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2011年07月 アーカイブ

2011年07月02日

7月のつぶやき(随時、上に加筆)

●「四面楚歌に孤軍奮闘 がんばれアナタ!(夫人)」―朝日川柳に投稿したが載らなかった。
●「なでしこジャパン」優勝!すごい!がんばれ東北!
●朝4時半、窓を開けて空を見やると晴れていた。外に出て東の山並みに目をやると、霞みがかって峰上がうっすら赤みを帯びていた。もしかして赤い太陽。カメラを持ってきて、じっと待った。間もなくして顔を出した。赤かった。ぐんぐん昇っていく。バチバチ撮った。ところが赤い日の丸は上に昇っていくにつれ黄色に変わり、さらには白に変わった。後で写真をテレビにつないで見てみると、なんと全部が少し黄色がかった白に映っていた。なんでだろう。日が出始め時はこの肉眼では確かに赤かったのに。デジカメには白い日の丸にしか映らないのか・・・どうしてなんだろう?
●我が家の「緑のカーテン」―ネットを張った縦25の網目のうち、それぞれ伸びが一番早いもので、朝顔は10番目まで達し、ゴーヤは20番目まで達した。全部上まで達して「カーテン」が完成するまで網目を数えるのが楽しみだ。
●当日の放射線量は米沢が0.081μSv、福島市1.21μSv、飯館村が2.26μSv、南相馬の原町区が2.2μSv、相馬市は0.4μSvだった。東北各地のドコモショップ・グループの代表取締役をしているK氏(教え子)の車と運転で行ってみた。南相馬店は閉鎖されていて、玄関先や駐車場のコンクリートの隙間に草が生えていたので、軍手をはめ、4人でむしってやった。相馬店のほうは営業していたので、従業員の方々に天然水ボトル10箱ほど土産に置いてきたら、喜んでくれたとのこと。
●飯館村を通って、父が生前詠んだ歌が思い浮かんだ。「街道はじりじり日照りの植田なか 行く手の村に音ひとつなし」―但し、そこでは田や畑のどこにも作物が植え付けられてはいない。
●原発事故対応のことで、先だって(5月)、谷垣自民党総裁が国会(特別委員会)で「海水注入中断」問題を取り上げて首相を激しく追及したことがあったが、実は谷垣氏のあの情報源はガセネタで、以前、民主党の前原氏が代表辞任に追い込められた偽メール事件と同じ構図なのだという。マスコミはなぜそれを取り上げないのだろうか?
 谷垣自民党総裁は「海水注入は首相の意向で中断されたのではないか」と激しく首相の責任を追求したものだ。ところが、7月2日Cs朝日ニュースターの番組「ニュースにだまされるな」で北大教授の山口二郎氏は「あれはガセネタ」で「偽メール事件と同じ構図だ」と。山口教授のこの発言を受けて、経産省大臣官房付の古賀茂明氏は「かなり多くの人の証言がありますけれども、経産省の官僚がその情報(ガセネタ)を麻生さんのところに持っていき、麻生さんから安倍さんに話しがいって、安倍さんがバッと流した、というのが定説になっている。かれら官僚は『菅は危ない。あの人にまかせると脱原発に思いきり走っちゃう』と考えたのです」と言っていた。
 なんたることだ!こんな虚偽質問をマスコミはなぜ取り上げずに済ませているのか。
●「15%節電」:我が家ではエアコンはあるが、先年からたまにしか使わず、扇風機は使っている。居間は、一昨年、新式で明りをいっぱいにしたり弱くしたり調節ができる蛍光灯に付け替えたばかりで、今年は廊下とトイレなどの電気をLEDに替えている。居間、そこだけが二階がなく、一番暑い。その南側にある幅広いガラス戸の外側の軒下にフラワーポットを並べて、細長い竹を何本も立て、朝顔のつるをからませて「緑のカーテン」にしてきたが、今年はネットを張ってゴーヤのつるをからませるようにした。居間の平たい屋上にはよしずを数枚、それぞれの端に置いたブロックの上にあげ、フラワーポットに植えつけたカボチャのつるをはわせる、という仕掛けをかみさんが考えて試みている。カボチャも蔓も未だ伸びてはいないが、よしずをあげただけで屋根の熱さはぐんと下がっている。ゴーヤとカボチャの収穫、楽しみだなあ。

2011年07月06日

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                       相馬市
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                            松川浦
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                              新地発電所か?

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                       南相馬
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                         いたるところ閉鎖
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                    病院は営業。傾いているのはカメラのほう
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米沢恒例の花火大会 今年もあがった
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                   緑のカーテン      
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肉眼で見た朝日はかったのに、デジカメで撮ったら、こんなふうに

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                                 田や畑は耕作放棄状態
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          無人の飯館村
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2011年07月08日

ストレステストは迷惑?

ストレステストは迷惑?
 原発再稼動にあたって菅首相がストレステスト等の方針を打ち出した。ところがマスコミから流れる論調は、それをあたかも九電の「やらせメール」と同列に迷惑がっているかのようなものばかり。一定の評価はしつつも「なぜ今なのか」困惑しているという向きもあるが、大方が悪評。しかし、「おかげで、ますます運転再開のメドがたたなくなった」という、その言い方は再稼動容認の立場に立っているよう思える。そしてそれは英断どころか、またしても首相の失策として攻撃材料にされているのだ。
 「唐突だ」とか、「ちぐはぐだ」とか、「進め方が下手」などといった指摘はうなずけるとしても、ストレステストや新しいハードルを設けること自体はけっして愚策ではあるまい。直ちに廃炉にしてしまえば完璧なのだろうが、次善の良策とも言えるのではなかろうか。
 それらの具体的な方法と内容はこれからの話しで、今のところ政府の統一見解としては、ストレステストは「必ずしも再稼動の条件にはしない方向だ」とのことだが、それでは意味がない。稼動を認める条件として厳正に適用すべきものでなければならない。
 官房長官は「エネルギー供給のことより、原子力の安全・安心の方が、優先度が高い」と述べているが、稼動推進側の圧力・攻勢に屈してはならない。

ストレステストは当然 
 原発運転再開とストレステストなどをめぐって野党とマスコミは、「テストなど唐突」だとか、「閣内不統一」だとか、「国の方針が揺らいでいる」などと、政権の混迷ばかりを大きく取り上げ、首相や閣僚がいつ辞めるのか、そのようなことばかりにこだわっているやに思われる。
 経産大臣がせっかく「安全宣言」を出して、再稼動にゴーサインが出たものと思っていたところに、首相から「ストレステスト」・「新ルール」が持ち出され「待った」がかけられて混乱を来たし不信・不安を招いている、というわけである。それは電力事業者や経産省など推進側から見ればそうなるが、国民にとっては、安易な「安全宣言」と「やらせメール」など世論誘導工作に基ずく再稼動容認、その方が不安なのであり、容認にはよくよく慎重を期し、新たなハードルを設けようとするのは当然のことだろう。
 「ちぐはぐ」だろうが、「ブレ」ていようが、充分でないものを改めるのをためらってはなるまい。「善は急げ」だ。安易に再稼動を容認して、また事故を起こされてしまってからでは遅いのだ。
 今後は、これまでどおり原発ありきの経済で行くか、それとも脱原発の方向で経済や暮らしを立てるか、どの方向をめざすのか、今こそ国民的議論の時だと考える。

2011年07月18日

原発・放射能の危険性、わからないならどうする?(加筆版)

 今後、また原発事故が起こる危険性ははたしてどれだけあるのか、よくわからない。福島第一原発のような古い従来型の原発ならともかく次世代型なら大丈夫だという向きがある。ところで地下式原発推進議員連盟というものが結成され、自民党から谷垣・森喜郎・安倍晋三ら、民主党から鳩山・渡部恒三・羽田ら、国民新党から亀井、「たちあがれ日本」から平沼、といったメンバーが名を連ねているが、彼らは地下原発なら大丈夫(安全)だと思っているのだ。(原発は膨大な熱を放出するので、その熱を海や川に逃さなければならず、取水口・排水口それに排気口を必要とする。一たび事故が起きてしまえば、放射性物質はその排水口・排気口から漏出、閉じ込めることはできない。核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)でさえ地下を掘って埋めようにも埋められないでいるのに。地震は地下何キロ~何十キロの所で発生し、岩盤を破壊しながら断層を地表まで押し上げることもあるという。そんな所にいくら頑丈な収納庫を造っても、地震がくればひとたまりもないのだ。)
 いずれにしろ、事故が起きる危険性は「ある」と断言する人はいても、「ない」と断言できる者は誰もいまい。(事故の可能性を打ち消すことはできないのだ)。
 放射能ははたしてどれだけ健康に害があるのか、これも、よくはわかっていないらしい。それほど大したことはないとも言えるし、大いにあるとも言える。とりわけ低量被曝は「どんな健康障害を引き起こすか世界的にも歴史的にも全く解明されておらず、安全か、安全でないかわからない」という。(元自民党参院議員で現・東電顧問の加納氏などは「むしろ低線量の放射線は体にいい」とも。)「山形大学医学部放射線腫瘍学講座教授の根本建二氏は「未だよくわかっていないことをわかってもらいたい」と言っていた(6月29日、山形県置賜総合支庁主催の講演会で)。
 現段階では、学者・専門家によって見解が異なり、いずれも、どちらが正しいか、よくはわからないものらしい。

 推進・維持派と脱原発派それぞれに自分に都合のいい情報・データ・数値のみ着目して取り上げるものだ、という。
 推進・維持派とは、原発で飯を食っている人たち、原発関連事業で利益を得ている人たち(経産省などの官僚、交付金を受けている立地自治体、学者・研究者も含む)、それに原発関連業界から政治献金を受けている自民党などの政治家、原発関連業界から広告をもらっているメディアなどである。これらは原発事故の可能性や放射能の危険性よりも安全・安心材料をことさら取り上げる。

 しかし、一般庶民にとっては(人間・子ども・子孫・生き物の)生命と健康が何より大事であり、お金や便利・快適さなどは二の次なのだ。

 原発・放射能は大丈夫なのか、大丈夫でないのか、情報も見解も異なる学者・専門家のどちらの言うことが正しいのかわからない、そういう場合、「ならば気にすまい」という楽観的な判断と「ならば最悪の場合のことを考えて原発はやめてもらおう」という二通りの判断になる。どちらの判断が賢明だろうか。どちらが本当に安心が得られるのだろうか。
 前者(楽観論)には、「母親が神経質だから、子どもにストレスが溜まっているのだ」といった言説も。長崎大学の山下教授(長崎の被爆二世で、世界保健機関WHOの放射線プログラム専門科学官を務めていて、福島県知事から放射線リスク管理アドバイザーに任命され、「妊婦や乳児でも年間100mSv以下であれば大丈夫。時間当たり10μSv以下であれば外で遊ばせても大丈夫」と安全宣言)は「100mSv以下では発癌リスクは証明できないのだから、不安を持って将来を悲観するよりも、今安心して安全だと思って活動しなさいと言い続けた」という。
 これに対して福島の親たちの間では「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」が結成され、それに呼応して全国小児科医ネットワークも結成されて、その活動をバックアップしている(世界8月号掲載の白石草氏のルポ「『安全キャンペーン』に抗する福島の親たち」)。彼らは福島県知事に対して「山下氏をすべての県の役職から解任することを求める県民署名」を継続中。それには「山下氏の言葉を信じた県民が今どのような気持か・・・・・。己が信じた愚かさから我が子を被曝させ、後悔と罪悪感に苦しむ親たちの気持を感じて下さい。そして将来を想像し、言い知れぬ恐怖に耐え続けている県民の気持を理解してください。」「山下氏を新たに『県民健康管理調査』検討委員としたことは到底受け入れられるものではありません。被曝させられた私たちの健康影響を調査する者に最もふさわしくない人選です」とある。
 (一般公衆の年間被曝限度は1mSv。文科省は学校での安全基準を1~20mSvとして、20mSvが許容範囲であるかのような決め方をしたが、抗議にあって、「当面1mSvを目指す」と軌道修正)

 神経質にならずに、平気でいなさいと幾ら言われても、またどんなに鈍感力を鍛えたところで、次々想定外のことが出てきて不安の種は尽きることがない。その不安を無くするにはどうすればよいか。それには、まず最悪の事態(原発事故と被曝の最悪の事態)を想定してかかって、そのような事態に立ち至ることのないようにする方法を考えることだが、その方法としては、技術上・管理上どんなに安全対策を講じたところで限界があるし、原発そのものをやめてしまう(停止・廃炉・撤去)以外にないだろう。
 「原発さえなければ・・・・」なのだから。
 
 (停電になったら困ると言うが、電力供給不足は省エネと再生可能エネルギーでカバーすればいいのであって、原子力エネルギー技術などより、これら自然エネルギー技術の開発・向上・普及と発・送配電分離など制度の改編を早急にやればいいのだ。
 財界は、原発を再生エネルギーなどに切り替え、固定価格買取り制度などをやったら、電力料金が上がって、企業は海外に逃げていき、産業の空洞化を招くなどと言い張る。しかし、そんなことより、現に起こっている原発事故と放射能禍で、企業どころか、人がそこに住めなくなって県外各地に避難し、海外から日本に来る人が減っているし、日本からの産物輸入も敬遠されているではないか。原発のリスクやデメリットのほうがはるかに深刻なのである。)
 
 原発事故・放射能の危険性は、年輩者が自分のことしか考えないで生きていく分には「どうせ、よくわからないのであれば、気にしたってしょうがない」とも言えるのかもしれないが、そうでないかぎりは「わからないからこそ、気になって(不安で)しようがない」というものだろう。
 台風や地震・津波などの場合は、無くすに無くせない、いつか必ずやって来る、回避できないものなので、備え(防災対策)が必要。しかし、原発のばあいは、事故への備えは(多重防護など)容易ではない(「備えあっても憂いあり」というものだ。原子炉そのものは膨大な量の放射性物質を内部にかかえいるが、どんな事態が起こってもそれを内部に閉じ込めておく完全な技術は存在しない。それに放射性廃棄物や使用済み核燃料の処理方法も確立していない。ひとたび大量の放射性物質が外部に放出されれば、もはやそれを抑える手段が存在せず、被害は空間的にどこまでも広がり、時間的にも将来にわたって危険がおよぶ)。しかし原発そのものは無くすこと(廃炉・撤去)ができ、無くしさえすれば、備えの必要はないし、それこそ何も気にしなくてよくなり、安心していられることになる。

 なお、原発事故というものは、可能性(確率)は、たとえどんなに低くても、それがちょっとでもあったら最悪の事態(計り知れない惨害)に立ち至るもの。だから、確率はどんなに低くても、念のために、もしかして起きるかもしれないと考えて手を打っておかなければならないものなのだ。
 今回のフクシマ原発事故は、事故としては、あれでも「中規模」で、まだ「最悪」ではない。そういう意味では、あれで済んでよかった。もし、格納容器が爆発すれば、いっきに1号機から4号機まで次々といって全滅、チェルノブイリ級では済まないことになっていただろう、という(後藤政志氏・7月24日朝日ニュースター「パックイン・ジャーナル」)。
 「もしメルトダウンした時に圧力容器の底に水があれば、溶けた核燃料が水に触れて急激に蒸発し、『水蒸気爆発』―圧力容器が飛び散り、外側にある格納容器も壊れ、建屋も吹き飛んでしまう。そうなれば、今の5倍、10倍の放射性物質が放出、周辺地域の住民に大変な被害(何千~何万人という急性死者)をもたらすだけでなく、大量の放射性物質が東北各県や首都圏も汚染することになるから、破滅的な状況に陥る。これまで水蒸気爆発がおこらなかったのも、たまたま炉心の落ちたところがよかったからで、注水が続く中で小康を保っている状態。しかし、これから先のことは分からない。いかなる原発事故も、『絶対に起きない』と断言することはできない」とも(小出裕章・著書「原発はいらない」)。

 とにかく、原発は、わからなかったら最悪のリスクを想定してやめてしまうにしくはないのだ

2011年07月31日

原発と核抑止力―安全神話

 敗戦前には、「日本軍は負けない」という不敗神話があった。しかし、我が国民はアジア・太平洋戦争で史上最悪の悲惨な事態(死者―日本人300万人、アジア全体で2,000万人。広島・長崎両市民は史上初の核兵器被爆)を経験し、そのうえにたって、戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認を定めた憲法を受け入れた。
 そして今や、東日本大震災(地震・津波・原発事故が重なった複合災害)という戦後最悪の悲惨な事態を経験しつつある。

142の国、39の国際機関から支援
アメリカから―義援金49億円以上(日本側からの在日米軍への「思いやり予算」は毎年1,881億円)、救助隊144人、軍人8,000人、三陸沖に原子力空母ロナルド・レーガン等が展開、自衛隊と共同作戦(「トモダチ作戦」)、かつてない規模の展開は自衛隊・米軍の統合運用と民間空港・港湾の米軍使用に踏み込んだ。「オペレーションの性質は違うが、民間施設利用や上陸など実態的には朝鮮半島有事を想定した訓練ともなった」(外務省幹部)という。  
ロシアから―救助隊155人、日本への天然ガス供給を増やす。
「モスコフスキー・コムソモーレッツ」という新聞に「被災した日本人は気の毒だ、北方四島は日本に与えたらいいという意見が述べられたということが報道された」という(世界6月号・和田春樹東大名誉教授)。
フランスから―救助隊134人、原発事故対策用機材と技術の提供。
中国から―各国の国際救助隊の中で、中国の救助隊(15人)が最も早く(3月13日)日本に到着、撤退したのも一番最後(3月21日)だった。中国政府の援助物資は約3億8千円相当。燃料油2万トン。地方政府や民間機関からも―中国赤十字から約3億3千万円、四川省赤十字からは(3月20日時点で)約247万円。福島第一原発に大ポンプ車を提供、技師派遣。(08年四川大地震では日本から5億円、国際緊急援助隊-ハイパーレスキューなど救助チームと医療チーム-を派遣。)
 しかし、日本側は真っ先に受け入れるべき国として、米国を「ランク1」としたのに対して、中国は「ランク4」と優先度が低く、受け入れに躊躇。そのため救助隊はわずか15名にとどまった(朝日新聞4月3日付けGLOBE面)。
北朝鮮から―北朝鮮赤十字が(朝鮮総連を通じて)義援金10万ドル(日本円810万円)、在日朝鮮人に対しては見舞金として約4,000万円が送られたという(世界6月号・和田教授)。これらに対して日本政府からの礼は一言もなし。(日本政府は制裁中―貿易はすべて禁止、船舶の往来もすべて禁止)

そこで次のことを考えた。
自然災害―止められない―備え(防災対策)が必要(「備えあれば憂いなし」だが、油断は禁物)
   コンクリート構造物(ダム・堤防・防波堤・防潮堤など)―それでも防ぎきれない
   災害救助組織、避難計画、高台への施設・集落移転などの対策。
原発災害撤去しないかぎり止められない―備えても事故は防ぎきれない(「備えあれば、かえって憂いが増す」―世界8月号・高史明―「備えあれば憂いなし」には、近代合理主義における科学技術の過信があると)
     撤去すれば止められる―撤去すれば備えも不要
戦争・戦災―互いに軍備(「抑止力」「防衛力」―自衛隊・日米同盟)持てば戦争(攻撃)は止められる?一触即発・偶発戦争など「備えあれば、かえって憂いが増す」のでは?
 「脅威」―北朝鮮の「脅威」―北朝鮮自身は、プルトニウム型(長崎型原爆と同じ)の核兵器開発は「自衛のため」で、「ウラン濃縮(広島型原爆に通じる)は発電目的の平和利用だ」と。
       中国の「脅威」
       国際テロ組織の「脅威」
    それらの脅威に備えなければならない、と言って軍備。相手側からみれば、日米の軍備が脅威。
  しかし、 軍備があることによって、互いにそれに拠りかかって非友好的・非協力的・敵対関係をとり、外交努力を尽くさず、軍事的手段に頼りがちになる。そして軍事衝突から激突-最悪の事態―戦争になる。 
 「核抑止」―かつて米ソの間で「核均衡抑止」―キューバ危機など一触即発・核戦争の危険あった。誤発射による偶発戦争の危険も。自暴自棄になって反抗する北朝鮮やテロリストに対しては核抑止は効かない。核戦争は核兵器を無くす(廃絶する)ことによってしか、防止できない。
 横須賀や佐世保を母港にしている米軍原子力空母・原潜には大津波の危険
 原発―「原子力の平和利用」というが、その原子炉(軽水炉)は、もともと原潜用に開発されたもの。かつて政府の原子力委員会初代委員長の正力松太郎らには「毒をもって毒を制す」(原子力の「平和利用」で反核運動を制する)という狙いがあり、中曽根首相らには「核武装の潜在能力を残しておく」という狙いもあった―プルトニウム(使用済み核燃料の再処理で得られ、核爆弾に転用できる)の大量保有は米・ロ・英・仏に次ぐ(約31トン―核兵器1個あたり4キロと想定すれば7,750個分に相当)
 アメリカは、日本の原発用に濃縮ウラン(現在約73%)を売りつけ、原子炉(ゼネラル・エレクトリック社製など)も売りつけ(そのもの、或は設計を)。但し、アメリカは、日本が日米安保を破棄して核武装などにはしれば濃縮ウランの供給や日本に例外的に認めている使用済み核燃料再処理の権利は停止することにしている(日米原子力協定)。

 軍備など持たなければ(「戦争放棄」「戦力不保持」していれば)戦争は止められる(軍備を持たない―敵にならない―戦争にはならない道理)。  
        (非軍備・非戦―友好協力関係を結び、トラブルは外交交渉で解決)  
 自衛隊―「主たる任務は国の防衛」(自衛隊法の規定)
   「災害派遣は従たる任務」―「主たる任務の遂行に支障が生じない限度」―制約
   軍の本質的属性は「国家」を守ることにあり、個々の国民を守ることではない。
が、自衛隊は憲法9条により「軍隊ではない」という建て前になっているので、結果的に「国民を守る」という側面を前に押し出している。
 この自衛隊が脱軍事化して「災害救助隊」に転換すれば、近隣諸国をはじめ、諸外国で震災等が発生した際、非軍事の災害救援組織が本格的な活動を展開、そうすればその国には、日本を攻めようという理由が無くなっていくというもの。(世界7月号・水島朝穂) 
 
 「原発は安全」「アメリカの核抑止力があれば安全、日米安保があれば安全」という安全神話が日本人の頭に刷り込まれてきた。しかし、今や原発の安全神話は崩れた。それではアメリカの核抑止力・日米安保という「安全神話」はどうなのか。
 
 原発といい、核抑止力といい、こんなものは無いのが一番安全なのでは
   
大災害・被災で表れる人間・社会の本質的な在りよう
 ①宮城県亘理町の自宅で被災した哲学者の岩田靖夫・東北大名誉教授は次のように書いている。
 「科学技術は、人間が自然の法則と力を理解し、それを人間の生活の向上に利用し役立てるとき、すなわち人間愛と結びついている限り、大きく人間の幸せに寄与する。・・・しかし、それは人間が科学技術をコントロールできている限りにおいてである。もしも、人間がそれをコントロールできなければ、どんな恐ろしい事態が起こるかわからない。」
 「自然の底知れぬ力への畏れを失ってはならない。人間が科学技術の力を過信して、自然を制御し、支配し、思うがままに利用しようとするならば、自然は、思わぬときに、思わぬ仕方で、人間の企てを木っ端微塵に打ち砕くかもしれない。」
 「人間はもっと簡素に、ほどほどに生きるということを、今後、真剣に追求しなければならない。・・・物資とエネルギーは自然からの贈与であることを忘れてはならない。飽くなき快適さ、便利さの追求は、この自然からの贈与を浪費することである。浪費は自然破壊を惹起し、自然破壊はやがては人間自身の滅亡を誘発しうるであろう。・・・経済活動とは、本来、人間が生きるために必要とする衣食住のための物資の確保であった。しかし、富の蓄積がこの本来の目的を超えて自己目的化したとき、際限のない富の蓄積が始まる。それがさらなる欲望の爆発を引き起こし、不自然な経済社会が出現する。・・・経済は、その本来の目的を想起すべきではないか。誰のため、何のための経済なのか。経済は、人間がよく生きることに仕えるべきものではないか。」   
 「人間は何を喜びにして生きるのか。それは、他者との交わりである。他者を愛すること、他者から愛されること、他者を助けること、他者から助けられること、それが人間の喜びである。」
 「津波の惨状に際会して、肉親を失った人々の悲しみと絶望・・・。生きていることの絶対的な意味、富や名誉などは言うもおろか、なにか素晴らしい仕事を成し遂げたということさえ吹き飛んで、ただ生きているということの絶対的な素晴らしさ・・・。」
 「大災害に出遭い、家も富も一切を奪われて、人間は本来なにももたない裸の存在であったことを突きつけられる。そのとき、人は人に自己をありのままに露出して、無力な自己を露出して、助け合う。誰も、他者を支配しようとしたり、利用したり、ましてや暴力を振るおうなどとはしない。極限の無一物、裸一貫が人間のありのままの姿を見せ、そこで、人と人は信頼と愛によって助け合う。」
 「すべてを失った人びとが身を寄せ合って助け合っている姿、外国からさえ人びとが助に来る姿―北方四島の帰属問題で関係が冷えていたロシア、尖閣諸島の同じ問題で険悪な関係に陥っていた中国、これら隣国が救援隊を送ってくれたニュースを重く受け止めなければならない―ここに人間の生の根源の姿がある。」
 「大災害の苦しみのなかで、人間の本来の存在の意味が問われているのではないか。・・・人と人は愛と信頼によって生きているのである。このことが、実は、富や地位や名声や快楽によって遮断され、見えなくさせられているのである。」
 「今回の大災害に際して、世界各国から多くの支援の手が差し伸べられた。これは、他者の苦しみに走り寄る、人間の本性的な惻隠の情の現れであろうが、それ以上に、人類の連帯の絆の成立のきっかけと思いたい。」
 「現在、経済、学問、政治、宗教などのすべてにわたり、地球は一つの世界として結合し、交流しつつある。それを、苦しみの撲滅、すなわち、争い、暴力、貧困、戦争の撲滅に向かって、いまこそ人類の連帯へと絆を深めていく必要がある。この大災害に際して、世界中から寄せられた同情の経験を、私たちは、これからの地球のために生かさなければならない。」「国際間の争いを暴力による威嚇によってではなく、理性的な話し合いによって解決する、そのような国際社会のあり方を具体的に構想していく―そうした構想へと向かうとき、今回の禍の経験が希望の土台となりうるのではないか。」
 「この大災害は、人間の生き方を根本から考え直す機会を人類に与えた。」
 「今回の禍が明らかにしていることは、人間が、このまま、何の反省もなしに、欲望の拡大と利己主義を続ければ、もはや地獄しかないだろう、ということである。」(世界5月号)
 
 ②7月29日付け朝日新聞「記者有論」に氏岡真弓編集委員は「被災地の子ども」について次のように書いている。
 被災後、生徒が学習に向かいだしたという―朝の読書でむさぼるように本を読むようになった。午後の授業になると机に突っ伏す『ヒラメ』の生徒が多かったというが、ほとんどいなくなった。「ノートを広げ、シャープペンを握るのがただ、うれしい」と語る子も。
 学級の空気が穏やかになり、いじめ行為が途絶えた。続いていた靴隠しが止まった。「バイキン」などと書いた紙切れを入れるいじめが消えた。
 「皆と仲良くしたい」「震災で一緒にいたくなった」「不安があるから仲良くしたい」と。
 人の役に立つ仕事をしたい子が増えた。「人のためになるようなおいしゃさんになりたい」「人を喜ばせる職業につきたい」と。
 命や友達、学ぶ喜びのかけがえのなさを、子どもたちは改めてかみしめたのだろう。
 (「阪神大震災でも見られた」。だが、その輝きは学校が「正常化」するにつれて失われていったという。「生徒同士競い合わせる学校が復活し、助け合いたい、誰かの役に立ちたいという思いを生かし切れなかった」のだ。)

 これらのような人間・社会の在りようから考えれば、いったいどっちがいいのか。人と人が愛と信頼によって助け合う、そういう「人間愛」の社会を信じて、それに依拠するか、それとも原発・核抑止力の安全神話の方を信じるか、それが今、我々に問われ、一人一人に判断を迫られているのだ、ということだろう。

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