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2019年04月 アーカイブ

2019年04月01日

4月のつぶやき                         11,831 837 1,329
●新元号、天皇の退位、新天皇の即位に乗じて安倍首相が最終的に決定したのだという。安倍首相は、その「新しい時代」に「花を咲かせたい」と談話で語ったが、そこには、新元号を国民に示して、それを使わせることによって、自らの企図した政策や制度の改変に国民が呼応する気分を駆り立てようとする政治的な思惑が垣間見られる。それには様々あるが、とりわけ改憲。「令和」の新時代を迎えて、これまで執着・腐心してきた「改憲の花」を何としても咲かせたいとの自らの思いに国民が同調するよう気運を盛り上げる、その効果を狙っている、そんな思惑が透けて見える。
 先ずは、マスコミがそれに呼応して、テレビはNHKをはじめ各局とも新元号関連番組を組んで、ほとんど一日中放映していた。そして「街の人」にインタビューしては「いいね」の声を拾っていた。まさに「四月バカ」騒ぎ。バカになれずに、こんなふうに愚痴をつぶやいているのは、「ひねくれ者」で「非国民」でもあるかのよう。NHKの「ニュース・ウオッチ9」には安倍首相が特別出演して長々とコメント。各党代表の短いコメントも一通り流していたが、共産党(「国民が元号を慣習的に使用することに反対するものではないが、西暦か元号か、いかなる紀年法を用いるかは、自由な国民自身の選択にゆだねられるべきであって、国による使用の強制には反対する」)と社民党(「命令の『令』であり、安倍政権のめざす国民への規律や統制の強化がにじみ出ている感が否めない」)以外は、いずれも「いいじゃないの」といったコメント。
 大日本国憲法は「明治憲法」、今の日本国憲法はさしずめ「昭和憲法」、それが改憲されれば「令和憲法」と称されることになるわけか。
 「令和」という新時代に「それぞれの人が、それぞれの花を咲かせる」というが、庶民にとっては、新しい元号に変ったからといって人生が変わるわけではあるまい。庶民にとっては、元号の年を西暦の年に換算しなければならず、そのほうが厄介だ。昭和の年には25を足して西暦何年とし、平成の年には88を足して(平成12年以後は12を引いて)西暦何年、令和の年には18を足して西暦何年というふうに、いちいち換算しなければならない。例えば「1947年生まれの人は、2020年には何歳になるか」と訊かれたら、すんなり数えられるものを、「昭和22年生まれの人は令和4年には何歳になるか」なんて訊かれたら、数えられやしない。「前回東京オリンピックが開催されたのは『1964年だが』」といって「それは今から何年前か」と訊けばいいものを、「開催されたのは『昭和39年だが』」といって訊かれたりすると、すんなりとは答えられないだろう。元号では年を数えるのがややっこしいのだ。

 令和時代開始は5月1日の零時。そのカウントダウンから始まって新天皇即位の式典が実況中継され、そこでさらに気分が盛り上がり、その祝日から10連休。まさに改憲には絶好の環境が整えられることになる、というわけだ。

改憲は「自衛隊員が強い誇りをもって職務を全うできるようにするため」とは

 安倍首相は自衛隊について、「今日、災害救助を含め命懸けで24時間、365日、領土・領海・領空、日本人の命を守り抜くその任務を果たしている」、それに対して「国民の信頼は9割をこえています。しかし多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が今なお存在しています。『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任」、だから「自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます」(17年5月3日、日本会議系の改憲団体の集会に寄せたビデオ・メッセージ)。また「いまや、国民の9割が敬意を持って自衛隊を認めている」。「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える・・・・私はその責任をしっかり果たしていく」(18年10月14日、自衛隊観閲式での訓辞)などと述べ改憲の必要性を説いている。最近では(3月17日)、防衛大学校卒業式で、「自衛隊の諸君が強い誇りをもって職務を全うできるよう環境を整えるため全力を尽くす」と訓示した。
 自衛隊の活動分野には、災害救助や領土・領海・領空を守る領域警備の分野と、防衛出動(即ち軍事)の分野の2分野がある。前者は警察・海上保安庁・消防などと同様、国民(住民)の生命の安全と財産を守るという活動分野であり、自衛隊法では「従たる任務」とされているのに対して、後者は国防で、「国の平和と独立を守る」即ち国家を外敵から武力をもって守る軍事であるが、その方が「主たる任務」とされている。
 首相は二つを一緒くたにして論じているが、国民の多くが「敬意を以て認めている」のは、どちらかといえば前者の方なのではあるまいか。また、憲法学者や政党の中に違憲とする議論があるのは軍事の方だろう。
 自衛隊でも前者の活動分野なら、憲法上規定のない警察や消防と同様、憲法に規定する必要はないわけだが、安倍首相が憲法に敢て自衛隊を明記することによって、自衛隊を違憲とする議論に「終止符を打とう」とするのは自衛隊の軍事分野の方なのであり、そうすることによって自衛隊員は自分たちがやっていることは「違憲かもしれない」などと中途半端な気持ちでいることがなくなり、また警察や消防などのような単なる公務員ではない、それ以上の「国のため命を張って」戦う「軍人」として「強い誇りを持って任務を全うできるように」させられる、との思惑。つまり、この自衛隊加憲の狙いは、自衛隊の軍事分野とその拡大に正統性を持たせようとするところにあるのだろう。
 自衛隊は、国民にとっては、国民の生命の安全と財産を災害やならず者から守ってもらう災害救助活動や領域警備活動の方を重視して、その点で期待と信頼を寄せている向きが多いのだろうが、安倍首相や国家の統治者にとっては、最重要なのは国防(軍事)であり(国民の生命・財産はその結果として守られているに過ぎないわけであり)、あくまで仮想敵(中国や北朝鮮など)に対して、戦争して勝てるように自衛隊の軍事力をもっと強くして、存分に戦えるようにする、そのための改憲にほかなるまい。

2019年04月16日

改元で改憲―政治利用(加筆版)

 元号は、もともと古代中国に起源をもち、「君主が空間だけでなく時間まで支配する」という思想に基づき、統治権の正統性をアピールする政治的な道具として用いられたもの。それが日本にも取り入れられて、「大化」改新当時以来元号が付けられ始めたが、天皇一代とは限らず、災いや吉事があった時にも(リセット効果―人々の気分を一新する政治的効果を狙って)改元が行われた。中国では明・清の時代に皇帝一代に一元(一世一元の制)というふうに固定されるようになり、それが日本でも「明治」天皇の時からそうなった。
 現在の憲法になって、天皇主権が廃されて国民主権の民主主義(国民が国の主人公)の時代になっている今、そのような元号制(天皇即位から退位までの間を元号によって時代を画するやり方)を国民に押し付けるようなやり方には、国民は違和感を持たざるを得ず、望ましくはあるまい。
 その元号法は平成改元(1989年)に先立つ1979年に制定されたが、どのような元号に改元するかの決定は政府の裁量にゆだねられている。今回の「令和」決定は国文学者で国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏ら複数の専門家に候補名の考案を委嘱、その候補名(6案)から有識者懇談会(NHK会長・民放連会長・新聞協会長・経団連前会長・元最高裁長官・私大連合会長・作家の林真理子・ノーベル賞受賞者の山中教授ら9人)での検討、衆参両院正副議長の意見聴取、全閣僚会議での協議を経て最終的には「総理に一任され」安倍首相が決定
 そのような元号を我が国の伝統文化として価値付け、現代世界では類例のない我が国独自の年号として誇るべきものと受け取る向き(ナショナルプライド)もあり、しかも、「令和」という新元号の二文字は、今までのような典拠が中国の古典(漢籍)ではなく、初めて国書である万葉集から採ったものだからと言って独自性を強調する向きがある。
 しかし、その二文字「令和」は(万葉集でも「梅花の歌三十二首」の漢文で書かれた序文から採られた)漢字であり、中国文字であることには変りなく、万葉集(8世紀末)に先立つ6世紀(六朝時代)中国の詩文集『文選』にも見られるという。
 「令」という漢字には「戒める」という意味で、上から下へ指図する命令の令と、命令を聞く民がきちんと並ぶ様から「姿・形がよい」の二つの意味があるのだという。(「令和」元号を考案したとされる万葉研究者の中西氏は「令」の原義は善で、善いことを他人にさせようとすれば『命令』になるが、「整っている美しさ」のことで「令」に一番近い日本語は『うるわしい』という言葉に当たると。)又「和」という漢字は「穏やかで角が立たない、なごやか」という意味であるが、聖徳太子が制定したと言われる「十七条憲法」(これも論語や文選など中国の書籍から引用されて記さている)の第一条「和を以て貴しとなし、さからうることなきを宗とせよ」は、第三条の「詔を承りては必ず謹め、君をば天とす、民をば地とす」(天皇の命令にはしっかり従いなさい)という定めとセットをなしている。(中西氏は「国と国との間に和がある状態、それが平和。だから「令和」には平和への祈りも込められているのだ」と。)
 万葉集そのものは日本文学としての文化的価値はすばらしい(尤も品田悦一・東大教授によれば、安倍首相の談話では「天皇や皇族・貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が納められ」と述べているが、「貴族など一部上流層にとどまったというのが現在の研究では通説」となっており、身分の低い人が詠んだとされる東歌なども彼ら自身の言葉で詠んだとは考えにくいという。また大伴家持作の「海行かば」は、日中戦争当時、信時潔によって曲がつけられ軍国歌謡として利用された)。又漢字や中国伝来の古典の文化的価値も認めないわけにはいかない。しかし、そのような文化的価値はともかく、当方など庶民にとって元号は実用的価値が乏しく不便であるばかりか、「文化的価値があるから」と称して為政者がそれを用い国民に使わせることによって政治的に都合よく利用されはしても、庶民にとってはそんなに有用性があるとは思えない。 
 庶民にとっては、元号の年を西暦の年に換算しなければならず、そのほうが厄介だ。昭和の年には25を足して西暦何年とし、平成の年には88を足して(平成12年以後は12を引いて)西暦何年、令和の年には18を足して西暦何年というふうに、いちいち換算しなければならない。例えば「1947年生まれの人は、2020年には何歳になるか」と訊かれれば、すんなり数えられるものを、「昭和22年生まれの人は令和4年には何歳になるか」なんて訊かれたら、数えられやしない。(現行憲法施行など)「あれは今から何年前」というときに(「昭和22年の5月3日施行で今年は平成31年、5月からは令和元年だから」なんていわれても)元号年では計算がやっかい。
 それにもかかわらず、様々な証書や申込書・届け書の日付を「大正・昭和・平成・令和」の内のどれかを選んで○で囲んだうえで、何年何月何日と記入させるという元号にこだわったやり方で記入させられたり、当方の免許証などの有効期限が「平成34年」などと、ありもしない元号年が記載されていたりしている。こんな不合理が我が国ではまかり通っている、ということだ。
 中西教授は「元号は年数の数字の羅列を区分するもので、文化的な装置だ」とも述べているが、元号は、それによって時代を画し、改元によって時代を「一新する」ための道具立てにもなるということだろう。そして教授は、今の時代を明確なポリシーも目標もない「野放図な時代」だとして「令和」つまり「うるわしさ」とか「平和」とかを目標としてみては、との思いから、この元号が考案されたのだろうと述べ、次のように語っている。「終戦から約70年、日本人は自国の軍国化を何とか防ぎ、おかげで平和が保たれてきた。しかし今、難しい局面が立ち現れ、政治リーダーは苦労する立場にあるのだろうが、そこには決して越えてはいけない一線、軍国化をしてはいけないという一線があるのだ」と(安倍首相は、その一線をもう超えようとしているのではないか?―引用者)。その元号は「個人ではなく天が決めるもの」(天命―それは民主国家では「国民が決める」もの―引用者)で、首相その他の少数者だけで決めれば済むというものではない。ところが「今回、候補になった元号案を検討したのは、『懇談会』の識者9人と衆参両院の正副議長、閣僚。これでは、検討の機会が少なすぎる。多数が議論しなければいけない」と中西教授は語っている。
 安倍首相は新元号発表の後の記者会見で「一人一人の日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲せることができる。そうした日本でありたい、との願いを込めた」と述べたが、そこには為政者である彼にとっては「令和」改元で「新時代」なるものを国民の前に用意(「新時代の到来」を演出)して見せ、人々に、「新時代」を期してそれぞれの夢や希望の花を咲かせるのだという気分を駆り立て、その気分に乗じて自らの野望(オリンピック開催等とともに改憲)を達成しようとする作為が織り込まれている、そう思えてならない。
 マスコミはマスコミで、それに迎合して特集を組み、テレビは首相談話の中継や録画以外に、ワイドニュースのスタジオに首相を招いて「歴史的決定を行ったこの方に来ていただきました」(NHK「ニュースウオッチ9」)とか、「令和何年まで国を引っ張りたいですか」(日テレ「news zero」)などとインタビューして長々と語らせている。このように、首相による改元フィーバーの政治利用に手を貸しているメディアの存在もあるわけだ。
 元号は天皇の即位から退位までの天皇自身の人生・ライフサイクルに関わって用いられるもので、庶民各人の人生・ライフサイクルとは全く異なる。庶民(それぞれの人生)にとっては、元号が変わったからといって、「希望の花が咲く新時代が訪れる」なんて、そんなことはあり得ず、人生(自分史)は自ら切り開くものであり、希望の花を咲かせるのは自らの努力の結果なのであって、その元号の時代が咲かせるわけではないのだ。当方などにとっては「令和」に改元されたからといって、それを期して何かやろうとか、新たな人生が始まるとか、そんなことはないわけであり、唯やるべきこと、やれることを精一杯やって人生を終わるだけのこと。
 我々庶民にとっては、戦争の惨禍の跡に現行憲法によって植えられた平和と民主主義の花をその手で育て咲かせることができるようになったのだが、改憲によってその花を散らすことのないように切望し、改元に乗じて策する改憲はあくまで阻止すべく不断の努力を続ける以外にはないのである。
 
 4月23日、改憲派国会議員らでつくる新憲法制定議員同盟が開いた「新しい憲法を制定する推進大会」に安倍首相がメッセージを送り、「令和元年という新しい時代のスタートラインに立って国の未来像について真正面から議論を行うべきときにきている」と。また自民党改憲推進本部長の下村元文科省も「令和の時代が始まる。このときこそ、国民と憲法改正のうねりをつくるときだ」と。そして会場で採択された決議には「令和の憲法大改正を切に願う」などと唱っている。

 「令和」新元号は5月1日新天皇即位当日の午前零時に施行される。カウントダウンが始まり、改元フィーバー。それが改憲フィーバーへ向けられるのかだ。

2019年04月19日

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遅咲き 福寿草
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2019年04月27日

政権の評価は厳しい目で、野党の評価は長い目で

 先(4月25日朝日・声欄)の投稿「政権の評価 長い目で見よう」について。その例示に日米安保条約を取り上げ、それに対してかつては激しい反対運動があったのに、今はもう起きなくなっているということを指摘しておられる。しかし、その反対運動がわき上がったのは、当時(60年)は、条約改定があったのと、条約の有効期限10年目(70年)に当たっていたからであり、それが沈静化したのは、国民世論が一部の過激行動で反対運動の激化に嫌気をさし、岸内閣退陣後、池田内閣による所得倍増政策・高度経済成長に関心が向かうようになったからだろう。それ以後、条約はずうっと自動延長とされ、検証も議論もないまま国会にも国民にもその是非が問われることがなかった。それでも近年「安保関連法」の強行採決で反対運動は再燃を見せているのだ。
 「長い目で見よう」というなら、辺野古基地建設についても反対などせずに黙って「長い目で見よう」というのだろうか。
 政権は官僚組織やメディアに対して強い支配力を持ち、その政策は国民生活に現実的に影響するだけに、いつでも非は非として厳しく追及し批判を加えて然るべきなのであって、黙って見過ごして済ますわけにはいかない。「長い目で見よう」というなら、むしろ野党の評価に対していうべきことなのではあるまいか。


2019年04月29日

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桃の木
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                         月山
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                         笹野山
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               桜 散る


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