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2016年01月 アーカイブ

2016年01月01日

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                    米沢(笹野地区)特産の一刀彫り
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 吾妻の白猿(去年の1月市街地に出没して捕獲され保護されて)、未だ近郊のこの檻の中に居る


        
                                                         

人道主義で結集した市民共同体―日本国憲法をモデルに地球市民憲章を(修正版)

 世界の恐ろしい忌々しき現実―戦乱・テロ・気候変動etc
 それに対して、我が国も含めて諸国とも国家の為政者・政府・国民も、それぞれ自国の存立・国益と自国民の権益・安全を他国民による侵害から守ることを第一として、軍事力に依存し、戦う相手に負けてはならないようにとその増強に努め、それぞれ国の都合・思惑にとらわれて、国連でも、G7でも、G20でもなかなか合意には達せず、軍縮と核兵器・残虐兵器の廃棄にはきっぱりと踏み切ろうとはせずに、軍事同盟も武器輸出も止めようとはしない。そして、それら国々(大国とそれに支援される国家)の支配に対抗し、抵抗しようにも抵抗できない軍事的弱小国あるいは集団や個人はテロで対抗しようとする。テロとは、軍事的な弱者による圧倒的な強者に対する対抗・抵抗手段であり、強大にして鉄壁なその軍備・防備の僅かな隙・手薄な所を突いて秘かに決行される。その隙間・手薄な所とは市民が集い、行き交い、生業・生活する所であり、そこで引き起こされる結果、無差別テロの形になり、そのテロリストを攻撃するにも市民を巻き込まざるを得ないことになる。どんなに強大・鉄壁な軍備を備えようともテロは無くならないということだ。
 かくて、どの国も個人も自らの安全を軍事や武器に頼る限り、世界に戦乱やテロは絶えず、悪循環が繰り返されることになる。
 元国連事務次長で現国際危機グループ(ICG)会長のジャンマリー・ゲーノ氏が次のように述べている(朝日新聞12月11日インタビュー欄)。
 「国家がコントロールを失いつつあり、大国の合意で世界が安定する時代ではもはやない。指導者が決めるトップダウンの出来事は減り、人々が互いに連絡を取り合うボトムアップ型の出来事が増えた。多国籍企業や組織犯罪網・国際テロ組織など、国家の枠に収まらない存在も力を持ってきた。地球温暖化も国家単位では解決できない」。これからは国民国家の枠組み(国益の追求)を超えた共同体の再構築が求められ、共同体を束ねるための『価値』『倫理』が問われる時代が来る。「人はパン(お金―筆者意訳)のみにて生きる者にあらず」、利害だけで共同体はつくれない。ヒューマニズムを通じて構築しなければならない、と論じている。
 また経済学者(同志社大学院)の浜矩子教授は次のようなことを説いている。
 「ヒト・モノ・カネが国境を超えるグローバル時代において国家が出来ることには限界がある。」「20世紀の最後の10年で国民国家を基礎単位とした世界がグローバル資本主義で壊れた。」そして「次はグローバル市民主義の時代」だ。「地球温暖化や開発途上国の貧困問題のようなグローバルな問題に対しては、グローバルなネットワークを通じて行動するNGOやNPOなどの市民社会組織が国益を超えた地球益(公共益)を求める活動を展開している」。「今、日本の国会周辺そして全国津々浦々で市民たちが連帯して声をあげている」(政権の暴走に対して「何だ!」と。そこにもグローバル市民主義の胎動を感じているのだろう―筆者)。

 グローバル化と国民国家の弱体化―情報・コミュニケーション・ヒト・モノ・カネの移動・・・・多国籍企業・地球温暖化・国際紛争・組織犯罪(テロの拡散)・難民・移民
 米ソ二大陣営(冷戦構造)→多極化
 個人の自由―社会の結束が弱まり細分化―モラルの劣化(目先の利益しか考えず)→集団のアイデンティティーを求め「みんなと一緒に居たい」居場所を求める―宗教・文化に原理主義・過激派思想―「文明の衝突」を煽って分断―極右・偏狭なナショナリズム・レイシズム(人種・民族差別主義)―ヘイト(憎悪)、異教徒・異文化排斥
 今は宗教的原理主義・過激思想とそれに対する偏狭なナショナリズム・排外主義が勢いづいているが。

  地域共同体―EU・ASEAN共同体(15年設立)など
            ↓ 歴史的・文化的な親近感・善隣友好
           東南アジア友好協力条約(TAC)(1976年結成)→域外諸国も加入―インド・オーストラリア・ニュージーランド・フランス・ロシア・日中韓・北朝鮮・アメリカ・カナダ・EUも(57ヵ国、世界人口の7割がその中に)―軍事手段・軍事的抑止力に専ら依存した安全保障という考え方から脱却し、対話と信頼醸成、紛争の平和的解決など平和的アプローチで安全保障を追求―「平和的安全保障」―加入国間で争いが起きたら「武力による威嚇や武力の行使を慎み、常に加入国間で友好的な交渉を通じて、その紛争を解決する」と定めている。(但し、この原則はASEANと域外加入国との関係に適用されるが、域外加入国同士の関係にまで適用されるものではない。)
     中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)も2013年に設立
 国家(利害共同体)の限界―統合崩れる―国家の枠組みに収まらない―国家のコントロール(統制)が利かない―国家単位では解決不可能―大国の合意で世界が安定する時代ではもはやない。・・・・世界各地域で頻発する武力抗争・テロ等に対して大国や有志国家連合による「対テロ戦争」などでは解決できない。地球温暖化・気候変動・国境を超えた災害・感染症、食糧・水・エネルギー・鉱物・森林等の資源枯渇などの対策も国家の枠組みでは収まり切らず、経済・貿易・金融も先進国・途上国間で利害対立―国連やCOP21やWTOなどではまとまりにくい。
 NGO(非政府組織)の努力―世界市民のネットワーク―いわば「市民の有志連合」
   「国境なき医師団」「国境なき記者団」があり、「国境なき教師団」もあるなら「国境なき人道事業団」―人命を守り、救う人道支援の市民有志連合―といったものもあってよい。
 (そのような立場で活躍している事例
    中村哲氏らのペシャワール会(パキスタンとアフガニスタンで医療活動・灌漑事業・農業支援)
   日野原重明―聖路加国際メディカルセンター理事長、全国の小学校、海外の日本人学校でも「いのちの授業」
   高遠菜穂子―イラク支援ボランティア、イラク戦争中、武装勢力に捕まって人質にされたが解放され、現在も活動。
   マララ―パキスタン出身の少女、武装集団の銃撃を受けて重傷を負うも命をとりとめる。国連でスピーチして曰く、「私は誰にも敵対はしない。私は誰も憎んではいない。タリバンやすべての過激派の息子たち・娘たちに教育を受けさせたい」と。)

 国家の利害を超えた共同体―国家の領土とは異なる枠組みの共同体―その共同体を束ねるための価値と倫理(―ヒューマニズム)が問われる時代が来る(冒頭に引用したジャンマリー・ゲーノICG会長いわく、「20年後には機能しているかも」と)。
 暴力(武力・テロ)に訴えることなく道徳と法理とにかなった世界秩序の構築へ、道徳と法理とにかなった手段で近づいていく。
 倫理―人間同士の間―全ての人の道
  「己の欲せざるところ、人に施すなかれ」(論語)―殺されたくない、故に人は殺さず
  「不殺生戒(アヒンサー)」(仏教五戒)・・・・人間は動植物を食して(「命を頂いて」)自らの生命を維持しているのだが、そのことは別として、人は殺してはならない、という戒律
  「汝、殺すなかれ」(旧約聖書「十戒」) 
  「自分を愛するように、汝の隣人を愛せよ」(新約聖書)
  「人は(自己自身であれ他人であれ)単なる手段として扱うことなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」(カント「道徳法則」)
  「生命への畏敬」(シュバイツァー)
 これらは普遍的な道徳律と考えられる。
 が、そもそも人間には、競争心・闘争心・憎悪などの感情はあっても、生き物を処理して食する以外には動物を「殺したい」などという欲求は、精神に異常ない限りあり得ない。ただ、文明社会に生じた産物・土地・資源・領域・富・支配権の争奪が激化して殺し合うことが多発するようになり、上記のような戒律や教え・道徳律が考え出されたわけである。

 倫理的価値―最高価値―経済的価値・利害打算・国益・国威などに対して。人命(将来世代も含めて世界の全ての人間の生命)―至上価値(「地球より重い」)―(富や物質的にリッチな生活はできなくとも、)生命の維持にはパンもお金も必要であり、経済的な生活の支えは必要不可欠だが、貧富格差が大きく、一方に富や資源が偏在し、他方に生命維持さえできない欠乏が生じるような現代資本主義をそのままにしてはならず、問題は世界のどの国・どの人にも自己責任に着せるのではなく「文化的で最低限度の生活」が保障できるようにする経済分配システムを世界に確立することである。
   
 戦争(殺し合い)は悪―カントは、戦争は、国家によって人を兵士として戦争に勝利するたの手段として用いる最たる悪だとして「永久平和論」を説き、諸国家の常備軍全廃と諸国家連合の組織を提唱―当時(18世紀)は「夢」のような考えだったが、現代では第一次大戦後「国際紛争を解決する手段として、及び国策遂行の手段としては、戦争は原則として違法」とされるようになり、国際連盟から国際連合へと諸国家連合の組織は実現している。交戦法規など戦時国際法も制定されており、国際司法裁判所・国際刑事裁判所なども設立されている。我が国は、憲法上は「常備軍」を廃止している
   
   
 非暴力・不戦・平和共同体の結成をめざす動き―東アジア平和共同体、中南米地域で広がる平和共同体(ASEAN共同体、東南アジア平和協力条約<TAC>は既に結成されているが、北東アジア平和協力条約結成も期待される)  

 それならば日本国の枠を超えた「日本国憲法をモデルとした憲法で結束する共同体」は如何なものか   
 そのキーワード―同憲法の前文にある「諸国民の公正と信義に信頼して人々の安全と生存を保持」、「専制と隷従・圧迫と偏狭を除去」、「全ての人が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と、同9条にある「戦争も武力による威嚇・武力行使も放棄」

 「人命は至上の価値を有し、人を殺してはならない」「人類愛」の倫理を世界に確立することをめざし、それを普遍的な道徳・法理とし教育によって実現。
 
 諸国民とも、日本国憲法9条をモデルとして国(自国政府)に(国権の発動たる)戦争をさせない「戦争放棄」条項を自国憲法に求めつつ、そのことを共に「地球市民憲章」として定めること(イラク帰還米兵のウイリアム・ホプキンズ氏は「日本の憲法9条のことは勉強しました」として「戦争放棄のその理想は全人類が追求すべきで、米国も憲法に取り入れるべきです。」「日本は世界で、戦争放棄の実例となってほしい」と)。そして教育で「戦争の悲惨・理不尽」「人命に至上価値・諸国民に平等な平和的生存権」の授業を学校でも、どこでも行うようにする。それらのことをどの国どの国民もひたすら目指す。「9条にノーベル平和賞を」の市民運動も、そういったことを念頭にして大々的に展開してこそ受賞を果たせる(さもなければ受賞は無理)だろう。

2016年01月04日

ヒューマニズムを共有する共同体の構築を(加筆版)

 戦乱・テロ・気候変動など世界の問題に対して、これまでのような国民国家とその連合では、それぞれの国益・利害・軍事力依存から思惑がからんで話はまとまらず、効果的に対処しきれなくなっている。このような現実のまえに、本紙(12月11日付朝日インタビュー欄)で国際危機グループ会長のジャンマリー・ゲーノ氏が「共同体を束ねるための『価値』『倫理』が問われる時代が来る」と論じていたが、その価値と倫理を30日の「声」に載っていた高校生の方の投稿(「愛で満ちた世界がテロをなくす」)に見出した。いわく、「世界中に暮らす人たちは言葉も信じるものも違う、けれど、大切ものは同じ、家族・友人・恋人、大切に思う人とのつながり。つまり愛だ」と。その愛とは人類愛であり、人命を何よりも大切にすることだろう。そのヒューマニズムの価値観・倫理観を共有する共同体を、国民国家を超えて、全ての人々に健康で文化的な最低限度の生活を保障する経済分配システムとともに構築する。そうすれば戦争もテロもなくなる、ということだろう。

 <関連>1月4日朝日社説「2016年の世界」に次のようにあった。「市民同士のネットワークを広げることで、狭い国益に縛られがちな各国政府に下から協力を促す態勢をつくれないか。まだその道は遠いが、国際政治への市民社会の関与を増す工夫が必要だ」と。

2016年01月15日

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                「火渡り」の荒行
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2016年01月20日

海外で殺し殺される事態になったら、どうなるのか?―新安保法制

 PKOは派遣先(ガバナンスが効いていない紛争地)で、従来は停戦がなされた後に中立性を確保したうえで道路・橋などインフラ整備、学校建設など人道復興支援に限定。それが今度は(安保法で)治安維持・住民保護のため巡回・監視・検問・警護なども新たに任務―危害・妨害に対して応戦・制圧する戦闘を伴い、他国部隊への加勢(「駆付け警護」)も。
 武器使用は、従来は「正当防衛・緊急避難」など自己保存・武器等防護に限定も、今度はそれらを超えて「任務遂行」(応戦・制圧・妨害排除)のためにも使用へ。
部隊行動基準(ROE)―その都度(その場その場の事態の展開によって)変わることに。(「やられる前にやりかえす」―例えば無人機ドローンを用いた攻撃に対しては、それをスマートフォンで誘導・操作していると、スマホなどを所持して人物をテロリストだと見なして彼らを先制攻撃として、いきなり攻撃する等。)
 普通の軍隊ならば、化学兵器・細菌兵器など使ってはいけない、住民を殺してはいけない、レイプをしてはいけない等ネガティブリスト(やってはいけないこと)だけを指定して、それ以外は全てやっていい(現場の部隊長の判断で)ということ。
 空爆なども、初めから病院や学校などを(国際人道法違反になるので)攻撃対象にしてはならないが、戦闘行動中の誤爆は「しかたなかった」で済まされる。流れ弾が民間人に当たってしまったという場合も「しかたなかった」として済まされ、罪には問われない。
 しかし、自衛隊は(9条で交戦権が否認されていて)警察部隊と同様に非軍隊なので(我が国に対する急迫不正の侵害に際してそれを排除するに足る必要最小限の実力行使しかできないというポジティブリストで運用)、海外では国際人道法(ジュネーブ条約・ハーグ条約など)の適用外で、単なる武装集団と同列に殺人罪で裁かれることにもなるし、帰国した日本でも刑法の国外犯規定に業務上過失致死傷の適用はなく、司法判断しだい。日本国憲法下では軍事法廷(軍事裁判所など)は存在せず、そのようなところで特別扱いして裁くようなこともない。
 海外の戦闘地域や紛争地など派遣先で撃たれて死んだら?―戦死(「2階級特進」)・公務死(殉職・「1階級特進」)どっちとも決められてはいない。
 防衛省職員団体保険に加入しているが、戦闘行動で死んだら?―保険はおりない。
(国外で防衛出動の命令を受けた自衛隊員は、これらの不合理・不都合で、危険を被り、そのうえ不利益を被る自衛隊員が、その出動命令や職務上の命令に応じなかったりした場合を考えて、今回、自衛隊法改正で「国外犯処罰規定」が新設されている。)

 こうしてみると、自衛隊員は海外に派遣されて殺し殺される事態になると様々不都合・不合理が生じる。要するに現行憲法には(自衛隊はあっても軍隊ではないので)自衛隊員が海外で殺し殺される事態など想定されてはいないのである。
 ならばいっそのこと自衛隊は改憲(9条2項を削除し、「国防軍」や「自衛軍」などと明記)して正式に軍隊としたらいい、と考える向きもあろう。
 しかしそれは、我が国に対する急迫不正の侵害に際してそれを排除するに足る必要最小限の実力を行使するために設けられている自衛隊を国外にまで差し向けて他国民を殺し自国民が殺される事態に至ることを、先の大戦で国の内外に未曾有の悲惨をもたらした戦争の惨禍を二度と繰り返すまい(あんなこと再び繰り返すなんて御免だ)と決意して現行憲法の前文に誓った歴史的民族的誓いを今になって忘れ去り、肯定してしまうことにほかなるまい。

 新安保法ひいては9条改憲によって自衛隊員が海外で殺し殺される事態に至るようなことは、あくまで避けなければなるまい。

 <参考>①「マスコミ市民」’16年1月号―特集『安倍政治を問う』―井筒高雄・元陸上自衛隊レンジャー隊員へのインタビュー記事―それによれば、自衛隊には定年まで勤める隊員(いわば「正規隊員」で「職業軍人」)と任期(陸自は1任期2年、海自・空自は1任期3年)まで勤める隊員(いわば「非正規隊員」)とがある。陸自隊員14万人のうち、戦闘行動に耐えられる(訓練によって、反射的に銃を向けて良心の呵責なく躊躇なく撃てる)隊員は約5,100人くらいなものだと。レンジャー教育では、戦闘訓練だけでなく、斥候・爆破・襲撃・暗殺・情報収集・スパイ活動・不審人物の口を割らせる(拷問)方法・捕虜になった時に口を割らないこと等、すべて行われる(それらに伴う死亡事故は折込み済み)、とのこと。
 ②「世界」同1月号―杉田敦・法政大法学部教授「憲法九条の削除・改定は必要か」―杉田教授は、憲法の9条は、13条(幸福追求権)・21条(表現の自由)・5条(生存権)などと同様で、文字通り(文理解釈して)実施さるべき準則ではなく、理念を実現していく方向性を示す原理として定められているもので、安全保障政策を方向づける方向性―諸外国にあるような軍隊は持たず、軍事的な権力は行使しないという方向性―を定めたものだとしている。したがって解釈に幅があるも、その範囲には限りがあるのは当然である。その範囲を越えているか否かの判断するは法律の専門家(裁判官や内閣法制局も含めた法曹・学者)であり、大多数の法律家は、集団的自衛権の行使容認は(限定的とはいえ)その範囲を越えている、としている。

軍隊にはネガティブリスト、自衛隊にはポジティブリスト

 国軍(軍隊)を持つ国々では、その軍隊はやってはいけないケースを定めた禁止規定(ネガティブリスト)を列挙していて、それ以外には軍隊は何をやってもいいことになっているが、憲法で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」として軍隊を禁じている我が国では、自衛隊を設けてはいても、その活動は基本的に武力の行使を禁じられ、例外としてこういう場合(我が国に対する急迫不正の侵害がある場合)は(それを排除するために必要最小限の実力を)自衛隊は行使できるというその根拠規定(ポジティブリスト)を列挙していかざるを得ない。そのリスト(自衛隊がやってもいいというケース)が一つ一つ定められてきた。それが自衛隊法・PKO協力法・武力攻撃事態法・周辺事態法等々の法律であり、新安保法は11本の法律から成るが、(そのうち10本はこれら自衛隊法などの改正法であり、「国際平和支援法」の1本だけが新設)、それらは自衛隊が今度から新たにやってもいいというケース(ポジティブリスト)を加増したものである。そこに集団的自衛権の行使容認など、憲法9条が許す範囲を越えていると見なされるケースが加えられた(今までは海外での武力行使や戦争に加担することはできなかったのが、今度からそれができるようになるということ)。
 (アフガニスタンやシリア・イラク等での米軍の作戦への後方支援活動やホルムズ海峡での機雷の掃海活動や南シナ海での対中警戒・監視活動など、現時点では政策判断上行わないとはいっても、やろうと思えばできるということになる。)
 今回はポジティブリストを増やす形で実質改憲が行われたが、明文改憲によって9条2項が削除されて、自衛隊が「国防軍」や「自衛軍」などの形で正式に軍隊として認められれば、ネガティブリスト方式で、戦時国際法(国際人道法)などでも禁じられている以外に自衛隊は(政府や国会が安全保障上その運用が必要だと判断すれば)何でもできるようになり、武力行使も堂々とできるようになるわけだ。

2016年01月26日

野党には「死ぬ覚悟」を

 本紙(朝日21日)の「インタビュー」で辺見庸氏は「安倍は死に物狂い・・・気合の入り方が尋常じゃない」と。それは、首相にとって、戦中・戦後を通じてこの国の運命に大きく関わってきた祖父が戦後憲法に対して「自主憲法」制定を目指した、その意思を受け継いで、任期中に是が非でも実現を果たすべく執念を燃やしているのだ、ということだろう。「それに対して野党には『死ぬ覚悟』なんてないですよ」というわけである。
 そこで思ったのは野党第一党の民主党の態度が定まらないことだ。この間、政権与党の安保法制をめぐる強引な閣議決定や国会運営などによって覆されようとしている不戦平和主義と立憲主義の2大原則は何をさておいても死守しなければならない、という時に、他の野党がその気になって早くから共闘・選挙協力を呼びかけ、学生・学者その他の市民連合の後押しがあっても、様々な思惑から、なかなか協議に入ろうとしない。そのあたりに優柔不断さが感じられてならないのだ。

 最大野党が立てる候補が最有力なのだから、他は、ただ黙って候補者を降ろして側面から応援協力してくれればいい、などと高をくくっているばあいではあるまい。

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