野党党首に比べれば、はるかに国民に親近感が得られる機会に恵まれている、というところにも首相在職期間を史上最長たらしめ好条件があるのだろう。

 国民(有権者)は為政者・政党を親近感・信頼感・期待感など感覚的なものによって選びがちだが、それにしても有権者にとって必要なのは(この為政者と批判政党の云ってること、理念や政策のどちらが本当に真ともなのか、この社会この国、この国の憲法は本当にどうあるべきなのか)真理・真実を見抜き、見分ける理性的な判断力なのであって、イメージやフィーリングによって騙され、惑わされてはならないのだ。

 この国の為政者、アメリカの為政者はどうなのか。ポピュリスト政治家とは―大衆心理を見抜いてそれを巧妙に利用。
 かつてドイツの為政者はどうだったのか。
 ヒトラー―「わが闘争(マインカンプ)」に曰く
   (東京法令出版『世界史コンパニオン』によれば)
   「大衆の支持を得ようと思うならば、我々は彼らを欺かねばならぬ。・・・・巧みな宣伝をたえず用いれば、人々に天国を地獄と見せることも、その逆に、最も惨めな状態を楽園のように見せることもできる。」
   「人々の大多数は、その態度及び性質に置いて女性的であるから、かれらの活動や思想は、冷静な考慮によって動機づけられるよりは、感情によって左右される。・・・・宣伝の効果は、したがって、常に感情に働きかけることにむけられねばならない。・・・・大衆の組織者は・・・・大衆の弱点と野獣性につけこむよう努めねばならない。」
 (ウエブサイト「ヒトラーの名言が世の中の真実を語っていて恐ろしい―NAVER」によれば)
   「大衆は小さな嘘より大きな嘘、何度も繰り返される嘘に騙されやすく、ドラマティックな嘘には簡単に乗せられてしまう。大衆は小さな嘘はよくつくものだが、大きな嘘をつくことは出来ないし、大衆の多くは無知で愚かだからである。偉大な嘘つきは偉大な魔術師だ」
   「女は弱い男を支配するよりも、強い男に支配されたがる」
   「熱狂する大衆のみが操縦可能である」「政策実現の道具とするため、私は大衆を熱狂させるのだ」
   「平和は剣によってのみ守られる」
   「私は間違っているが、世間はもっと間違っている」「弱者に従っていくより、強者に引っ張っていってもらいたい・・・・大衆とはそのように怠惰で無責任な存在である」。

2020年01月20日

日本人の国民性

古来 島国で農耕社会→ムラ社会―運命共同体
      集団互助依存的生活→甘え・寛容、自律性の欠如、無責任性、排他性
       ウチ―融和―「」―「以心伝心」(云わなくとも解り合える→忖度)
                情緒的人間関係―「先情後理」(理性より感情が先行)
                言葉や論理が曖昧・不明確、主客未分離、主語を省略
       ソト(ヨソ)には無関心か敵意
   自然災害が多い―自然崇拝・アニミズム(精霊信仰)―八百万神―多神教
      神道と仏教の融合(「神仏習合」)、
   宗教的寛容、現実主義(現世ご利益を求める)
        自然との共生、受容的感性、忍従的
江戸時代―幕府により鎖国政策とともにキリスト教禁止
   儒教は(中国からの伝来は仏教よりも早く5世紀だが)武家社会に定着)―封建支配秩序                     (「タテ社会」)と幕藩体制の維持に役立つ。
    仁義礼智信(五常)の徳目を守れば、父子・君臣・長幼・朋友(五倫)の人間関係がうまくいくと。
      権威による「和」の維持
    滅私奉公の武士道、忠孝道徳、目上の人を敬い、礼儀を重んじる。
    家父長的家族制度 男尊女卑
   蘭学など実学
明治以後―日本的伝統に西洋的合理主義(功利主義)を結合
 国家や産業・企業の役に立つ人材教育→富国強兵・国力の発展・軍国主義、戦後の産業経済            の復興・経済成長も。
   「国家神道」―天皇統治体制の下で皇祖神(天照大神)を祀る伊勢神宮を総本山として全国の神社を階層的に傘下に置く。
   「教育勅語」には「君への忠」「親に孝」「義勇公に奉ず」「皇運扶翼」などの徳目はあっても「殺すな、盗むな、嘘つくな」とは書かれていない。      
戦後―依然「役に立つ」ための教育受験教育、知識偏重、詰め込み教育
      人間教育・人権教育・主権者教育・平和教育などは疎かに
      共同体意識は希薄に―利己主義・自己責任(cf欧米人―個人主義・理想主義)
      学校教育―「前倣え」、「云われたことをやる」「社会の答えに自分を合わせる」                    
           自分の頭で考え、意見を論じること(議論)が苦手
現在に至るまでの日本人の特性
    集団主義的傾向ウチの集団への所属意識が強く「和」を重んじ、ソトの集団に対しては無関心か敵意。
           風習への因習的服従
           「世間」(「周囲の目」「世間体」)を気にする―同調圧力を感じ、
               「恥」を意識(周りの人たちから「笑われないように」と)
              →「人(他人)に合わせる」「空気(周囲)に流される」「長いに巻かれろ」「寄らば大樹」―自律性の欠如
           「普通」にしているのがよい―“T(時)P(場所)O(職務)”をわきまえろ―はみ出すと、「普通じゃない」といって叩かれる
           組織の多くは「事なかれ主義」(波風を立てない、事を荒立てない、摩擦やもめごとを避け、平穏無事でありさえすればよい)―相互監視、「忖度」し合う
    (cf欧米人(キリスト教徒)は「神の目」しか気にしない―自律性―個人主義)
先情後理―感性や心情を重視(cf欧米人は論理的で合理性を重視)
 哲学的思考(物事の本質を掘り下げて考えること)が苦手で、物事の本質や生命現象や自然現象の根本原理に対する探究心・理解に欠ける
実利主義(役に立つかどうかを優先・判断基準)(現実主義)
    ご都合主義―宗教は多神教(神道・神仏習合・「クリスチャンでもないのにクリスマスを楽しむ」など)
          タテマエ(原則)とホンネ(自分の都合)を使い分ける
特有の倫理観(道徳意識)―どの民族にも「殺すな、盗むな、嘘をつくな、姦淫するな」などの戒律(仏教の「五戒」や旧約聖書の「十戒」)があり、それを犯すことに対して「罪の意識」をもち、内なる良心に反してはならないということを理由にするが、日本人の場合は、それを「外目に悪いとか、外聞が悪い、世間体悪い」といったように「恥」として意識し(「恥の文化」などと指摘され)、「他人に迷惑をかけるから」とか、「人に不快を与えるから」といったように外的な理由から意識する。(それは人の迷惑にさえならなければかまわない、人目に触れなければかまわないということにもなり、これも「ご都合主義」)

  高齢者・若者―いずれも受験や就職に役に立つ実利主義教育を受けてきて、人格を磨くとか世のため人のために尽くすとか真善美を探究・創造するとかの志が乏しい。
  日本の若者―自分を認める意識が低い。
     「自分で国や社会を変えられる」とは思っている者の割合が他国に比べて低い。
     消極的―「別に欲しいものはない」―消費も、恋人も(?)
     合理主義―行動する前に、結果を先に考える―「ビールって、飲んで何になるんですか?終電がなくなる、それなら初めから飲まない」
     自己責任に敏感で、賢くリスクヘッジする(リスクを予測して対応―備える)
     国の政策にはあてにしない(諦め)傾向―政治に関心が向かない
        ―先が見えないから内向きになる  
       若者の投票率に低さ―「政治への期待がないからではなく、投票したいという政治家が現れていないから」とも。
     SNSで―コミュニティーをつくる・・・・#Me Too
          「推し」(フアン・応援)の相手が同じ者同士との交流
          独自の意見を発信―政治のメッセージも
     グローバル化―既存の小さな世界からはみ出し(外に意識がむくように)も

道徳意識(モラル)―「外側の目」―世間の目・監視カメラ・法律を気にし、「恥」の意識(cf欧米人―キリスト教―「罪」の意識―誰も見ていなくても「神の目」からは逃れられないとか、内なる良心に背いてはならないと)。
  
主権者意識・人権意識が低い―主権も人権も「与えられた」もので「闘い取った」という意識が薄い→「お任せ民主主義
 投票―主権者である自分の代わりになって頑張ってほしいと推したて応援して投票―投票した人物や政党に非があれば自分にも責任ありと自覚―その意識が薄い(消極的選択―消去法)
男女格差(ジェンダー・ギャップ)121位―先進国では最低、中国(106位)・韓国(108)以下

  <参考:朝日新聞1月3日付け「2020どう生きる」
       同  15日付け「アドバンス―政治と若者」―トレンド評論家・牛窪恵
       同      オピニオン「はみだす力」上―アーティスト・スプツニ子!さん
       同  16日付け    同上     下―モデル・看護師・青木美沙子さん>

「憲法の歌」に思う

 改憲の歌(中曽根元首相作詞の「憲法改正の歌」をはじめ、自民党本部関係者が作ったJ-POP調の「憲法改正ソング」、それに「憲法改正応援歌」など)がある、一方、「わたしのねがい」(最近、日弁連企画の憲法ソング・コンテスト大賞を受賞した尾池ひかりという児童の作詞で「私が大きくなっても このままの憲法であること、それがわたしのねがい」)という歌があり、又「憲法は僕たちのもの、政府が変えるものじゃない、守りたい人も、変えたい人も、みんなで考える」といったような歌詞で若者が作った「憲法の歌」もある。それに現行憲法(前文・条文)そのものに曲を付けて歌にしたものもある。代表的なのはシンガーソングライターきたがわてつの曲だが、他にもYouTubeにはラップ調とかフォーク調の曲を付けたもの、それに「日本国憲法をカラオケボックスで歌ってきた」とか「日本国憲法前文・カラオケ音源」といったものも投稿されている。
 当方も前文と主要な条文に節を付けて歌ったオリジナルを試み2年前YouTubeに「日本国憲法朗詠歌」などとして投稿したりした。
 憲法は「理であり、国の誰もが従うべき冷厳な法令なのであって、心情で歌ったりする筋合いのものではない」といった決めつけや思い込みがあるだろうが、必ずしもそういうものだとは限るまい。この憲法をつくったのは法律家たちではあっても、先ずは国民の心情を汲み取った心の思いから発想して法文として作成し、その文章は作家(山本有三)らが言葉を練りあげて作りあげたものであり、作詞家の中西礼は「憲法は詩でも小説でもないが、美しい理念をうたい、感動を与える『世界に誇れる芸術作品』であると」評している。だったらこれを歌わない法はあるまい。
 きたがわの歌は先年、山形市で開かれた母親大会でゲスト出演した彼がギターを弾きながら歌ったのを初めて聴いてCDを買ってきたものだが、その後NHKのニュース9の特集で「憲法には歌があるんですね」ということで紹介があって、中曽根元首相の「改憲の歌」と合わせて、きたがわの「憲法の歌」を流して聴かせたことがあった。
 YouTubeでは、中曽根元首相の「改憲の歌」は視聴回数が(藤山一郎・安西愛子がデユエットで唄ったのと元首相自ら唄ったのと合わせて)10万4千回以上、自民党本部関係者の「改憲ソング」は同じく10万4千回以上、きたがわの歌は約27万回、当方が投稿したものは(「憲法朗詠歌」とその縮小版「平和憲法の歌」を合わせて)約4千回。
 当方は一昨年市内で「憲法カフェ」と称して10人足らず集まってもらい、きたがわの歌と当方のオリジナルを紹介して「憲法の歌をうたってみませんか」ともちかけたことがあったが、それっきりで終わって残念な思いをした。
 憲法は国民のものであり、憲法を歌うということは、それを「♪われらは・・・・」と歌うことによって憲法を自分のものとして心に刻むことができ、自分の心とすることができるわけである。
 韓国では「ローソク」デモ(キャンドル集会)では憲法の条文(第1条「大韓民国は民主共和国である。主権は国民に在り、すべての権力は国民に由来する」)に(民衆歌謡作曲家が)メロディーを付けた歌を合唱しているという。
 「君が代」は国歌として公的行事に際して歌わされ、否応なしに普及しているが、一シンガーソングライターの歌とはいえ、音楽的に優れた格調の高い「憲法の歌」というものが出来ているのに、どうしてそれが普及しないのだろうか。「うた声」運動があり、各地にセンター合唱団などあるのに、どうしてこの憲法の歌が広がらないのだろうか。
 「改憲反対」のスタンディングなどやってるが、なんかもの足りない。街宣車のスピーカーで「憲法の歌」など流せばいいものを。(自家用車のカーステレオにCDやカセットテープをかけて最大音量で窓を全開して流したりしているが、響きが弱くてダメ)車外スピーカーの付いた街宣車を然るべきところで出してくれればいいものを、協力してもらえない。9条の会も、どなたも「どこ吹く風」。改憲派の攻勢が始まろうとしている今、これではとても、「改憲の歌」との「歌合戦」にも負けるし・・・・・なんて、一人で気をもんでいる今日この頃。

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