« 2017年12月 | メイン | 2018年02月 »

2018年01月 アーカイブ

2018年01月01日

今年は憲法対決正念場―年頭にあたって

 自民党は今年中かさもなければ来年参院選前までには改憲発議・国民投票にこぎ付けようとしており、それを阻止できるか、改憲問題は正念場を迎える。
 NHK世論調査(12月8~10日)では、改憲に賛成が36%、反対が20%、「どちらとも言えない」が35%。
 共同通信の世論調査(12月2・3日)では、「安倍政権の下での改憲」には賛成が36%、反対が48.6%、「分からない・無回答」が15.4%。
 朝日新聞社と東大研究室の共同調査(衆院選後~12月5日)では「9条に自衛隊明記」に、有権者は賛成が二人に一人(賛成が49%、反対26%、「どちらとも言えない」が34%)で、当選議員は賛成寄りが51%(3分の2弱)、反対が29%。
 改憲発議は阻止は、できないこともないが、容易ではない、ということだろう。
 思うに、今は「保守対革新」ではなく「国家主義対リベラル」であり、アベ自民党その他「日本会議」系の国家主義的勢力(壊憲的改憲派勢力)に対して良識派保守も含めた全てのリベラル勢力(護憲的活憲勢力)が結集して対決し、攻勢的運動を展開しなければならない。
 尚、政党支持率では「一強多弱」状態が常態化して、自民党支持が圧倒的で、中でも若年層で18~20代は二人に一人、30代は42%と、若い年代ほど多い(NHKの衆院選投票所の出口調査)。なぜこうなのだろうか。(先に「選挙結果」を書いた、そこでも触れたが。)
 今は人口の大部分が「戦争を知らない」世代だが、とりわけ若者は社会的な知識も経験も浅く、近年は反知性主義の傾向もあり、冷静な理性よりも熱い感情に駆られて真っ直ぐ突っ走る傾向があり、リベラル(寛容)性にも乏しい。(かつて戦時中の子供の多くは「軍国少年」だったし、若者は進んで徴兵に応じ、戦地に赴いた者が多かった)。若者は好戦的か、厭戦的か、一概に言うことはできまいが、どちらかといえば好戦的なのでは(?)
 そこに長い間政権を担当してその権力下に築き上げてきた自民党にとって自らに有利な学校教育(受験や部活偏重の非政治教育)とメディア(興味本位か或は支配的勢力本位の表層的な情報の垂れ流し)の利用がある。自らを引き立て、政敵を貶める印象操作もある(安倍首相は最近よく自分の方がその被害者であるかのように言い立てるが、それはまったく逆なのであって、野党のなかには戦前の結党以来ずうっと「非国民」などの印象操作をうけてきた党もあるのだ)。それに党独自にネット戦略を駆使した若い人への情報発信も盛んに行っている。さらに、今は一見、景気も就職状況もよくなって一応仕事にもカネにもありつけて、その国力を維持できる強固な安定政権であったほうがよく、一時民主党に政権交代したあの時の二の舞は御免だと言う思い込みがあるのだろう。様々な問題(違憲行為や不公正・疑惑)はあっても「政権担当能力」だけは自民党が他党に比べて圧倒的で、前掲の朝日・東大の共同調査では共産党に投票した人でも52%が自民を挙げている。

 自民党は、学校での主権者教育・政治教育が不徹底なことによって若年層には正しい政治判断や投票行動など当てにしておらず、むしろ長い間の政権党としての強みで、メディアでも現場でも人々の目にとまって「一番頼りになる政党なんだ」というイメージが焼き付き、フィーリング(なんとなく受ける感じ)に訴えて「若年票」を掠め取ることができる。自民党にとっては、若年層に限らず国民には政治に無知・無関心でいてもらった方が都合がいいのだ。しかし、リベラル側は「若年票」を、そんなふうに自民党から掠め取られてしまっていいわけない。それに、若年層は、票田としてだけでなく、政治や社会運動の「戦力」としても、その行動力・発想力・感性それに(大人の狡さに対しての)正直さなど中高年層にはない特性を持ち、運動組織にはそれが必要とされる。リベラル側は彼ら若年層を票田としても運動の「戦力」としても啓発・教化に努め、或は感性に訴えて自民党から我が手に引き寄せなければなるまい。「感性に訴える」といえば、「日本国憲法の朗詠歌」を歌ってYouTubeに載せているが、改憲側は中曽根元首相の「憲法改正の歌」など幾つか載せている。中には、若い人が「戦争を知らないこどもたち」の替え歌で、「憲法改正いますぐしよ~よ、憲法改正いま~すぐ~に」と歌っているのがある。このような憲法の歌の「歌合戦」なんかでも負けてはいられまい。
 
 ところで、今年は明治維新150年ということで、明治を振り返る向きが多くなるが、米沢には宇加地新八という上杉藩士で、戊辰戦争の敗軍に参加して後、慶応義塾に学び、日本最初ともいわれる憲法草案を建白した人物がいるので、そのことには関心があって然るべきだろう。

2018年01月10日

若者論(再加筆版)

(1)「ファシズムが若者を好む」って?―これは浜矩子同志社大教授の指摘(12月16日毎日新聞掲載の同教授のコラム「危機の真相『世論調査にみる世代間分断、ファシズム、若者を好む』」)。教授は2015年10月の朝日新聞の世論調査にあった「一億総活躍社会」という(安倍首相が打ち出した)構想に期待するか否かで、20~29歳層だけが、「期待する」が(51%で)「期待しない」(29%)を上回り、安倍内閣支持も(62%で)際立って高い(他の年齢層はいずれも4割を下回っているのに)という。それを教授は、「一億総活躍」というと、戦争時代を知る世代は「総動員」とか「総員奮励努力せよ」というイメージと重なるが、若い世代はそんなことは頓着せず(警戒感は持たず)に、とにかく仕事や活躍の場にありつければそれにこしたことはないという、むしろ切実な思い(不安)からなのだろう、と指摘している。また17年4月朝日の世論調査の「教育勅語の教材利用を認める閣議決定は妥当か否か」を問う設問では、18~29歳層だけが「妥当」が(44%で)「妥当でない」(26%)を上回っている(他の年齢層はいずれも「妥当でない」が「妥当」を上回っているのに)。
 安倍政権のその政策には、純真な若者の不安につけこみ期待を引き付けるという、若年層のうけを狙った戦略があるのだろうと考えられ、そういったことからこの言葉(「ファシズムが・・・・」)が使われているのだろう。
(2)昔の若者
 幕末・明治維新に活躍して名を成した主要な人物はほとんどが若者
 (明治元年1868年の時点で)西郷隆盛42歳、大久保利通39歳、木戸孝允36歳、福沢諭吉34歳、井上馨34歳、坂本竜馬はその前年31歳で暗殺、榎本武揚33歳、板垣退助32歳、山県有朋31歳、大隈重信31歳、高杉晋作はその前年28歳で病死、伊藤博文28歳、吉田松陰はその9年前29歳で刑死。
 彼らは尊皇攘夷を奉じ、欧米列強に対峙し、「文明開化」による「富国強兵政策を推進したが、そこには「独立自尊」とともにアジア侵略の野望をともなった。吉田松陰は「蝦夷地を開墾し、カムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球を参勤させ、朝鮮に貢納させ、満州の地を割き、台湾・ルソンの諸島を収める」と書き(朝日1月12日の『天声人語』)、「朝鮮民族は・・・・われわれが植民地として、そのあとわれわれの力で、近代化してやらなければならない」と主張していた。勝海舟・西郷隆盛・板垣退助たちも征韓論など同じことを口にしていた(西村京太郎著『十五歳の戦争』集英社新書)。その後。彼らの後継者たちは、その路線を辿りアジア侵略を推進したわけである。
 明治・大正・昭和初期(日清・日露戦争から第1次大戦・日中戦争・太平洋戦争に至るまでの対外戦争時代)には、若者は軍人に憧れ、兵隊に駆り立てられる。
 戦後は労働運動・学生運動→1960年前後安保闘争・ベトナム反戦・反核運動、70年安保闘争をピークに以後退潮―ノンポリ化(政治離れ)
 「戦争を知らない」世代―「平和ボケ」(現実逃避、戦争とか平和とかの問題には無関心)、或は「モラトリアム世代」(精神分析学者・小此木啓吾によれば『モラトリアム人間の時代』)と呼ばれるようなる―高度経済成長時代に育ち、高校進学率が上がり、学歴重視から大学進学率も高まって受験競争が過熱、若者の関心はガリ勉か部活か、バイトして遊ぶ小遣い稼ぎかに向かい、政治や社会に対する関心は薄れ、大人として社会的責任を負うのを回避・「猶予」されたい意識をもつようになる(現在の自分は「仮のもの」で本当の自分―アイデンティティ―は将来に留保、ということにもなる)、或はそれを容認する風潮(にもかかわらず選挙年齢引き下げの矛盾)。
 そうして現在に至っている。
(3)若者の特性
 体力 向上してピークに達し、中高年者の衰えゆく体力と馬力に勝る。
 脳力 総合的な情報処理能力と記憶力では18才がピーク
    但し、名前を記憶する能力は22歳がピーク
       顔認識能力は32歳
       集中力は43歳
       感情(を読み取る)認知能力は48歳
       基本的な計算能力は50歳
       新しい情報を学び理解する能力は50歳前後
       語彙能力(ボキャブラリー豊か)は67歳がピーク
    未成熟(30歳で完成)―判断・衝動・展望的記憶(こうなった場合、どうすればよいのかの判断)を司る前頭葉が未発達、好き嫌いなど情動反応や感情記憶を司る扁桃体が過敏(→感情爆発)
       神経細胞と神経細胞を繋ぐ継ぎ目(シナプス)が最も増え(枝分かれ)情報伝達の回路が増えて脳の働きがよくなる(「頭の回転」「のみこみ」が早く、記憶力が高まる)。10代の脳はシナプスの数が多いので、その反応が活発過ぎて誘惑・衝動・感情爆発・依存(熱中)に陥りやすい。
    但し、脳力は歳をとっても「脳を使い続ければ」機能は維持できる―使わなければ、その部分の神経細胞とシナプスは消えてなくなっていく(忘れ、認知症にも)
  感性―感受性・感情が豊か(多情多感)、熱い情念(悲・喜・愛・憎・欲など)、情熱
   好き嫌い、美醜・正邪・善悪・敵味方などに過敏―非寛容
   大志(理想を求め社会貢献を目指す理想主義)・野心・恐れを知らない冒険心(大胆・むこうみず)、未知への探究心
   ロマン(夢・冒険)への憧れ―ファンタジー(空想)を思い描く
   英雄(アレキサンダー大王・ナポレオン・西郷隆盛など)への憧れ―強いリーダーを求める
   闘いを好む→かつての「軍国少年」         
   失敗を恐れない(許される)行動力→馬鹿げた行動、危険な行動に走りがち
 知性―知識・経験が浅く、テレビ・新聞よりもスマホ・ネットが情報源でフェイク・ニュース(虚偽情報)に引っかかりやすいが、新鮮な発想―創造力が旺盛で、固定観念(左右イデオロギーなど)に囚われない
     近視眼的―視野が狭い―目先の利益(就職など)に囚われる(現実主義)、社会的(背景)想像力に欠ける
     不確かな自分に不安―アイデンティティー(自己同一性・独自性、自分が自分であることの根拠)を民族・国家(ナショナル・アイデンティティー)に求めがち―愛国心(郷土や国を愛するのは当たり前のことと)、首相の靖国参拝も(亡くなった方やご先祖様を拝むのは当たり前のことと単純に考える―歴史的社会的意味を考えずに)―プチ・ナショナリズム(極右思想・国家主義イデオロギーとは無関係にオリンピックやワールドカップなどで「日の丸」を振って「ニッポン、ニッポン」と叫んでフィーバーするか、或は「嫌中」・「嫌朝」・「嫌韓」など唯その国が嫌いなだけの「屈託のない」排外主義・愛国心)。マイルド・ヤンキー(親と一緒にくらし、地元から出たくない若者で、同年代の友人や家族との「絆」・仲間意識を持って祭りともなればフィーバー・ハッスル)
     学校で戦前戦中の日本社会の実相(軍国主義や戦争に異を唱えたり、同調しない者は「非国民」として白眼視され、迫害されたりもした実態)をよく教えられず、その辺りのことを勉強せずに卒業した分には「郷土や国を愛するのは当たり前」という単純な心情から右派(国家主義的)政権支持に傾きがち(右寄り傾向―NHKの衆院選投票所の出口調査では自民党支持が18~20代は二人に一人、30代は42%と、若い年代ほど多い。朝日新聞社の出口調査では「選挙後も安倍政権が続くのがよい」が10代は58%、20代61%、30代54%。自衛隊を明記する憲法9条改正も10代と30代は52%、20代は56%が賛成と答え、反対を上回っている)。しかし、政治的には多くが無関心(投票率は、有権者全体では53.68%なのに対して、18歳・19歳両年代平均41.51%で全体より12.1ポイント低い)。
   反知性主義とは本来は知識・知的才覚・学歴を振りかざして人々の上に立とうとするエリートを批判する立場のことだが、悪い意味では知性を軽視してデータや根拠や論理性を無視して感情や感覚で判断して決めつける傾向のこと。そこには(若者とは限らないが)彼らの無関心・無知を「それでいいんだ」と合理化・擁護して、(「よらしむべし、知らしむべからず」と)そのように仕向ける政治権力者の思惑もある。ポピュリズムも、本来はエリートを大衆と対立する集団として位置づけ、エリート主義に対して大衆の権利・要求を重んじる民主主義の立場なのだが、悪い意味に転化して「大衆迎合主義」(大衆の機嫌取り)とか「大衆扇動」(大衆を煽って敵愾心をかきたてる)政治手法の意味ともなっている。反知性主義もポピュリズムも、いずれも悪い意味で結びついており、そのようなポピュリスト政治家(トランプ大統領・安倍首相らにその傾向が見られる)の手法に若者(とは限らないが)乗ぜられがちであるので、そこは気を付けなければなるまい。

 可能性・柔軟性など豊か―多様な選択肢

(4)このような子供や若者に今必要なのは、どのようなことだろうか。
それは教育だが、国家主義教育(ナショナル・アイデンティティー―日本国への帰属意識―を育てる)や競争選別教育(国家や企業に有用な人材を選別して育てる教育)ではなく、自立的人間教育(リベラルの立場でのアイデンティティー―各人の自分らしさ・個性―を培い、一人ひとり自由で平等な権利を持った人間として育てる教育)だろう。
 注①学校教育とは一人ひとり知性・感性・徳性・体位を養い育て人格の完成をめざして行われるべきものだが、我が国では(中学校や高校などでは)これまで講義形式の詰め込み教育で英数国社理の狭い受験知識に偏重した教育が行われてきている。それに社会科・歴史でも現代史や民主政治の学習(政治教育・主権者教育・憲法学習)が不十分で、選挙権が18才まで引き下げられはしたものの、投票に必要な候補者の人物(信頼性)・政策、各政党の歴史・政策はどのようなものかを知ったうえでどの候補者・政党を選べばよいのかを判断できるだけの知識が不十分なうえ判断材料も不十分で、あたかも「由らしむべし、知らしむべからず」で、投票のやり方だけ教えて投票させているかのよう。
 講義式授業・詰め込み教育・受験教育は、最近ようやく見直され(「教育改革」に踏み切って)2020年からアクティブ・ラーニング(生徒の主体的参加・協力―双方向・対話、深く考えながら課題解決する力を養う方法)が導入されることになっている。大学入試もセンター試験は(2020年1月を最後に廃止して新しい「大学入学共通テスト」(国・数などには記述問題)に切り換えられることになっている。
 注②アイデンティティーをもつということは、要するに「今ここにいる自分が、はたして本当の自分なのか」といえば、「間違いなくそうだ」と自覚でき、そのことを根拠をもって自他に確認できること。それには2点があり、一つは「社会的アイデンティティ」で、集団・組織(国家・地域社会・職場・家族など)に帰属して役割をもつということ、もう一つは「実存的アイデンティティ」で、他と区別され唯一無二ともいうべき独自の個性(自分らしさ)をもつということ。
 当方に関していえば、今は前者(社会的アイデンティティ)の点では、日本国に帰属して国民として納税し、選挙ともなれば投票。時々このブログにささやかな意見を発信したり(人様の目にはほとんど届いていないが)、新聞投稿したり(たまに載ることもあるが)、市民運動に参加したりなど。後者(実存的アイデンティティ)の点では、おそらく世界で誰も歌っていない日本国憲法の朗詠歌(オリジナル)を毎日ウオーキングしながら歌い、YouTubeに投稿もしているといった辺りは、多くの人から見れば「変わり者」としか思われまいが、当方にしてみれば、そこにアイデンティティ(唯一無二の存在)を感じているのかもしれない(自己満足ではあっても、「俺は俺だ」ということだ)。
 このアイデンティティは単に国に帰属して戸籍上名前が記載されているから認識されるだけでなく、世界の最先端をゆく平和人権憲法を持っていて、戦争をしない平和国民だとの自覚があり、海外でも外国人からそのように認められるからこそのもの、つまり日本国憲法とともにあってのアイデンティティなのではないだろうか。
 若者は、この憲法をどれだけ学んで身に付けているか(表面的に頭の中でだけでなく、心―根本精神―まで)、そしてそこにアイデンティティを自覚できるかが問われるのでは、と思うのだが。

(5)ところで、朝日新聞政治部・園田耕司記者によれば、このところ安倍首相の官邸の中枢では、現在の日本人の政治的傾向について「右派3割、中道派5割、左派(リベラル系)2割」と見ている(有権者に対する政治戦略を立てる上での分析)とのこと。そこで右派3割を自らの基礎票とし、(有権者の関心の高い社会保障・経済政策を打ち出して)中道派右寄り層を引き寄せ、過半数を得ることに政治目標を置いているという(17年12月13日付け朝日「記者有論」欄)。そのことから「野党は、自民党を凌駕するような社会保障・経済政策を打ち出し、中道派の関心を引き寄せねばならない。」「野党は『リベラル勢力』を一つに固める必要がある。」「次の国政選挙でも野党間の選挙協力は必須と言える。野党勢力が中道派左寄り層の支持獲得に照準を合わせることで初めて、中道派右寄り層を頼る安倍自民党と過半数を競り合う勝負が見えてくる。」「野党は国会論戦で『一強』に結束して対抗しながら、次の国政選挙に向けて多数派形成のための政治戦略をしたたかに磨いていくべきだろう」と指摘している。
 若者は、このうちの中道派(或は無党派)に位置づけられると思われるが、彼ら若者の多くは安倍自民党に引き寄せられているのだろう。リベラル野党はその若者を、どれだけ引き寄せ返せるか、そこにも勝負がかかっているのでは。
  自民党は、黙っていても(或いは政治や現代史など勉強させなくても、否むしろ勉強してもらわない方が)寄ってくる若者は少なくないが、野党は、ただ黙っていれば若者は寄ってこず、みんな自民党の側に引き寄せられていく。野党は自民党の何倍ものアピールや説明(或は、よく勉強して解ってくれるように働きかけ)が必要とされる、ということだろう。それは容易なことではあるまいが。

2018年01月30日

自衛隊 憲法上議論の余地ないよう明記?

 1月24日の衆院代表質問で、二階堂自民党幹事長が自衛隊について「命を賭して任務を遂行しようとする公務員に、尊厳と誇りと勇気を与えなければならない」と述べたことに応えて、安倍首相は「自衛隊員たちに『憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ』というのはあまりに無責任だ。そうした議論が行われる余地をなくしていくことが、私たちの世代の責任だ」と(だから、9条に自衛隊を明記するようにするのだというわけである)。
 確かに、これまでは自衛隊の創設から任務・活動範囲の拡大・海外派遣や新装備(兵器)の導入或はそれらに伴う新規立法・法改正の度に一々議論・激論が行われてきた。そもそも現行憲法制定当時の吉田首相は「自衛権の発動としての戦争も放棄したものだ」と言明していたが、その後「侵害に対する自衛のための必要最小限の『実力』組織であって『戦力』にはあたらない」なら、として自衛隊の創設に踏み切った。それでも憲法学者の多くは自衛隊違憲説をとってきたのは事実ではある。しかし、歴代政府は一貫して戦力ならぬ自衛力であって違憲には当たらないとして自衛隊を保持し続け、国民も大多数は違和感が薄らいで(60歳以下の年齢層は生まれる前から存在)すっかり定着している自衛隊の存在自体には憲法との矛盾を感じている向きは少ない。しかし、専守防衛を逸脱する海外派遣、活動範囲の拡大、新装備の導入、集団的自衛権行使容認と安保法制改変などに際してはその都度、国会で議論、野党と市民の反対運動が行われてきた。
 そのこと自体は政府の安保政策・自衛隊運用に対するチェック・ブレーキなのであって、それによってその暴走が抑えられてきたことは否めまい。
 それが、もし「議論の余地」をなくすためにと9条に自衛隊が明記されれば、国会における議論によるチェック・ブレーキがなくなり、最高司令官たる首相や防衛大臣・自衛隊幹部らが意のままに自衛隊の運用・海外派遣・新装備の導入・武器使用(基準緩和)・同盟国など他国軍との支援協力活動等々が断行できるようになり、隊員に「もう憲法にいちいち引っかかるようなことがなくなったから大丈夫だ」とばかりに「命を張ってくれ」と容易く堂々とその命令が下せるようになるわけである。彼らがそうしても、もはや憲法上の責任は国会で問われることがなくて済むようになる、一方、命令を受けて現場で活動に携わる自衛隊員は命の危険にさらされ、犠牲になる確率は格段に高くなるわけである。自衛隊が立ち向かう相手の出方(核兵器や弾道ミサイルの使用など)によっては国民が巻き込まれ犠牲になる危険も高まることにもなる。
 こういったことを考えれば、自衛隊を憲法に明記することによって、自衛隊に関わる事案が憲法違反にならないかどうか、いちいち議論がもちあがる余地がなくなるようにすべきだなどと言って、自衛隊員と国民の命が懸っている自衛隊の運用に際して必要不可欠な議論を省くようにしてしまう、それこそが無責任なのではあるまいか。
 自衛隊員にとっては、警察官や消防士のように憲法にはその規定がなくても国民の生命と財産を守るため命を張って任務に携わっている公務員と同様、国民から感謝されてこそ職務に誇りをもつのだろう。それが、わざわざ自衛隊員に誇りを与える(傷つけない)ようにするために、という情緒論から改憲(9条に自衛隊の存在意義を明記)するというのと、9条を現行のまま(自衛隊は明記せず)に自衛隊員を(災害出動や警備活動はともかく)戦争に駆り立てることのないようにする厳格なブレーキとして維持するのとでは、どちらが賢明なのかだ。

About 2018年01月

2018年01月にブログ「米沢長南の声なき声」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2017年12月です。

次のアーカイブは2018年02月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34