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2012年06月 アーカイブ

2012年06月01日

6月のつぶやき(上に加筆)

●誰もいない田んぼ道。行く手に広がる吾妻の山並み。♪わ~れは行く、心の命ずるままに、わ~れは行く、さらば昴よ~♪ ♪続く続く遥かな道を、冬の嵐が吹いてるが・・・・銀色の遥かなみ~ち♪♪ ワンマンショーだ。
●今日は東京。明治公園で「怒」の大集会(6.23国民大集会、2万4千人が集まる、舞台では若者のバンド・ボーカルが♪消費税増税、冗談じゃないぜ!・・・冗談じゃないぜ!・・・冗談じゃないぜ♪ ♪ふるさとを汚したのは誰だ!・・・を汚したのは誰だ!・・・したのは誰だ♪と歌い叫んでいた)、そこから新宿中央公園(東京都庁の裏)まで3.5㌔をデモ、「消費税増税ハンターイ、原発再稼動を許すな~!・・・・・」と叫んできた。
●早苗がそよぎ、誰もいない田んぼ道を今日も散歩。♪わたしのお墓の前で泣かないで下さい~♪・・・・青サギがびっくりして飛び立った。カルガモはじいっとして聴いていた(?)。
●12日の朝日新聞の「声」欄に原発関連の3つの投稿があった。そのうちの一つは当方が出したもので、先にあった原発容認投稿(「反原発論者は暗い現実を見て」)に対する反論(「原発で安全・経済は両立せず」―原文は、このHPの「新聞に載らない投稿」欄に「福島の現実をこそ見て」としている)。もう一つは賛成論(「原発再稼働は仕方ない選択だ」)だった。
 賛成論の方は、その論点は①原発は停止していても「延々と保全管理しなくてはならず、維持管理費のみ生じる『赤字』の産物になってしまう」、②原発の怖さに必要以上に反応している、③原発城下町に大きなダメージを与える、というもので、だから「再稼働は仕方ない」というわけだ。
 ①については、原発は停止していても維持管理費がかかり、核燃料が(原子炉・建屋内に)存在し続けりかぎり危険も付きまとうが、再稼働して核燃料を燃やし続ければ、使用核燃料も使用済み核燃料・核廃棄物もさらに増え続け、維持管理費と危険がさらにかさむことになるのだ、ということ。②については、(震災がれきの県外搬出処理にたいする反応―過剰反応か?―などのことは別にしても)原発の怖さに目をふさぎ、事故が起きてしまってから「想定外だった」などと言って後悔するよりも、予め(福島級あるいはそれ以上の)最悪の事態を想定して判断・対応することの方が大事なのだ、ということ。③については、そこで過酷事故が起きてしまったら「原発城下町」への経済的ダメージだけでは済まない、時間的・空間的に広範囲にわたって環境を汚染し人が住めなくさえもなる最悪のダメージをこそ考えに入れなければならないのだ、ということ。そういったことで反論できよう。
 もう一つの投稿は「委員に研究名目の寄付禁止を」というもので、高速増殖炉もんじゅの安全性を調べるための専門家委員会の委員が原子力関連企業や団体から寄付を受けていたことへの批判論だった。そういえば福井県の原子力安全専門委員会にも関電の関連団体や原発メーカーから寄付を受けていた委員が半数近くもいたことが新聞(3月27日朝日)に報じられている。(このような委員会が大飯原発の安全性を検証・確認したとする報告書を知事に出して、それを受けて知事が首相の再稼働宣言に同意するという運びとなっているわけだ。)
 この日の同じ「声」欄の「朝日川柳」には首相の原発再稼働宣言に関して4つの川柳が載っていた。
  「決められぬ政治決めたら再稼働」
  「安全と総理大臣様が告げ」
  「持病です健忘症と不感症」
  「生活を守り生命脅かし」
 翌々日の朝日川柳には
  「知事視察誰も知ってるセレモニー」
  「道具見て安全とする千里眼」
  同「かたえくぼ」欄には
   「『再稼働』 オーイ むちゃ!―国民」
 いいところをついているな。
●ジュリー「今はジジイ」。いわく、「昔はジュリーに似合わないことは、言えなかった」が、今は『言いたいことを言わなきゃ』と思うようになった」。そして歌っているのが「我が窮状」という歌で、「9条を守りたい」と。
 当方も言いたいこと、言わねばならぬことは言わなきゃ。とは言っても、誰も聞いてはくれない。だから、このブログに書き残しているんだ。
●100歳で大往生。新藤兼人監督。「原爆の子」は、当方が金山小学校時代、学校で見た覚えがある。あの映画をつくった監督だったんだな。「裸の島」も見たが、最後の作品「一枚のハガキ」は未だ見ていない。見なくちゃ。
 彼は、近年、あの歳でストレッチ体操をやり、英語のレッスンをやっているところをテレビで見た。当方と同じことをやっていたではないか。
いわく、「生きているかぎり生き抜く」と。
 尾崎紀世彦も亡くなったというニュース。「また逢う日まで」、当方がこの間、カラオケで歌ったばかりだった。
 朱鷺の子らよ、頑張って生き抜こう!

2012年06月05日

福島の現実をこそ見て

 先の投稿に『反原発論者は暗い現実を見て』というのがあった。その「暗い現実」「日本自滅」の恐れというのは、原発を再稼働しなければ電力料金の値上げで産業経済の衰退、国民生活の破綻を招く恐れがある、要するに国民経済への打撃のことを指している。そして「経済が衰退しても安全性さえ確保できればいいという考えは『幻想』にすぎない」と。
 しかし、原発は、その安全性と経済性は両立できると考えることこそ「美しい夢」であり「幻想」に過ぎなかったのではあるまいか。
 飛行機・自動車など他の場合なら、安全性と利便性のバランスを考え、利便性の故に事故のリスクを忍んで利用し続けられている。しかし、原発の場合は、事故の確率は小さくても、事故は起きないという保証は無く、いったんそれが起きてしまえば、長期にわたって計り知れない甚大な被害をもたらし、単に日本の産業経済が衰退するという騒ぎだけでは収まらず、日本は広範囲にわたって住めなくさえなりかねない事態にも立ち至る。
 原発は、どうせ停止していても危険は付きまとい続け、廃炉にするにしても膨大な費用がかかるというが、稼動を続ければ核燃料を使い、核のゴミを出し続けるのであり、停止すれば、少なくともそれはなくなるわけである。
 原発容認論者は福島の二度とあってはならない悲惨な現実をこそ見るべきなのではないか。

2012年06月08日

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2012年06月12日

「決められる政治」なるもの①

 首相が原発再稼働宣言。「夏場の電力不足・停電が起きた場合の国民生活・経済への影響を考えると、精神論だけではやっていけない」と。「『決められない政治』からの脱却」をやってのけ、その力を示したつもりのようだ。それに対して橋本大阪市長は「負けたといえば負けたといわれても仕方ない」、「机上の論理だけではいかないのが現実の政治」だと。
 確かな根拠も示さず安全・大丈夫だと言い張ることこそ精神論ではないのか。確かに、互いの思惑と力関係と駆け引きでせめぎ合うのが現実の政治であるには相違あるまい。しかし、福島で起きた原発事故の現実を抜きにして、机上の計算とコンピュータ・シュミレーション実験データだけをもって「暫定的安全基準」をクリアしているから大丈夫だといって再稼働を決断し、それをあえなく容認して、このような安全判断を(安全神話と同様に)信じ込んでこの夏場を原発再稼働でしのぐのだと頑張ることこそ非現実的・精神論的対応ではないのか。
 「決められない政治からの脱却」と称して、多くの人々が望みもしないことを、多数の反対を押し切って決定を強行する、それは強権政治にほかならない。
 「決定できる民主主義」とは、彼らにとって都合のいいことを決定できる民主主義の形(選挙・議会・多数決など)であるべきだということであり、彼らにとって都合のいい決定を通すための民主主義の形式(手続き)を踏んだ強権政治にほかならない。ヒトラーも選挙で選ばれ、国会の決議に基づいてあの強権政治を行ったのだ。
 衆参の「ねじれ」などは民主・自公3党の談合でかたがつくが、問題なのは政府・国会あるい自治体の首長・議会・原子力専門委員などと国民・住民との間の意識のねじれなのだ。

2012年06月16日

「決められる政治」なるもの② (加筆修正版)

 「決められる政治」とは、国民が嫌がることを嫌がらない人たちが決められる政治にほかならないだろう。
 国民(庶民)が嫌がることとは消費税増税、原発再稼働、TPP、米軍基地、9条改憲、競争・管理教育など。
 「嫌がらない人たち」とは、これらが決まっても、たいして困らない人たち、かえって有利になる人たちだ。
 「決められる政治」の手法の一つが「主要3党」の「修正協議」合意―要するに多数派独裁にほかならない。
 その3党協議とは、国会では関連法案を審議する衆院特別委員会に他党委員も出席し、公聴会も設けられて質疑が行われている最中、それをよそに、3党だけで、協議実務者が都内のどこかわからないホテル(週刊朝日によれば赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京)にこもって進められたという、まさに密室談合。消費税増税法案それに原子力規制法案(40年廃炉の条文に見直し規定を設ける)も、そこで合意。
 主要マスコミは、それを歓迎・評価。
 彼らは「3党協議で結論を出す政治スタイルを確立しないと国民の期待が地に落ちる」(公明党の山口代表)などと言って、その手法を正当化。(週刊朝日は「事実上の『大連立』による「談合政治」と書いている。)
 彼らは「多数派」だとは言っても、国会の各党議席の構成では多数派だが、消費増税など個々の問題に関するかぎり彼らの意見は国民世論の中では少数派なのである。世論調査では消費税増税には6割が反対、原発再稼働も賛成派は少数派なのである(マスコミが、あれほど「財政破綻したらどうする」とか、「停電になったらどうする」と脅し、煽っていてもだ。)
 そのような多数民意の反対を押し切って3党だけで決定し、それを国会そして国民に押し付ける、そんなことが「決定できる民主主義」などと言って正当化できるものか。そんなのはとうてい民主主義の名に値すまい。

 

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