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2017年12月 アーカイブ

2017年12月02日

エゴな自己満足と真の自己満足(再加筆版)

 「人間誰しも、一生の間、日々行うありとあらゆる行為は(趣味や遊びに限らず、仕事も勉強も)煎じ詰めれば自己満足のため」という人生論は、このブログのどこかに書いてきた。最近再びフランクルの言説に触れて、その考え方(「自己満足」論)を再考し、吟味し直してみた。
 フランクル―かつてナチスの強制収容所生活で極限状態を体験したユダヤ人で精神科医・心理学者(最後まで生き抜き、生還)。いわく「人生から何かあれこれ得られることを期待するのではなく、人生が自分に何をあれこれ期待しているのかを問うべきなのであって、その期待に応えるべく生きなさい」―それは「人生に何か楽しいこと、ハッピーなこと、自分の都合のよい、いいことばかりを期待して生きるのは間違い。自分にとっては、たとえ嫌なこと、辛いこと、耐えがたく惨めなことであっても、人生を精一杯生きるべく命を授けてくれた「いわば神様」から、生きている間、毎日・毎時、その都度その都度、何事かを為すべしと課され期待されている、その期待に応えて生きなさい」ということだろうか。
 フランクルは、このように、これまでの人生の見方をひっくり返したことを「天動説から地動説へ」の転回のごとき「コペルニクス的転回」だと。
「エゴな自分」―地球中心の天動説のような自分中心の考え方―自分の欲求・欲望が先行。
一人合点して、欲求・欲望に従って自分がやりたいからやるし、やりたくなかったらやらない。食べたいから食べ、食べたくなければ食べず、生きたいから生き、生きたくなければ死ねるもの、と勝手に思い込む。
「本来の自分」―太陽中心の地動説のような天(神のような存在)中心の考え方―天意(神様の思し召し)に従って行動し生きている、との考え方。
 ロゴス(宇宙万物を生成・支配する真理・理法で、宗教的には「神」とか「天」などと称される存在)に従って行動し生きている、との考え方。
 神様・天から生命を授かり、「汝かくあるべし」と唯一無二の個性を付与されていて、「あなたにはこう生きて、こうしてほしいものだ」と期待されている。その期待に応えて生き、期待に応えてやるべきことをやる。
 その際、自分が置かれている状況や直面している事態(何がどうなっているのか)、それにどう対応すればよいのか(どんな選択肢があるのか)を認識するのは自分の悟性であり、そこで、どうするか、やるべきことを判断(選択)するのは自分の理性であり、実行に踏み切る決断をするのは自分の意志である(―自律)。エゴな自分の欲望や感情に従うのではなく、また他人(親や目上・上司・権力者など)の判断や意志に従うのでもなく、或は神のお告げとか天の声が聴こえたとかの勝手な思い込み(妄想)や信じ込み(盲信)でもなく、あくまで、自らの科学的な知識の学びや理解に依拠した自分の理性的判断と意志に基づいて行うということだ。

 このように、「自分」というものには、その都度その都度、自分の欲求・欲望・欲動(自己保存欲動など)に動かされる「エゴな自分」と、それに対して、そもそも(造物主―「神様」とか「天」とか―によって)この世に命と生を授かり、「汝かくあるべし」と望まれ、「生きて、やるべきことをやりなさい」と期待されている「本来の自分」とがある。造物主によって生を与えられた存在だが、その自分は他の誰とも異なるオンリーワンであり、その人生はかけがえのない一回限りの人生なのである。
 「エゴな自分」の行為は自我欲求・欲望に発し、その結果満足を求め、その行為は(対人関係における行為を含めて)思い通りの結果(成功・目標達成)にありつけば、満たされた気持ち(自己満足)になるが、思い通りの結果が得られなかったり、うまくいかないと失望・落胆し、空しい気持ちになり、それが対人関係に関わる場合は自分の心が傷つき、或は相手の心を傷つけることになって惨めな思いになり、場合によってはフラストレーション、精神的ストレスが深刻化して「もはや人生から期待すべき何ものも残らない」と絶望―悔恨にさいなまれ自分を責め、自己喪失感から自己否定に陥り、死にたくなったりもする。
 このような「エゴな自分」にとらわれていると、自分の思い通りにならず、自分が望んだ通りの結果にならないと、(欲求・欲望が満たされず)空しく、自分が侵害され、否定されたかのような気持ちにもなり、惨めになり、やること為すことが無意味に思われ、絶望して、生きる意欲を失いがちとなる。
 そのような「エゴな自分」を切り替えて、造物主が「汝かくあるべし」という(ロゴスと一体の)「本来の自分」に立ち返り(自問自答して、「何を為すべきか」「いかに生きるべきか」を「本来の自分」に問う―ということは、その理、その訳をも知る―ことによって)、自分に「そうするがいい」、「そうしてくれるといいのだが」と促している、その期待に応えて、やるべきことをやって生きよということだろう。 つまり、造物主(神様とか天)から命と生を与えられ、その人生のなかで為すべきことを課され、或はやってほしいものだと期待されている、その仕事は「天職」であり、職場・施設・家庭・学校・通勤・通学途上その他生活のあらゆる分野で、やること為すこと全ては尊く意味のある行為なのである。その過程で、失敗・混迷・苦悩・悲惨など過酷な事態があるとしても、それらは全て意味のある試練となり、貴重な体験として後に生かされることになるわけである。
 自我欲求・欲望にとらわれる「エゴな自分」は結果(満足)―利益・利得―にとらわれるが、「本来の自分」は、それ(結果満足)は度外視、ひたすら「やるべきことをやる」だけのことで、為すべきことに没頭(「無心」「無我の境地」)。結果はどうあれ、それだけで満足(為すべきこと、生きること、それ自体に満足)。「エゴな自分」にとっては、その欲求・欲望は満たされることなく終わったとしても、「本来の自分」にとっては、それに取組み、そこで行った行為は全てが神様から自分に課せられ、認められた尊きものであり、「意味のある行為」となるわけである。
 「神様」が「汝かくあるべし」と望み、その期待が込められている「本来の自分」、その「自分にしか与えられていない、かけがえのない一回限りの人生」というその自覚があれば、やること為すこと全ては(「神様」の思し召しに適い、宇宙法則に適った)意味ある行為として満足が得られる(たとえエゴな自分の欲求や欲望は満たされなくとも)「神様」の愛(たとえ誰からも愛されなくても、神様からだけは愛されている、その愛)と期待に応えて、やるべきこと、やれることをやるだけのこと、或はそこに存在し生きているだけでも、それで充分満足が得られ生きがいが得られる。それこそが、単なる自己満足「エゴの自己満足」ではなく「真の自己満足」というべきものだろう。その自覚があれば、最後の一分まで、自分の人生に希望を持ち続け、ほんの一瞬のささいなことにでも感動し生きる喜びにありつくことができる、というものだろう。

 ようし、これからは、これでいこう、といっても、これまでも、エゴで自分の好きなようにやりたいことばかりやってきた、というわけではなく、やりたくなくても、やらなければならないからやってきたことも多々あった。むしろこの方が多いかもしれない。それでも、それを全て「自己満足」の行為としてひっくるめて論じてきた。それを、ここで改めて、その二面性を(「エゴな自分」と「本来の自分」に即して「エゴの自己満足」と「真の自己満足」として)整理、吟味し直して再考してみた次第。
 このブログで政治・時事問題を論評し、新聞に投稿したり、憲法を歌にして朗詠しYouTubeに投稿したり等、これら全ては自己満足にほかならないが、それは(憲法朗詠歌を歌いながらウオーキングする―趣味と健康―などの「エゴな自己満足」ばかりではなく)この私が命を授かり生かされている造物主から私(「本来の自分」)にかけられている期待(憲法を歌にして、人々の感性に訴えるがいいとの期待)に応じる「真の自己満足」(のつもり)というわけだ。

 要するに、自分(「エゴな自分」)のやりたいことばかりでなく、或はやりたいことはやらなくても、或はやりたいことは(「どうせ、そんなこと欲しても望んでも、もうダメ或は所詮無理で、諦めるしかなく」)断念して(我執―我に囚われる執着―を捨て)、自分(「本来の自分」)のやるべきこと(仕事でも勉強でも、親や子のため、世のため、人のために、或は自分の修養、心身の健康維持・回復のために、とか―やらなければならないこと)をやればいいのだ(但し、理に適ったこと、自分に出来そうなことを)、ということ。そうしてやるべきことをやれば満足できる。そのような自己満足。
 すなわち、自分の欲望や感情に従い、やりたいことをやって、思い通りの結果を得て満足するエゴな自己満足ではなく、やるべきこと(やりたくなくても、やらなければならないこと)をやり通したことで得られるのが「真の自己満足」なのだ。


1月のつぶやき・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
                                                 10728
●朝日川柳―「『核ボタン』だってうっかり押しかねず」(ミサイル誤警報―ハワイで。このニュースに当方も同じことを思っていた。今日は日本でNHKが)
 「本年も諸国漫遊お供連れ」(31社幹部ら、それに例の夫人)
 「どこの国 それがなんなの ねえムーミン」(センター試験出題)
 座布団3枚!
●かつては教育勅語の暗誦があった。ならば今は憲法の暗誦があってもおかしくないんじゃない?
君が代―元をただせば古今和歌集の短歌のひとつで、明治になって曲が付けられて国歌になった。ならば憲法に節を付けて朗詠してもおかしくないんじゃない。
●公私とも多事多難な年になるな・・・・「やれやれ」だ
●憲法朗詠歌ながらウォーキング 昨日は歌い納め、今日は吹雪を突いて歌い初め
♪ 日本国民は・・・・・・・・ ♪ 「『バカの一つ覚え』の自己満足」と笑わば笑え・ ・ ・ ・ だ。

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2017年12月15日

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2017年12月21日

リベラルとは

 liberal英単語として直訳すれば「ひとつのことにこだわらずに心の広い」というのが基本的な意味で、「寛大な」「自由な」「自由主義的な」などと意訳されている。そこから、因習・伝統・権威などにとらわれず、偏見のない進歩的な考え方を指すのでは、と思われる。
 「自由」も様々。「勝って気まま」(自由放任)、「・・・からの自由(解放)」、「国家(権力)からの自由」、「・・・への自由(法則に則した自然や社会の統御・支配)」「国家(権力)への参加」(民主主義)など。

 「自由主義」というと、それは「民主主義」とともに近代以降、宗教改革(→信仰の自由)、社会革命など社会の変革に伴って新たな説かれ方をして、時代により、闘う相手によって内容が変化し、一様ではない。
 自由主義は、時代によっては「権力からの自由放任」ということで、社会主義・共産主義とだけでなく、民主主義(人民権力の支配・統制)とも対立する考え方でもあった。
 第一次大戦とロシア革命後にはヨーロッパでは、共産主義に対抗してファシズム(国家主義・全体主義)が台頭し(ドイツでゃヒトラーの率いるナチス党の一党独裁が行われ、それ以外は共産党をはじめ全ての政党も労働組合も禁止された)、それに抗する反ファシズム統一戦線(「人民戦線」)が結成されたり、中国では日本軍の侵略に対して国民党と共産党の間で抗日統一戦線(「国共合作」)が結成され、第2次世界大戦では米英中ソなどが連合国軍を形成して、日独伊のファシズム同盟国軍に対抗した。そこでは、自由主義者はファシズムに反対して、共産主義者とも連携し、共に闘った
 国家主義とは、個人より国家優先、個人を国家に従属させる考え方だが、当時の日本では、それは「超国家主義」と称されるもっと徹底した考え方・やり方で、「滅私奉公」とか「尽忠報国」とかのみならず、「八紘一宇」(「全世界が一つの家」)と称して天皇制国家・大日本帝国がその盟主(アジアでは「大東亜共栄圏」の盟主)という日本ファースト(最優先)の考え方がおこなわれた。そして国内では治安維持法で、共産主義者のみならず、自由主義者まで弾圧・迫害され、政党は解党か禁止され、総理大臣を総裁とする大政翼賛会だけとなり、一国一党制の形で、天皇の権威を嵩に軍部独裁が行われた。
 敗戦によってそれらの体制と国家主義は排除され、リベラルな新憲法が制定され、諸政党が結成され、或は復活した。
 しかし、世界では戦争が終わると米ソが離反し、東西両陣営に分かれ、米国と西欧の西側陣営は、ソ連・東欧・中国などの社会主義陣営に対して「自由主義」陣営と称した日本は米国に従属し、西側陣営に組み込まれた。そして日本では自由党と日本民主党が合併(1955年「保守合同」、岸信介がその立役者)して自民党(英語名はLiberal Democratic Party of Japan)と称し、社会党・共産党などに対して対抗関係をなし、長らく自民党政権が続いた
 この間、安保闘争などで社会党と共産党の間では社共共闘が取り組まれ統一戦線への動きがあったが、1980年社会党・公明党の間で社公合意がおこなわれ、そこから共産党が排除されるようになった。
 そして、その後、非自民・非共産の新党ブームが起こり、その連立政権が短期間(1993~94年)出来たりした。その後、社会党が社民党と改名して自らを「リベラル派」と名乗ったり、「リベラル勢力」の結集、「民主リベラル新党」の結成を目指すとか、その言葉が「はやり」を見せたことがあった。しかし自公政権がずうっと続いて、(2009~12年)民主党政権への交代があったが、間もなく自公政権が復活してこんにちに至っている。この間、民主党にも「リベラル系」議員がおり、自民党にも「ハト派」とか「リベラル派」と称される議員がいたが、自民党は今や「安倍一強」となり「リベラル派はいなくなった」(オール・タカ派になった)といわれる。
 一昨年、安保法の強行採決直後共産党委員長が野党結集・「国民連合政府」実現を呼びかけて以来、「立憲野党」と「市民連合」の共闘が組まれるようになったが、それはリベラル勢力の結集として期待され、昨年の参院選では「野党統一候補」を立てて善戦した。そして来るべき衆院選でも、それで臨むかと思いきや、解散・総選挙が決まるや否や突如として小池新党「希望の党」が出現。それに前原・民進党が合流し、またしても非自民・非共産の野合が行われた。そしてリベラル野党は分断され、自民党の圧勝を許す結果となった。しかし公示日間際、希望の党から排除されそうな民進党の枝野らリベラル派が新党・立憲民主党を結成してリベラル野党共闘の陣営にとどまって善戦し、非自民・非リベラルの「希望の党」を上回った
 ところで、国家主義の右翼団体としては最大の「日本会議」というものがあって「日本会議国会議員懇談会」というものがあるが、その所属議員は自民党に大部分、それに希望の党や維新の会にも所属議員がいるが、最近、設立20周年記念大会が開かれて安倍自民党総裁がメッセージを寄せていた。

 このような安倍自民党には「新国家主義」ともいわれる国家主義的傾向があり、戦前・戦中のような国家主義のように極端ではないにしても、なにかと、個人(一人ひとり)の人権よりも国家・国権を先行させて考えるやり方をする向きがある。それは企業や資産家たちの利益追求の自由と公益・国益との調和の形をとり、「国益イコール私益」で、国家は私企業などの利益・利権を増進すると同時に、国民生活の安全・安心を守ってくれるもの、だから、国民は国家(政府)に「お任せ」して、ひたすらそれに支持・協力を寄せ、国策の線に沿うようにした方が有利で利益になるのだ、という考え方。そこから国民は「強い国家」・「強いリーダー」を求め、首相の内と外における対決姿勢、「毅然として勇ましい言葉」に喝采する。
 しかし、個人の利益追求の自由には競争が伴い、勝ち組・負け組に分かれて格差が生じるそこで利益・財産・地位にありつけるのは、実は強者・勝ち組といった限られた人たち(大企業の株主・経営管理者・会社員・公務員エリートなど)なのだが、弱者・負け組でもピンからキリまで細かく分断され、それぞれの中で立場のより強いものが弱い者に対して優越感(とも違うにしても、「自分は弱者・負け組なんかではない」というプライド)をもち、強者の側に立って、その方に組しがちとなる。
 このような「新国家主義」的傾向を示す安倍政権の政策や政治姿勢は、次のようなものである。
 「強い日本をとり戻す」富国強兵政策。
 現行憲法(自由人権・民主・非戦平和憲法)に反感―改憲政策―国権主義(自民党改憲草案に見られる)、非軍事から軍事による安全保障へ。
 アベノミクス―「世界で一番企業が活躍しやすい国」めざすとして「量的・質的にも2倍の金融緩和」(実体経済には全く効果なく、副作用だけが拡大)。「強い経済」「国力強化」「『成長』の果実で『分配』」(しかし、分配は大企業や富裕層に偏り、弱者を支えて生活を全体の底上げをするよりも、国家を強くすることに主眼)。
 大企業・大資産家・大株主優遇政策―法人税など企業減税の一方消費税など庶民増税―大企業・大資産家の儲けが増えれば、回り回って庶民の雇用・所得・消費も増えるという「トリクルダウン」を狙う(しかし、大企業・大資産家は儲かっても、そのカネは内部留保やため込みに回されて、庶民にはいつまでたっても回ってこないのが実態―労働者の実質賃金は減り、富裕層に富が集中―格差拡大、中間層が細る)。
 防衛(軍事)の重視・優遇―それに引き替え(相対的に)社会保障・教育の冷遇。
 電力会社のための原発維持(再稼働)のエネルギー政策。
 国家機密保護法・戦争法(安保法制)・共謀罪法など強行採決。
 立憲主義(国民の権利・人権を守るための憲法による権力の縛り)をないがしろ。
 森友・加計問題に見られる行政の私物化と忖度行政。
 強権的国会運営。
 「一億総活躍社会」「人づくり革命」「生産性革命」―スローガン政治

 いずれにしても、人権よりも国権、個人の生存権よりも国家の存立を優先、そのやり方は国家が先導するやり方で、それは「国家・国民のため」で、、「国民の安全を守るため」の法案・法制・政策なのであって、「国民は、それに協力し、従うべきなのだ」という言い方をする。しかし、実際は国家(権力)自身を守るためのものであって、個人は国家の管理・操作の対象、場合によっては国家のために犠牲にもなるということだ。

 そのような体制とそれを容認する人たちに対して、個々人の人権とその平等・共生・民権を重んじ、それらを求めてやまない人たちがいるわけである。それがリベラル層であり、国家主義・国権主義に対する市民の自由・民権主義、それこそが昨今の時代情況におけるリベラルなのでは、と考える。
 現下の政治状況では安倍首相に率いられた自民党とそれに同調する(公明・希望・維新などの)補完政党に対するリベラル勢力(立憲民主・共産・社民・自由党など)という対抗関係になるわけである。
 リベラル勢力の共通政策理念は次のようなもの。
  国権よりも民権、国威よりも個々人の人間性の尊厳と人権
  現行憲法(自由人権・民主・平和憲法)の尊重・擁護(護憲)と立憲主義
  非戦・平和主義―非軍事・安全保障―集団的自衛権行使の容認の安保法制に反対、廃止を目指す。
  秘密保護法・共謀罪法などの治安立法の廃止。
  富と所得の再分配政策―不公平税制の改善(大企業・大株主の優遇税制を改め、法人税率を適切に引き上げ、所得税の累進を強化して富裕層に応分の負担を)、社会保障政策の充実、格差・貧困の是正。
  労働法制の改善―被雇用者・就労者本位―長時間労働・「サービス残業」「ブラック企業」の規制、最低賃金のアップ、非正規労働の正規化へ「均等待遇」「同一労働同一賃金」「派遣法」の抜本改正など。
  教育―学費負担の軽減、子育て支援―待機児童の解消」
  脱原発―再生可能エネルギーへの転換を促進
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 「リベラル」の定義はどうもはっきりしていないようだが、立憲民主・共産・社民・自由・新社会党などリベラル各党の、自民党とその補完政党との違いは、左派政党か右派政党かの違いでもなく、保守政党か革新政党かの違いでもなく(「リベラル右派」とか「リベラル保守」という言い方もあるし、寛容性を持ち味とする保守はリベラルでもある)、要は国家主義・国権主義・権威主義に反対か否(それらの傾向を容認)かの違いであり、その根本的な違いで両者(リベラル政党と自民党などの非リベラル政党)は峻別されるのではないか(と筆者は考える)。その違いに比べれば立憲民主と共産党などリベラル各党間の違いは小異であり、その小異を強調してこだわるのは(自民党とその補完政党に対決するうえで)得策ではあるまい。
 
 尚「国家主義」とは国家を第一義的に考え、それ以外の社会集団や個人よりも優先する傾向。
  「国権主義」とは権力者が権限を振るって上からリードするパターン。
  「民権主義」とは人民が自ら立って下から意見や提案を上げていくボトムアップ。
  「権威主義」とは権威を崇めて、それを利用する傾向。

                                                           以上

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