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2017年05月03日

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2017年05月14日

平和守るなら戦ってはなるまい

 本紙の「異論のススメ」で佐伯教授は『平和守るため戦わねば』と題し、「朝鮮半島有事の可能性が現実味を帯びてきた」緊迫した情勢に、国防は「憲法によって制限さるべきものではない」、また「侵害者に対して身命を賭して戦うことは、それこそ普遍的な政治道徳の法則ではないだろうか」と論じていた。
 それを「『平和とは何か』という問題はひとまずおき」として論じておられるが、そこが肝心なところで、そもそも平和とは戦争も武力威嚇による恐怖もない状態であり、平和主義とは武力による威嚇も行使もしないことだろう。また政治道徳の法則とは、政治目的のための手段は道徳に適ったものでなければならず、平和・安全確保のために「闘い」はしても、武力を用い殺し合ってはならないということなのではないだろうか。現行憲法はその立場から9条を定めているのであって、侵害者に対する自衛権は固有の権利として認められてはいても、必要最小限という制限があるのは論に当然のことだろう。
 現下において、我々のなすべきことは「身命を賭して戦うこと」などではなく、武力によって威嚇し合い戦争してはならず、非核化・平和条約締結の外交交渉に徹すべしと呼びかけ、説得することなのでは。

「声」投稿の改憲論への異論 

 朝日13日付け「声」欄に当方の投稿(「自衛隊の『加憲』は混乱の元だ」)と対照的に並んで載っていた『自衛隊 改憲で位置づけ明確に』という投稿。それには次のようにあった。
 「現憲法は、前文に『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』として、国際社会の善意を前提として制定され」、それは「あまりにも理想主義に過ぎた」ものであり、「国際情勢が不安定化し、善意にばかり頼っていられない時代」、「平和主義の理念は壊さないのを前提に、憲法9条は現実に即応できるよう改めるべき」で、「自国防衛と、国際社会の秩序安寧に寄与することを目的に、自衛隊の保持を表だって認め」、「主権が侵された時はもちろん、国連決議による多国籍軍に参加して交戦権を発動」できるようにしても、「平和主義の理念は損なわれないと思う」と。
 しかし、前文に「決意した」というのは、単に理想主義から(「国際社会の善意を前提として」、その「善意にだけ頼って」安全と生存を保持しようと)決意したというわけではなく、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が再び起こることのないようにすることを決意した」が故に(その不再戦の決意から)、国権の発動たる戦争の交戦権と戦力を持つという選択肢は放棄して、この「諸国民の公正と信義に信頼して」という「善意に頼る」平和主義の方を選ぶことを決断した一つの選択だったのではなかろうか。
 これら二つの選択肢で、「(諸国民の)善意に頼る」のは理想論で、「(国の)軍事力に頼らなければならない」のが現実かといえば、そうではなく、要は、「善意」と「力」とで現実的にいったいどちらが平和実現・維持に有効なのかという観点から判断すべきなのではないだろうか。「善意に頼る」(「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持」)というのは単なる理想論ではなく、日本国民自らも諸国民に対して公正と信義を以て信頼されるように努めて、敵視されず、どの他国民も敵視せずに交わるという、そのやり方のほうが、実際問題として、「力に頼る」やり方よりも平和実現・維持には有効で確かな方法なのだということだろう。
 今は後者「力に頼る」やり方で(安全保障など)おこなわれているが、それでうまくいっているのかといえば、とてもそうとは言えまい。北朝鮮問題、中国問題、ウクライナ問題、中東やアフリカにおける内戦や紛争、イスラム過激派問題など。「力」(軍事力)のおかげで、不安も恐怖もなくて平和が実現・維持されているなどとはとても言える状態ではあるまい。
 前者―「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意し」、国権の発動たる戦争と戦力・交戦権をともに放棄―は「理想主義に過ぎる」のかといえば、そうではあるまい。それは相互に、力によって敵対し、支配・服従の関係となるのではなく、対等・平等な友好・協力の信頼関係を結んで平和・安全を保つことであって、それは理想には違いないが、実現不可能な夢やユートピアではなく、今まで(この憲法制定後まもなく対米従属の下に再軍備、自衛隊が創設されて、米軍に従属する日米同盟の下に置かれるようになってしまったために)非軍備・非同盟の平和友好協力政策への取り組みはやってこなかっただけの話で、やろうと思えばやれることだったのだ。仮にもし、我が国が非軍備・非同盟政策をとっていたか、これからそういう政策をとったからといって、或いはまた自衛隊が海上保安庁などと同様交戦権を持った戦力ではないからといって、ロシア・中国・北朝鮮など、ある国がたちまち、軍事攻撃・侵略を仕掛けてくるかといえば、そんな必然性があるわけではあるまいし、それで我が国の独立・安全が脅かされるわけでもあるまい。
 これらの国(中・ロ・北朝鮮など)が我が国に対して対抗的に「構える」のは、ひとえに我が国が日米同盟を結び、米軍基地を置き、米軍と一体行動をとる世界有数(世界5位の規模)の自衛隊があるからにほかなるまい。 
 また、憲法に自衛隊を明記して、戦力・交戦権の保持を認め、米国と力を合わせて軍事力を強化すれば、北朝鮮や中国・ロシアが我が国に恐れをなして引っ込み、それで脅威も恐怖もなくなり、平和が保たれるのかといえば、そういうことには到底なるまい。
 アメリカの圧倒的な核軍事力に支援された自衛隊に頼れば、中国・ロシア・北朝鮮の脅威やテロの恐怖におののかずに済む、などということはあり得ず、そもそも「善意(不戦・非軍事で平和友好協力)に頼る」やり方に比して「力(自衛隊と日米同盟)に頼る」やり方のほうが有効性・確実性があるなどとは言えず、それはむしろ逆というものだろう。
  要するに、現行憲法は、国の軍事力に頼るよりも諸国民の善意(公正と信義)に頼る方が平和維持には現実的に有効だとして選んだということであって、それ(善意に頼る平和主義)が「理想主義に過ぎた」というには当たらないし、また国の戦力・交戦権保持で、平和主義の理念は損なわれないどころか放棄することになってしまうだろう。

2017年05月20日

安倍改憲に理あらず―9条改憲と活憲のどちらが今必要か(加筆版)

 自民党はかねて(2012年)より憲法改正草案に、現行の9条の2項(戦力不保持・交戦権否認)を削除し、新たに「国防軍」(つまり交戦権をもつ軍隊)を保持するとしていた。ところが、安倍首相は5月3日、改憲を求める集会(「日本会議」主導の「第19回公開憲法フォーラム」)に寄せたビデオ・メッセージで「自衛隊の姿に対して国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には自衛隊を違憲とする議論が今なお存在しています。」「『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきであると考えます。もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。」と。

 このような9条の改憲には次のような問題点がある。
 憲法改正には(無限界説もあるが)限界があるというのが通説。その限界とは3大原理とされる国民主権・基本的人権の尊重・平和主義のという3つの基本原理で、憲法改正といっても、この3つだけは変えることができないと見なされている(前文には「この憲法はかかる原理に基づくものである。我らはこれに反する一切の憲法・法令及び詔勅を排除する」と)。それら3大原理は、まず前文に掲げられ、各条項の中にその具体的規定がさだめられている。9条は1・2項とも平和主義の原理と一体のものとして定められており、これを改廃したり、これに矛盾する条項を加えることもできないとする限界説があるのだいうこと。
 安倍首相は、先の自民党改憲草案における現行の2項削除と「国防軍」の保持などの新条項を設ける案は、合意が非常に難しいだろうと見て、「かくなるうえは」ということで、「1・2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という(公明党の加憲案にもみられる)考え方はどうか、という新たな案をもち出してきたかたちだ。一見、これなら「自衛隊の現状を追認する」だけの話だし、文句はないだろうと踏んだのかもしれない。
 なるほど、政府の自衛隊創設以来の合憲解釈(自衛のための必要最小限の実力は「自衛力」であって「戦力」ではないという解釈)はこれまで長い間通用させてきたし、国民もほとんどがそれに疑問をもたずに、なくてはならない存在だと思うようになってきている。ただ多くの憲法学者や政党の中には自衛隊を違憲とする議論が今なお存在している。そこで、『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』ようにする。そうすれば議論の余地はなくなるだろう、というわけである。
 しかし、憲法学上は大多数の学者が自衛隊違憲説(1項で放棄しているのは侵略のための戦争や武力行使など国際法上違法とされているものだけだとしても、2項で「戦力=武力」で一切の武力の保持と交戦権が否認されており、自衛のための武力もその行使も全て禁止されているとする見解)をとってきて、それが通説となってきた、その憲法学者には9条1項・2項を残しつつ、自衛隊を追加明記したところで違憲には変わりないという向きが多いだろう。(論理学上の「同一原理」で、「AはA」で「これを「保持しない」というのに、「AがB」である場合には「これを保持する」などという、そんなことはあり得ないからである。「AはA」「保持しないものは保持しない」のである。)
 それでも、憲法学者はどうあれ、その改正案が憲法審査会で過半数、国会で3分の2以上、国民投票で過半数の賛成が得られさえすれば、それで成立するのだからいいんだと思っているのだろう。
 しかし、そのような手続き上各段階で形式的に賛成の数だけ、必要なだけ多数を得られたとしても、肝心の9条改正案の中身(文意)に(2項と3項が論理的に両立しない)矛盾があり、論理的整合性がないのでは、憲法としての体裁をなさない、そのような改正案はそもそも採決や投票にかけるに値いせず、かけても成立無効と見なされることになるだろう。(銃刀法で、一般人には原則として銃砲・刀剣類の所持を禁じているのに、仮にもし、「正当防衛のためならば所持は認める」などと条文に加えたら、禁止の意味がなくなってしまう。そのような銃刀法の改正案を国会にかけて過半数賛成が得られたとしても、成立無効となるだろう。「1+1=2」であるものを多数決で「3」にするが如きことはできないわけである。)
 そもそも我が国の憲法は、どの条文にも例外規定は設けられておらず、9条2項も「・・・・その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という条文をそのままにして、そこだけに(「但し自衛隊はその限りではない」などと)例外規定が書き加えられるなど特例はあり得ず、2項を削除しない限り、自衛隊の保持条項を設けるのは不可能なのでは。(ならば2項を削除すればいいのかといえば、それをしてしまったら、そこは我が国憲法の他国憲法に比べてより徹底した平和主義(「絶対的平和主義」)の核心部分―9条の中でも1項の侵略戦争放棄だけなら他の国々の憲法にも見られる平凡なものにとどまるが、この2項があって一切の戦争・武力の放棄が定められているからこそ世界最先端の平和主義憲法と見なされる、いちばん肝心の部分―なのに、それを取り去ってしまうことになる。そのような改正をしてしまったら「改正権の限界」を超えてしまうことにもなろうというもの―河上暁弘・広島市立大学准教授。)
 尚、辻村みよ子・元明治大学法科大学院憲法学教授は、次のようなことも指摘していた。「憲法で明示的に『戦力』が禁止されているにもかかわらず、『自衛力』は明記されていない、という論理で新たな概念を援用して条文を解釈することが認められるならば、すべての憲法条文についても明示的な規定の趣旨を変更することが可能となり、立憲主義の意味が失われるおそれがある」と(岩波新書「比較のなかの改憲論」)。2項で戦力が禁止されているのに、新たな概念「自衛力」を援用して、自衛隊を合憲と解釈するだけでなく、3項を追加してそれを明記すれば、2項の戦力禁止規定の趣旨は変更されてしまうことには変りあるまい。
 いずれにせよ、「木に竹を接ぐ」が如きつじつまの合わない話なのではあるまいか。
 憲法学者の間では多数派の考え方に対して、自衛隊合憲解釈で来た歴代政権党とそれを支持してきた国民の多数派は、自衛隊は「自衛のための必要最小限の実力」(自衛力)のみを行使する武装組織で、その実力は9条2項が禁じている「戦力」には当たらない、という解釈・考え方。しかし、「自衛のための必要最小限」という基準は不明確で、実質的には核兵器や細菌兵器などまで、あらゆる兵器を持てるような解釈が行われてきた。核兵器やICBM(大陸間弾道ミサイル)・原子力空母・長距離重爆撃機などは同盟国アメリカに委ねて、それらまで持つには至っていないが、防衛費では米中ロ英に次ぐ世界第5位の軍事大国になっている。それでも専守防衛と称して自衛権の行使は自国だけを守る個別的自衛権に限定してきた、ところが今では「同盟国その他我が国と密接な関係にある国」との集団的自衛権まで限定的ながら行使できるとまで拡大解釈・閣議決定して安保法制を改編し、米軍との一体化、海外派兵・参戦も可能とする体制を整えるまでに至っている(北朝鮮に圧力をかけようとして周辺海域を航行する米空母に海自艦が護衛―それは「武力による威嚇」にほかなるまい)。
 これらは、これまで政府の安全保障政策として政策的判断で行われ、それに対する違憲訴訟があり、地裁で2~3回、高裁でも一回違憲判断があったが最高裁は統治行為論(高度な政治性を有する国家機関の行為は、政治家が判断することで、裁判所が判断すべきことではないと言う考え方)で判断を避けてきた。
 そのような自衛隊が、もし憲法9条に書き加えられて追認されたら、いったいどうなるかだ。「必要最小限の実力」とか「専守防衛」といいながら、集団的自衛権行使・海外派兵の限定容認など、これほどまでに拡大解釈が加えられて膨張してきた現状の自衛隊がそっくり追認されることになる。それだけでなく、この自衛隊(軍事)への依存をさらに強め、平和主義の空洞化が増幅する結果となり、平和主義外交よりも力の外交(対決・威嚇外交、対話より圧力)へ。もはや「平和国家」ではなく、アメリカと共に軍事国家へと化すことになるだろう。そのような暴走を許さず、はたしてどれだけ統制できるのかだ。

 安倍首相のその意図はいったい?
 彼にとって改憲は、亡き祖父・岸元首相から意思を受け継いだ悲願であり、在任中に多少とも実現を是が非でも果たしてレガシー(遺産)を残そうとする個人的野望にほかなるまい。
 北朝鮮・中国の「脅威」がメディアによって連日報道され、国民の間にその脅威感が広くしみついている。朝鮮半島で動乱(北朝鮮と米韓の朝鮮戦争再開)が近い将来起きるかもしれないという切迫感が広がっていて、安倍政府はそれへの対応・参戦を想定し、その準備体制構築を図り、その機会に乗じて憲法9条に手を付け、それをとりあえず2項はそのままにして現状の自衛隊の保持を追認するだけのこととして加憲するかたちで、高等教育の無償化などとともに、国民から受け入れやすいところから迫ってみよう、という作戦なのだろう。
 尚、良識派・リベラル派の中には護憲的改憲論がある。それは、自衛隊を国民のほとんどが受け入れているという既成事実を前提にして、その自衛隊をあくまで「専守防衛」に限定して活かそうとするべく、自衛隊の保持を追認・明記する改憲を容認する考え。安倍首相の9条改憲の新提案には、それも考慮のうえで民進党その他の護憲派の分断を謀る狙いもあるのだろう。
 しかし、安倍政権下では、自衛隊は新安保法制で既に海外派遣・集団的自衛権の限定行使まで容認されており、「専守防衛」体制は崩され始めている。その9条改憲はそれをも含めた現状の自衛隊の追認・明記なのであって、その「自衛隊3項明記」はいわば「蟻の一穴」で、単なる追認にとどまらず、2項の縛り(制約)にも拘らず「3項」が独り歩きして自衛隊の役割・任務がさらに拡大、周辺地域から海外のどこでも武力行使が無制限に可能になってしまう結果となり、2項は空文化して無意味なものになってしまう、そういう危険性をはらんでいるのだということだ。

 そこで憲法と自衛隊の関係は、そもそもどういう経緯を辿ってきたのか、最初から振り返ってみると、
1945敗戦、連合軍の占領下に。
1947年日本国憲法制定―そこに世界史上画期的な平和主義の原理と不戦条項が定められた。それは、自国が起こして世界を巻き込んだ悲惨な戦争に対する痛切な反省から、前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」して9条1項に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。」2項に「陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と定めた。その制定段階(1946年6月帝国議会)で吉田首相は「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はしておりませぬが、第9条2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁し、今も憲法学者に多い全面放棄説(9条1項は自衛戦争と制裁戦争は放棄されていないが、2項でそれらも含めて全ての戦争が放棄されたと解する説)と同様の考えをしていた。
 憲法が制定されたその年、文部省が発行した『あたらしい憲法のはなし』には「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。『戦力』とは『すててしまう』ということです。しかし、みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、ただしいことぐらい強いものはありません。・・・・・よその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。」と。
 ところが、
1950アメリカ(マッカーサー司令官)→朝鮮戦争(北朝鮮・中国軍対米韓軍)―米軍は日本の基地から出撃
 それにともない日本に警察予備隊を設置(治安維持のためと)
1951サンフランシスコ講和条約(ソ連・東欧諸国・インド・中国・韓国・北朝鮮などを除く48か国と)―占領解除、主権回復  同時に日米安保条約―米軍駐留・基地存続
1952(朝鮮戦争→)休戦協定
(警察予備隊→)保安隊に改編   
1954(保安隊→)自衛隊に改編
1956日ソ国交回復(平和条約は成らず)
1960岸内閣―日米安保条約改定(現行の安保条約)
1965日韓基本条約(韓国とだけ国交、北朝鮮とは未だに国交も過去の清算もついておらず)
   ベトナム戦争(~75)―米軍は日本の基地から出撃
1970日米安保条約・自動延長へ
1972日中国交正常化
1978 〃平和友好条約
1991湾岸戦争―海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣
1992 PKO協力法―自衛隊を海外派遣へ
2001 アフガン戦争―海上自衛隊の給油艦をインド洋に派遣・米艦支援
2003 イラク戦争―自衛隊派遣(~03)
2014集団的自衛権の行使容認を閣議決定
2015 安保法制・強行採決
2016 同上 施行

 この間、日本政府はアメリカに従属し、憲法で不戦・非軍事平和条項を定めたにもかかわらず、それに徹することができず、米軍に従属する方向で再軍備・自衛隊の軍事を拡充させていった。ただ、9条があるため、その制約によってどの戦争にも戦闘には参加させられることなく済んできた。
 今、9条に自衛隊を追認・明記するなどの改憲によって、対米従属の軍事的安全保障路線の推進、平和主義のさらなる後退の方向に進むのか、それとも、制定後間もなくして(わずか3年で)とん挫した平和主義の原点・初心に帰って不戦・非同盟(どの国民とも協和して敵をつくらない)安全保障と真の積極的平和主義を推進する方向に進むのか、国民はその岐路に立たされている。
 現下の平和・安全保障の危機的状況(危険・脅威)は、そもそもどういうところから来ているのか。それを取り除くにはどうすればよいのか。それには対照的な次の二つの考え方があるだろう。一つは、9条によって軍事力(日米同盟とともにある自衛隊)に制約があるところから危険・脅威は来ているのだとして、その脅威を取り除くには9条に自衛隊を明記して軍事同盟体制を確固たるものにする方がよい、という考え。もう一つは、9条(不戦規定)があるにもかかわらず日米安保条約(米軍駐留と基地提供)と自衛隊の体制強化があって、それ故に敵対視され、核・ミサイルの標的にされる危険性を招いているところから危険・脅威は来ているのだと考えられるので、それら(自衛隊の米軍との一体化と9条空洞化改憲)は控えて、9条規定をしっかり守り活かす不戦平和外交の積極的展開に意を注ぐようにした方がよい、という考え。      
 そのどちらの考えが妥当なのか。それは後者の方だと思う。なぜなら、そもそも、これまで9条を規定どおり守って、冷戦下でも米ソどちらにも加担することなく非軍備・非同盟・中立に徹し、また過去の侵略や植民地支配に際する加害には償いをきちんと果たしていれば怨みは残さず、どの国からも敵視されず、攻撃される心配などなくて済んだはずなのだから。
 朝日の「声」投稿に『自衛隊の姿 改憲で世界に示せ』というのがあって、それには「今の条文を普通に読めば『戦争を放棄し戦力を持たない』」はずなのに、自衛隊が存在していることに「疑問を感じるのは当然」で、「国民にも分かりにくい条文が諸外国に分かってもらえるはずが」なく、「9条1項2項を残しつつ自衛隊を明記すること」の方が「無理な解釈で自衛隊を合憲として位置づけるより、ずっと分かりやすい」と書かれていた。しかし、それはむしろ逆なのでは。
 「普通に読めば『戦争を放棄し戦力を持たない』」というのはその通りで、元々この条文自体が分かりにくいわけではないのに、安保政策から自衛隊を設置してそれを正当化するために無理にこじつけ解釈を加えて「合憲」存在とした、その解釈の方にそもそも「分かりにくさ」あるのだ。そこに2項を残しつつ自衛隊保持の新条項を追加するというのでは、諸外国からは、整合性のないその条文を見て、かえって理解されにくくなるのではあるまいか。(世界に英語で示すとするならば、2項で“land,sea,and air forces as well as other war potencial will never be maintained “となっているのに、それに”the Self-Defense-Force (或はforce for self-defense)will be maintained”などと書き加えられたら、“force will never be maintained”but “force will be maintained” 「保持しないのに保持する」とは、What is it?「いったい何なのだ」となってしまう。)
 「平和を維持し・・・・国際社会において名誉ある地位を占めたい」と思って世界に示すのであれば、つじつまが合わず、かえって分かりにくくする加憲ではなく、元々の条文とそれに相応しい本来の不戦平和主義に立ち返り、積極的な非軍事外交政策をこそ世界に示すべきなのではないだろうか。

 結論―現行憲法そのものに問題があるのではなく、それを踏み外し続け、さらに改憲しようとしているところに問題があるのだ。
 今、必要に迫られているのは、そのような改憲ではなく、現行憲法の本来に立ち戻り活かすことなのだ。

2017年05月31日

護憲的改憲論・新9条論―その問題点(修正加筆版)

 その論者とは井上達夫(東大大学院教授)・大沼保昭(東大教授)・小林節(慶大名誉教授)・伊勢崎賢治(東京外語大大学院教授)・今井一(ジャーナリスト)・加藤典洋(文芸評論家)。そのほか中島岳志(東京工業第教授)・高橋源一郎(作家)・池澤夏樹(作家)・田原総一朗(評論家)といった方々も、その具体論は明確ではないが、護憲的改憲の考えが見られるとのことだ。

 彼らは、憲法9条(2項で戦力不保持・交戦権否認)と自衛隊の存在に乖離・矛盾があるにもかかわらず、自衛隊は必要最小限の実力組織であって9条2項の禁止する戦力ではないから違憲ではないと解釈してそれを最大限活用してきた歴代自民党政権をはじめとする自衛隊合憲論者(だが、諸国の軍隊並みに戦力として認められるように2項改正を目指す改憲派)を批判するとともに、自衛隊は憲法には違反していると解していながら自衛隊は有用・必要と認めている護憲派を「欺瞞だ」として両方を批判。そのうえで、改憲でも、前者のような集団的自衛権行使も海外派兵もでき、交戦権をもって戦争できる軍隊として認めるような改憲ではないが、2項を改正して、自衛隊を自衛のための戦力として認め、専守防衛(個別的自衛権)に限ってその武力行使・交戦権を認める(集団的自衛権の行使は認めない)ことを、あれこれの解釈の余地のないように新たに定めるべきだと説いている。

 その問題点
(1)いずれも2項を改正して、自衛隊を戦力として保有と交戦権を認める改憲だが、2項の戦力不保持・交戦権否認条項は日本国憲法の3大原理で国民主権原理と基本的人権尊重原理とともに、改変してはならない改正限界をなす平和主義原理の核心となる(その命ともいうべき)条項であり、そこを改変してしまっては、その平和主義原理が損なわれてしまうことになる、という問題。
 自衛隊はそもそも、この平和憲法が制定された後に冷戦における安保政策上の都合で作られて育成されてきたものであり、憲法の平和主義原理を損なうものであってはならないはずのもの。なのに、その憲法の条項が戦力不保持で交戦権否認となっていたにもかかわらず、自衛のための戦力と交戦権を認める改変を行うとなれば、平和主義の後退あるいは放棄ともなる。又、国に「自衛戦力」とはいえ戦力の保持と交戦権を認めるということは、国権(国の権力)の拡大につながる改変でもある。そのような改変は「現実を憲法に近づけさせようとする」のではなく、「憲法を現実に近づけさせようとする」ものであるが、それは単なる「改正」ではなく、憲法を根本から覆すものとなるわけである(河野元自民党総裁いわく「憲法は現実に合わせて変えていくのではなく、現実を憲法に合わせる努力をまずしてみることが先ではないか。憲法には国家の理想がこめられていなければならない」と)。
 (高見勝利・上智大名誉教授は憲法改正発議の5つのルールを次のように提唱している―朝日5月30日「憲法を考える―視点・論点・注目点」
 ① 憲法は権力の制限規範なので、権力の拡大を目的としない。
 ② 権力の拡大につながる改正には、より厳格な理由が必要
 ③ 目的達成のために、憲法改正しか手段がない場合に限る。
 ④ 条文を変える場合は、解釈では解決できない問題に限る。
 ⑤ 改正しても憲法の基本原理が損なわれない
 この護憲的改憲は③と④には適っているが、②と⑤には反していることになろう。)
(2)集団的自衛権の行使や海外での武力行使を容認するといったように解釈する余地のないように、はっきりと、そのようなことは認めないと明記する、とはいっても、「フルスペックの集団的自衛権行使は認められないが、限定的なら認められると解される」などと解釈されてしまう(現政府が閣議決定したように)。
(3)憲法に具体的に規定され明示されていなくても(憲法上認知されなくても)、立法によって合法的に成立・機能しているものはいくらでもある。警察(警察法)でも私学助成(私学振興助成法)でもプライバシー権や環境権(環境基本法)・災害対策(同基本法)でも。高等教育の無償化はわざわざ憲法を改正して明記しなくても、財政措置を整えさえすれば可能。
(4)アベ自民党などの改憲派(9条1・2項とも残しながら集団的自衛権行使や海外派兵・武力行使を解釈上容認する自衛権の明文化改憲)に対抗して、この「護憲的改憲派」がどんなに頑張っても国会議員選挙で3分の2以上議席を勝ち取るのは至難の業。その改憲目的は(自衛隊の武力行使は個別的自衛権・専守防衛の場合に限り)集団的自衛権行使と海外での武力行使はできないようにすることにあるのだとすれば、選挙で3分の2議席を勝ち取ろうといくら頑張ってみたところでどうせ取れないのだとしたら、そのような改憲(護憲的改憲)はわざわざしなくても、アベ自民党改憲に反対する護憲派と一緒に共闘して過半数議席を勝ち取れば、集団的自衛権行使容認の閣議決定を撤回し、戦争法(安保法制)を廃止することができるし、少なくとも3分の1議席以上は獲って自民党改憲を阻止することにエネルギーを傾注する方が現実的なのではあるまいか(目的を果たす上では)。
(5)まずいのは、それ(護憲的改憲)が、アベ自民党などの改憲派から護憲派の分断に利用されるだけでなく、国民の間に「『改憲してもいい』という空気づくりに利用される」(作家の中村文則氏)結果にもなりかねない、ということだ。

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