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2017年03月 アーカイブ

2017年03月01日

「戦争やんだ」と叫ぶより「戦争だめだ!」と (加筆)

現下の国際情勢、アジアの情勢
 アメリカにトランプ新大統領、ロシア(プーチン大統領)の他国(ウクライナやシリア)の紛争や大統領選挙戦(?)への介入、ヨーロッパに極右派の台頭、自国第一主義・排外主義の台頭
 暴力的過激主義―IS、アルカイダなど
 北朝鮮の不穏な動き―核・ミサイル実験、キム兄暗殺事件
迫りくる戦争の危機
 1月26日の時点で「終末時計」―アメリカの科学雑誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」によれば、「地球最後の日」まであと2分半―1953年(冷戦期米ソ核実験競争の過熱で)「あと2分」だったのに次ぎ、よく54年から64年間で最も短くなった。それはトランプ新大統領が核兵器削減や地球温暖化対策などに対して後ろ向きの発言をしたことによるものだが、その後北朝鮮に新たな動きが見られ、危機はもっと差し迫っているのでは。
 (北朝鮮の友好国だったマレーシアが自国で引き起こされた暗殺事件を巡って北朝鮮と対立・断交ともなれば、中国からまで石炭輸入停止制裁を受けているのに加えて北朝鮮は益々孤立、アメリカからは「テロ支援国家」として再指定され、国連でさらなる制裁が加えられれば、進退窮まって苦し紛れに、或は自暴自棄的に核ミサイル発射・開戦の挙に出るか、その前に米韓側からの先制攻撃か、いずれにしろ戦争突入に至る可能性が強まっている。)

 だとすれば、今はもう、「戦争やんだ(嫌だ)」とか、「戦争をどのようにして抑止するか(抑止力強化)」の次元を超えて「もはや必至となりつつある戦争にどう対処するか」を考えなければならなくなっているのでは。
 北朝鮮と米韓の戦争(朝鮮戦争再開)になった場合
 (クリントン政権時代の1994年―前年、北朝鮮がIAEAの核査察を拒否、NPTからの脱退表明―核危機。これに対してアメリカ―北朝鮮の核施設を空爆する計画を立案するも、シュミレーションでは、そのような限定的な攻撃でも、北朝鮮の報復をまねき、全面戦争につながり、その場合、「死者は100万人を上回り、そのうち10万人近くの米国人が死亡し、戦争当事国や近隣諸国を含めて、損害総額は1兆ドルにのぼるだろうと予想された」という―姜尚中氏。
 この動向に対して日本でも石原信雄・当時官房副長官を中心に極秘の検討会議―日本がどこまで米軍に協力できるか―内閣は、いざとなった場合一時的な有事立法を緊急に用意して乗り切るしかないと考えていた。石原氏は後年―04年10月25日の報道ステーションで―「あれ以上、事態が進んだ場合、政府の独断・責任で決しなければならない事態も起こり得た」しかし「北朝鮮の核開発を止めるために日本政府が何をすべきか、政府なり政党間で議論することはなかった」と。
 北朝鮮側は米国による核施設の空爆計画の動きに対して「38度線からの砲撃でソウルを火の海にする」と。ソウルでは市民の大規模な避難が行われ、金泳三・当時の韓国大統領がクリントン大統領に「韓国側に甚大な被害が生じる」と空爆中止を要請。米国側からカーター・元大統領が政府特使として訪朝し、金日成主席と会談、軽水炉原発の建設と引き換えに核開発の凍結に合意したことによって攻撃計画は中止。北朝鮮はNPTに留まる。
 しかし、まもなく、金日成が死去して金正日に替わり、米国側もブッシュ政権に代わって対北朝鮮戦略を転換、「悪の枢軸」と敵視。北朝鮮も核施設再稼働、NPT脱退。オバマ政権は北朝鮮が核開発を放棄しないかぎり、対話・交渉には応じないという「戦略的忍耐」の方針をとり続けてきたが、トランプ新大統領も北朝鮮のミサイル発射に怒って直接会談拒否へと態度を硬化させている。
 オバマ政権下で昨年、米韓合同軍事演習―「5015」というコードネームの作戦計画―過去最大規模。北朝鮮の核・ミサイル基地への攻撃に加え、首都ピョンヤンの攻略と金正恩第一書記ら最高司令部の除去に向けた上陸作戦も含む全面戦争をも想定―北朝鮮から核・ミサイル発射の兆候が見られた場合、先制攻撃だけでなく、「斬首作戦」―核兵器承認権者即ち金第一書記を殺害―も。これに対して北朝鮮は、それに猛反発―委縮する様子はまったくなく、「重大声明」など強い言葉で警告、さらにはそれと連動したミサイル発射など実行動を立て続けに行い、それ以前よりも軍事緊張が高まる結果に。
 その米韓合同軍事演習を今年も3月1日から同規模で2か月間―韓国軍29万人、米軍1万5千人動員、原子力空母や新たな高高度迎撃ミサイルシステムTHAADまで使って実施、「指導部を狙った」(殺害)訓練も。
 辺真一・コリアレポート編集長によれば、朝鮮半島に、もし戦争・北朝鮮国家崩壊など事が起きれば、南北ともに大量難民が発生、国外脱出も北から南へは38度線の軍事境界線地帯は地雷が埋め尽くされているので海を渡らなければならず、陸路脱出は中国を主としてロシア国境地帯にも向かうことになり、日本には韓国の釜山など沿岸地域から漁船か貨物船で相当数やってくるだろうとのこと。)

 このようにして、もし朝鮮戦争が再開されたら、それにどう対処するか―集団的自衛権の発動で参戦に踏み切るか(そうなったら「やるしかない」或いは「やれやれ!やってしまえ!」といって)。
 (日本の米軍基地か首都か原発かどこかにミサイル攻撃が加えられ、それを迎撃して着弾前に撃ち落とせるものか、被災―人的・物的被害―は軽微で済むか済まないか、いずれにしろそれは免れず、最悪の事態まで想定しないわけにはいくまい―核ミサイルが東京都心に着弾すれば死者100万人とか、原発に着弾すればフクシマ以上の事態になりかねない。)

 それとも「戦争はあくまでもダメだ」。そんなことにならないように何としても北朝鮮との協議(話し合い・交渉)をもち、一にも二にも非戦・外交的決着に専心するかだ。
 経済制裁のうえに、米韓合同軍事演習など軍事圧力を加え、崖っぷちまで追い詰めて、「来るなら来い」とばかり暴発を誘うようなことをしてよいものか。(北朝鮮の核・ミサイルとその実験・打ち上げを脅威・挑発と一方的に云うが、彼らから見れば、アメリカの核こそが朝鮮戦争以来何十年もずうっと脅かされ続けてきた脅威であり、米韓合同軍事演習こそが恐怖であり挑発行為にほかなるまい。)
 そのようなやり方で戦争に持ち込むのはダメだ。そのやり方で、イラク戦争のように、たちまちにして撃破・制圧して政権を崩壊させたとしても、その後の混乱(抵抗や国内外―中国・韓国・日本にまで―難民があふれるなど)の収拾は困難を極めることも覚悟しなければならないし、けっして簡単に終わることはないのだから。

 人々がキム委員長・トランプ大統領それに安倍首相らに対して叫び訴えなければならないのは、とにかく「戦争はダメ!」「朝鮮戦争再開反対!」、これに尽きるだろう。

 憲法(9条―戦争放棄・交戦権否認)は、時代の推移(現実―現下の情勢)に応じて(適応できるように)改正(交戦権否認の削除)すべきなのか、それとも時代の流れ(成り行き)に身を任せるのではなく、あくまで立ち返るべき原点(初心)として堅持すべきなのか、だろう。

 <追記>3月7日 北朝鮮 ミサイル4発同時発射 日本の排他的経済数域に達す。
                安倍首相がトランプ大統領と電話会談。
                  北朝鮮側は在日米軍基地を狙う攻撃部隊が訓練と発表。
               在韓米軍がTHAAD(迎撃ミサイル)ソウル近郊に配備。
              中国外相 二つの列車に例えて「正面衝突寸前の状態」「赤信号をともして同時にブレーキをかけることが急務」(北は核・ミサイル活動を停止、米韓は軍事演習を停止)、「そのうえで話し合いで解決する軌道に戻すためにポイントの切り替えの係員を努めたい」と。これに対して米国の国連大使「相手は道理をわきまえた人物ではない」(話し合ってもわかるような人物ではない)だから「・・・・」と。


 

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                飯豊連峰(川西町の東部から望む)
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                      飯豊山
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                    鬼面川(米沢市)

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冬のウォーキング・コース  この踏切から向こう左側の歩道を歩きながら歌い始める
   ♪真っ白な雪道を 春風 かおる ・・・・・・・花は 花は 花は咲く・・・・・・・♪
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米沢会場

2017年03月16日

誰しもみんな少数派(加筆修正・訂正版)

 木村草太教授によれば「人間は、みな異なる個性を有するが故に、誰しもが何らかの意味で少数派である」と(『憲法の創造力』NHK出版新書)。
 人々の間では、生活・生業を営む上での利害や社会的な立場(職業・業種・職階・地位・事業規模・職場・地域・資産・収入源など)によって階層が分かれ、或は信条(思想・宗教)・知的レベル(リテラシー)・身体的知的条件などによっても考えが分かれ、多数派と少数派にわかれる。
 民主主義では多数派が多数決によって決定権・支配権を持つ。少数派はそれに従わされる。多数派(マジョリティー)は、国民による国家・産業経済・教育・文化の形成とそれらの制度・施策決定は多数派が(少数派をさしおいて)主導権をにぎる。
 民主主義は構成員全員に参政権など決定参加権・選挙権が公平に認められるやり方で、どれに決めるかや誰を選ぶか分かれた場合は多数決で決まる。政治の場合は、政策・施策・法令の決定・執行、議員・首相・首長の選挙などに際し、それぞれが考える「国益」や「正義」に鑑みてどのような決定・執行が適切で、どのような政党・人物が最適任かの決定は、多数派―たとえば有業者・正社員・正職員・中高所得者層・健常者・「普通の善良な市民」意識と特有の民族意識と多神教(神仏混合)観念を持つ日本人など―の意思・判断で決まり、多数者=マジョリッティーに有利な決定・選出が行われる。少数派―非正社員・無業者・低所得貧困層・障害者・在日外国人・キリスト教徒・イスラム教徒など―はそのような多数派主導の決定に従い、彼らによる選出を認めざるをえず、決まったことには従うしかない。
 しかし、少数派は、そこでただ諦めて、黙って引き下がるしかないというわけではなく、(多数派のその決定内容に納得し、反対意見・異論を取り下げることに承服できるならいざしらず)どうしても納得できないと思うならば、そのことを訴え続け、多数派の決定内容には間違いがある、自分たちは間違っていないと言い立て続けなければなるまい。そして、その多数派の権力と(言論や集会・デモなどで精一杯)闘わなければなるまい。 
 それが、抑え付けられ、締め付けを受けたり、弾圧・排斥されるようなことがあってはならないし、それは阻止しなければならない。
 多数派とはいえ、彼らの皆がけっして同一・一様なわけではなく、それぞれ異なる人格や個性・人生・境遇を持ち、誰しもが何らかの意味で少数派なのだから。
 今は少数派でも、粘り強いその闘いようによっては次第しだいに多数派に転じることもあり得よう。(幕末、開国派は少数派だったが、明治以後は多数派に転じたし、自由民権派は少数派だったが、大正デモクラシー時代を経て、戦後、現行憲法の下で、民主主義は当たり前のことになった。戦国時代は弱肉強食、織豊政権下では武力平天下で武力行使が当たり前だったが、徳川政権下では修身斉家治国平天下で、いわば平和主義が長らく続き、明治時代になって覇権主義・軍国主義が多数派に転じ、反戦平和主義は少数派で弾圧・迫害されたが、大戦後、平和主義が復活して、それが多数派に返り咲いている。)
 自分は多数派で、今は少数派(マイノリティー)として扱われたり、目の敵にされるようなことがないからといって、権力に対して同調、或いはただ黙って無批判を決め込んでいると、やがては自分にも矛先が向けられないとも限らないのである。木村草太教授は(冒頭の引用文の前に)「例えばキリスト教徒が多数を占める国で、ムスリムや仏教徒が弾圧されれば、キリスト教内での少数派は『次は我々かもしれない』と思うだろう」と書いているが、そういえば、第2次大戦中ドイツのルター派キリスト教会の牧師マルティン・ニーメラーという人(ナチス支配への抵抗運動で逮捕され強制収容所に入れられたが、処刑寸前ナチスの崩壊で生還)が大戦直後に告白していわく。「ナチスが共産主義者を攻撃した時、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だから何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったからなにも行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はその度にいつも不安を感じましたが、それでもなお行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だから行動に出たが、その時はすでに遅かった」と。
 大多数の善良なる市民にとってはオリンピックは楽しみだし、テロ等の治安対策は必要で、「共謀罪」とか「テロ等準備罪」とかの組織犯罪処罰法もGPS捜査も、安全・安心のためには、そういったものがないよりはあるにこしたことはない、それに反対するのはテロリストや犯罪者に付け込む余地を与えるようなものだと言って反対派を批判する向きもあるが、自分が「善良なる市民」だから関係はない、だから、市民が官憲からたえず監視されようと、いちいち尋問・捜査されようとかまわないというのだろうか。自分は「善良なる市民」だと思っても、それは手前勝手な思い込みにすぎず、「はたして善良かどうか」を判断するのは官憲なのである。
 自分にどんなことがあっても、最後まで守り続けてくれるのは多数派の仲間・同志ではない。守ってくれるのは憲法なのである。それには「すべての国民は、個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と定められている。
 しかし、それが改憲されて「全ての国民は、人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」などと変えられれば、そういうわけにはいかなくなってしまう。
 「個人として尊重され」「公共の福祉に反しない限り」というのと、「人として尊重され」「公益及び公の秩序に反しない限り」というのとでは、人権の扱いが違ってくのだから。(「個人として」という場合は、一人ひとり他の人とは異なる個性を有し代替がきかない(かけがえのない)存在として尊重されるということなのだが、それに対して「人として」という言い方になると、人間として他の動物とは代えられないが他の人間となら代えられる(人材・人員)ということになり、「尊重される」といっても重みが違ってこよう。(安保で、沖縄など基地住民は忍従を強いられ、有事の際は犠牲をも強いられるもする。)
 また、前者の「公共の福祉に反しない限り」という人権制約は、自分の人権が価値において同等の他の人の人権と衝突する場合、例えば「表現の自由」といっても、その表現がある人のプライバシーの侵害や名誉棄損になるといった個人と個人の間に生じる具体的な問題で互いに人権を損ない迷惑をかけるということのないように気を付けなければならないという調整的な制約なのだが、後者の「公益及び公の秩序に反しない限り」というと、それは「公益」(国家や地方公共団体の利益)とか「公の秩序」とか公権力が関わるものとなり、公権力による制約となってしまう。例えば、沖縄の基地建設反対運動が(彼ら沖縄の住民とそれを支援する市民は全国民のうちの少数派であるかもしれないが)安保・国防など(多数派から支持された)国家権力の立場から出動した警察官や防衛施設局の役人によって無慈悲に弾圧され、それが憲法上合法化されることになってしまう。
 今、沖縄平和センターの議長(山城氏)が、沖縄の米軍北部訓練場の施設の建設現場近くで、防衛局の職員の肩を揺さぶり怪我を負わせたなどとして傷害や公務執行妨害などの罪に問われ、逮捕されて5か月にわたって拘留されたが、国際人権団体(アムネステイ・インターナショナル)が人権侵害だと指摘していた。それが17日の那覇地裁の公判で山城氏は「防衛局が反対派のテントを撤去しようとしたのは違法であり、傷害罪の事実はなく、長期にわたる拘留は不当である」と無罪を主張している。現行憲法下でさえもだ。
 「個人」とは、世界でただ一人(オンリーワン)の最小限の少数派にほかならない。その権利は、守られなければならず、主張すべきは主張しなければならないのである。
 


2017年03月17日

3月のつぶやき                                     
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●朝日川柳に「忖度は以心伝心和の心」「妻かばう首相の姿に感動す」「忠誠を尽くせ大奥守り抜け」
―大和心(日本人の国民性)?―そうか、どおりで内閣支持率が落ちないわけか
●美川憲一の「生きる」の歌詞を書き写したメモ紙を片手に、今日も♪生きる 生きる♪と唄いながらウオーキング。そのことを入院中の女房に報告したら「自己満足もええもんだな」と。
 きたがわてつの憲法の歌の前文と9条に加えて12・13・14・25・97条にも自分で節を付けて日本語と英語で歌い、テープに吹き込んで(そこまでは実行)、それを女房のアイパッドに取り込み、ユーチューブに動画投稿しようかな、どうだと女房に話したら、「ダメだ、自己満足もほどほどにしろ」と拒否され、病院に持って行ってるアイパッドは貸してもらえなかった。
 テープを聴いてみると、確かに、美川憲一や「きたがわてつ」さんのような声の張り・つやには程遠い、カラスの鳴き声か。
●今日のウオーキングは ♪ 生きる 生きる・・・・♪と歌い通した。無心に。歌っているうち、なんかこみあげてくるものがあった。自分が愛おしくなってきてかな 
●テレビで、美川憲一が「生きる」という新曲(といっても元歌はシャンソンらしい)を歌っていたのを聴いた。歌詞が、なんか身につまされるような感じ・・・・♪好きなように生きた・・・・死の訪れなど怖くなかった やり残した事も沢山あるけど・・・・生きる 生きる 今になって私は 生きることの貴さを知った 
 気が付くと仲間が一人 また一人 帰らぬ旅へと 赴いて行った 天国も地獄も 私は信じない だけど確実に 死は迫っている・・・・・・
 生きている間 悔いのないように 私の仕事も 整理しておこう ろうそくの炎が燃え尽きるように 私の迎えも もう直ぐ来るから・・・・生きる 生きる 生きている間 生きる 生きる 悔いのないように♪
 よ~し これを憶えて ウオーキング・ソングに加えようット
●女房が入院。洗濯機の使用手順などをしたためたメモを貼っていった。それを見ながら、初めてやってみて、洗濯はなんとかなったが、電子レンジはうまくいかなかった。ライスカレーの残りをあっためようとしたのだが、2回やり直してもあったまらず、冷たいままご飯にかけて食べた。・・・・は~て何でだろう?
●朝日川柳・三題に「座布団」
「窮すれば被害者面する面の皮」―首相答弁
「類は友 夫人も総理も理事長も」―発想酷似
「幼児に言わせてしまう恐ろしさ」―洗脳
オリジナル「この国にもありしか彼の国と似たる幼年教育」―洗脳
●冬中、ウオーキングには下着からオーバーコートまで5着、オーバーズボンをはき、毛糸帽子を二着重ねてかぶって出かけたが、このところ帽子は一着だけ、フリーズとオーバーズボンは脱いで、やや身軽になって、未だ雪景色の田中の街道を唄いながら。歌はお決まりのコースに即したお決まりの「風に吹かれて」から始まって憲法の前文と6ヵ条を歌い通してきた。

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                吾妻山
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                  白馬の騎士 上杉謙信
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