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2016年09月 アーカイブ

2016年09月01日

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           山形県村山市富並(大高根地区)にあるバイオマス発電所
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木屑ピット(間伐材、果樹・公園・街路樹の剪定枝、松食い虫被害木、流木、支障伐採木などからチップ)
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                       タール処理装置
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            ガスエンジン発電機   出力2,000KW(約4,000世帯分)


「とにかく改憲、とにかく国民投票」に疑問(加筆版)

 安倍自民党の改憲は、本丸(主眼)は9条2項だが、その前に外堀―環境権など「新しい人権」条項とか、緊急事態条項とか―から攻め落とす作戦(「お試し改憲」)。
 改憲派は衆参ともに3分の2以上議席を確保した。これから憲法審査会で発議案を審議、そこで発議案の成案ができれば、国会にかけて議決、国民投票へ、という運びとなる。
 我が国の現行憲法は諸法律中の基本法で最高法規として大まかなことしか定めていない。例えば、12条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあるが、環境権も緊急事態の場合もこれ(国民の権利、公共の福祉に反しない限り立法その他の国政上最大の尊重)に含まれおり、具体的には環境基本法や武力攻撃事態法・災害救助法・災害対策基本法などに既に定められているのである。これらに関して憲法に直接・具体的には書かれていないからといって、今、実際上不都合が生じているわけでもなく、今わざわざ付け加えなければならないという必要に迫られているわけではないのである。(衆議院の解散中に緊急事態が発生したらどうするか、その時には参院の緊急集会が国会の権限を代行できることになっている。)
 国民投票―憲法は70年も経ってずっとそのままできたが、このあたりで何か新しい条項を付け加えてみてもいいのでは、とか、ちょっと修正してみてもいいのでは、などと国民投票を「試しに」一度やってみてもいいのではないか、という向きもあるだろうが、学校生徒の模擬投票とは事が違い、国民投票となると、費用が(木村草太氏によれば)850億円もかかるとのこと(そんなカネがあったら、という問題があるのだ)。

 アベ自民党政権は、いずれにしても(順序・段階はどうあれ)、9条改変が本命。自民党はかねてより改憲草案を公表している。(現行憲法が「第二章 戦争放棄」としていたのを「第二章 安全保障」と改め、9条1項は最後の「永久にこれを放棄する」というところを、単に「用いない」と変えただけだが、それに「2、前項の規定は、自衛権の発動を妨げない。」と付け加え、さらに「9条の二」として「我が国の平和と独立並び国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。2、国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。3、国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。4、前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。5、国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。」それに「9条の三」として「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」と。)それは、要するに、「安全保障」として、自衛権は行使できると明記し、現行9条の2項(戦力不保持・交戦権否認)は削除して国防軍を保持すること、その国際的な協調活動、治安出動を明記するようにしている。(もっと簡単に言えば、今までは禁じられてきた軍隊を持ち、戦争できるようにする、というものだ)①
 これに対して、改憲でも、自衛隊の保持を明記して個別的自衛権の行使は認めるも、専守防衛に限定し、集団的自衛権の行使は認めないと明記する②。
 或は、もっと厳格に、自衛隊の存在を曖昧にせず、はっきり認めないと明記し、自衛権の行使は個別的自衛権であれ集団的自衛権であれ一切認めないものとするように改正する③、といった改憲もあり得るわけである。これらの所謂「護憲的改憲」を主張する向きもあるわけである。
 現在、新聞の世論調査―朝日5月3日付―では、憲法を「変える必要がある」37%に対して「変える必要がない」は55%で、9条に限っていえば、「変える方がよい」27%に対して「変えない方がよい」68%ということで、約7割が現行のままでよい、という状況。
 ところが、現行憲法9条で、曖昧にされている自衛隊の存在と自衛戦争を認めるのか否かは、はっきりしておくべきであり、国民の意志を問うべく国民投票をやるべきだ、という論者(今井一氏ら)や意見の人が少なくない。
 週刊紙AERA5月16日号の世論調査では、「戦力としての自衛隊」を「認める」が66.5(男77.9、女55.0)、「認めない」33.5(男22.1、女45.0)、「自衛にための戦争を認める」が53.6(男65.3、女41.8)、「認めない」46.4(男34.7、女58.2)、(両方とも「認める」は、男は50~70代より10~40代が多い、とくに20代男は「戦力としての自衛隊」を「認める」が92.6で最多)。
 そういう(自衛隊の存在と自衛戦争を認めるか否か)議論になると、自民党流の解釈改憲~明文改憲には反対ではあっても、その護憲派が「護憲的改憲派」の②と③、それに「現行の条文のままでよい」という「純護憲派」に分断され、③と「純護憲派」がそれぞれ少数派に転落してしまう結果になろう。
 そこでもし、自民党流の改憲案ではなくても、とにかく憲法上曖昧だと思われている自衛隊の存在と自衛戦争は認めるようにするか否かをはっきりとすべく、②のような自衛力の保持を明記した改憲案が発議されれば、国民投票では「改正」賛成の方が多く、9条は改定されてしまう可能性が高くなるのではあるまいか。なぜなら、現状では、国民の大多数は自衛隊の災害出動などでは歓迎し、その存在と活動を肯定的に受け止めており、それにマスコミの報道により、中国の、我が国との尖閣諸島領有問題めぐる対立・事実上の紛争と南シナ海への進出、北朝鮮の核・ミサイル実験・演習などを、国際テロ組織とともに脅威と感じ、日米同盟(米軍)とともにある自衛隊をなくてはならない存在として認める向きが大多数だろうからである。

 しかし、そこで、9条(戦力の不保持・交戦権の否認)が変わってしまったら、それが国民だけでなく国際社会にどんな影響・インパクトを与えるかが問題だろう。
 この9条の重要性は、単に自国の平和・安全保障だけの故ではなく、前文とともにこの9条規定が、戦後「回帰」(柄谷・哲学者のいう「徳川の平和」への回帰)したとも言うべき我が国の伝統的平和文化と日本人の(好戦的ならぬ)嫌戦的な国民性(集団的無意識の倫理性)にマッチしていることもさることながら、これらのが規定は国連憲章とともに国際恒久平和に直接的につながり、連動する(国連憲章を補完し国際恒久平和を補強するともいうべき)重要な規定だからである。
 我が国憲法は前文で「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」と唱っている。そして9条は、(柄谷氏によれば)「単に武力の放棄ではなく、日本から世界に向けられた贈与」であり、「この贈与に対して国際社会は(日本の武力蜂起を)これ幸いとばかりに攻め込んだり、領土を奪うことなどあり得まい。なぜなら、そんなことをすれば国際社会から糾弾されるからだ―国際社会の圧力。」「この贈与から得られる力は軍事力やカネの力よりも強く、これによって日本に賛同する国が続出し、それがこれまで、第2次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることになる。それによって国連はカントの(『永遠平和』)の理念に近づくことになる。」「日本が9条を実行すると宣言すれば、すぐ常任理事国になれる」というわけである。

 もし、この9条を改憲してしまったら、国連や国際社会にとって多大なマイナスとなるし、我が国自身にとって大きなマイナスとなるだろう。今、国際社会において、世界の諸国民と各国が目指すべきは、(カントのいう)「公法の状態」(あらゆる国家が例外なく公平な共通の法に従っている状態)を実現することであり、どの国も戦争を放棄し、核兵器の廃絶をはじめ軍備の縮小~全廃に向かうことであろう。
 ところで、カントは『永遠平和のために』で「国際的な平和連合」を提唱し、各国共通の法を定め、それにどの国も公平に従うこととし、紛争は武力を使わず、法的に解決す仕組みを作ることをめざした。それが第一次大戦後の国際連盟の結成、第二次大戦後の国連の結成につながっているはいるが、カントの理念にはまだまだほど遠い。
 カントは各国の「常備軍は時とともに全廃されなければならない」と書いている。なぜなら、それは「常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。常備軍が刺激となって、互いに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりも一層重荷になり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである」①と。但し次のようなことも書いている。「常備軍の兵士は人を殺害するため、又は人にさせるために雇われるのである。尤も国民が自らと祖国を防衛するために外敵からの攻撃に備えて、自発的に武器をとって定期的に訓練を行うことは常備軍と全く異なる事柄である」と。これについては、「常備軍」とは、当時絶対王政時代の国王の傭兵のことで、それに対して国民が自発的に武器をとって戦ったといえば、フランス革命に際して結成された国民義勇軍を念頭に置いたものだろうと云われる。その後、国民の志願兵制や徴兵制が民主国家で行われるようになって現在に至っているので、各国で文民統制の下にある、そのような現代の軍隊はこれには当たらないという解釈がある。しかし、①(アンダーライン箇所)のような常備軍の弊害―敵対する状態がいつまでも続き、戦争を誘発するなど、永遠平和の実現をかえって阻害する要因ともなる弊害―は国王の傭兵に限ったことではあるまい。カントはフランス革命当時の国民軍など義勇軍を念頭にしていて、第二次大戦中の反ファシズム・レジスタンスのような義勇市民軍などはいいとしても、またスイス*のような国の軍隊もあるが、現代の各国軍隊が「廃止すべき常備軍」には当たらないなどとは言えないのではあるまいか。我が国の「自衛隊」であっても。
  (*スイス―小国ながら神聖ローマ帝国時代からハプスブルグ家の支配に服さず独立を保ち続けながら、勇猛果敢を売りにして諸王侯に傭兵を輸出する(ローマ法王庁の警備は未だにスイス人傭兵)一方、ウイーン会議で諸国から「永世中立国」として認められて以後自国の独立を守るべく国民皆兵制を採り、現代の今に至るも国民投票で徴兵制度の廃止を否決して維持し続けており、最近国連には加盟したがEUにもNATOにも加盟してない。)
 
 それにしても、そもそも9条は自衛隊の存在自体を認め、個別的であれ集団的であれ自衛権の行使そのものを認めているのかどうか、疑問を残していることは事実(憲法学者の大多数は認められないとする見解で、共産党などもその考え)だが、憲法制定直後の第一次吉田内閣以外、歴代内閣(内閣法制局)は、集団的自衛権の行使を除いてずうっと認めてきており、砂川事件判決に伴う最高裁の合憲判断もあり、国民の多くもそれに同調してきて、今ではほとんどコンセンサスになっている。それを改めて国民に問い直してはっきりさせるのも意味のあることには違いないが、何をいまさらと感じる向きもあろう。国民の大多数は自衛隊が違憲なのか合憲なのか、今、早急に国民投票で決着をつけるべきだなどと切実に求めているわけではあるまい。
 現下の憲法問題は、安倍政権が進めている新安保法制で、これまで専守防衛に徹するとされてきた自衛隊に集団的自衛権の行使やPKOの駆けつけ警護を認める等、他国の紛争や戦争に自衛隊を限定的とはいえ動員する(隊員に犠牲者が出ること必至となる)ようなことを認めるのかどうかであり、もはや憲法解釈の許容限度を越え、違憲が明白な安倍政権の安保政策を許していいのか、という問題、それに核兵器の保有さえも認められるという9条解釈、(武器輸出禁止3原則を防衛装備移転3原則と変えて)武器の輸出・共同開発を解禁するなど、非戦平和主義の憲法に全く逆行する政策こそが大問題なのである。それに沖縄の名護市辺野古基地建設の問題もある―外交・防衛は国の専権事項ではあるが、特定の地方公共団体・住民に不利益になる場合には、国が法律を定めて住民投票行わなければならない―憲法8章(地方自治)95条(特別法の住民投票)、なのに、名護市民や沖縄県民の大多数の反対を押し切って建設を進めようとしている。

 こうみてくると、現段階では、自衛隊の存在と自衛戦争を条文に明記する9条改憲の賛否を問う議論や国民投票に直ちに踏み込むのは適切ではあるまい。
 当面の最重要課題は、やはり、安倍自民党による改憲の策動に一致して反対する護憲派(護憲的改憲派と純護憲派)の結束だろう。

 今直面する焦眉の問題は、自衛隊員が海外で他国の戦争や戦闘に動員されて人を殺傷し、或は自らが犠牲になるかもしれない結果をもたらす集団的自衛権行使容認の新安保法(戦争法)を廃止することであり、核兵器を廃絶すること、沖縄に新基地を作らせないこと、そして不戦平和外交に徹することだ
 
 今は、とかく「安全保障」ということで、中国や北朝鮮や国際テロ組織などの「脅威」を前にして、これらの国や勢力から攻めて来られたら、どうやって防衛するか、といった軍事ばかりに気をとられがちだが、安全保障の要諦は軍事力や軍事同盟の強化ではなく、敵をつくらず、どの国どの国民をも味方することにある
 今、日本にわざわざリスクを冒して武力攻撃をかけてきたり、戦争を挑もうとするような国や勢力はどこにもない、と元外交官の孫崎氏。それは軍事的抑止力が効いているせい、というよりは、その必要(日本に、武力攻撃をかけたり、戦争を挑む必要)がないからにほかならない。
 そもそも軍事的抑止力といっても、(孫崎氏によれば)アメリカの「核の傘」は基本的にあり得ない。なぜなら、アメリカが日本を中国の攻撃から守るために、仮に上海にアメリカ本土から核ミサイルを撃ち込めば、中国はそれに報復してサンフランシスコに核ミサイルを撃ち込むだろうし、アメリカは自国の都市民を犠牲にしてまで、日本を助けるために核ミサイルを米本土から発射することはあり得ないからだ。また「ミサイル防衛」といっても、中国や北朝鮮から飛んで来る弾道ミサイル(秒速3,000~7,000m)をP3C(秒速1,700m)が迎撃して撃ち落とすことは不可能。アメリカは尖閣諸島が日本の施政権下にあり安保条約の適用範囲にあるとは言っているが、領有権は日中のどちらが有してかについてはどちらの主張にも組せず、日中両国間で解決すべき問題だとしており、仮にそこで日中間に戦争が起きたとしてもアメリカが参戦することもあり得ない。なぜなら、その海域は中国の近くで制空権は中国軍に握られており、沖縄(嘉手納基地)から米軍機が発進して日本に加勢するとしても、そこ(嘉手納基地)に弾道ミサイルを撃ち込まれればそれまでで、それに無人島の争奪に介入して米兵が血を流すようなことは米国議会が許すまいからである。(尖閣の島は元々一日本人の個人所有で、日中両国とも領有権を主張はしてはきたが、日本の方が実効支配―海上保安庁が管轄―を続け、その下で領有権問題は棚上げにしてきたものだが、それを石原都知事が自らの政治的思惑から、東京都が所有者から購入すると言いだしたことから、野田政権が国有化に踏み切って完全に日本領にしてしまった。それから中国政府が硬化して公船をくり出すようになってトラブルが起きるようになったのだが)孫崎氏は両国とも以前のように領有権棚上げで合意すればいいのだと。
 いずれにしても、中国や北朝鮮が日本に攻めてこないのは、日米同盟と核の傘の抑止力のお蔭だなどとは言えない、ということで、軍事的抑止力にばかり意を注いでも無意味なのであって、最も意を注ぐべきは、やはり敵をつくらず、どの国どの国民をも味方にする友好協力・平和外交であり、これをおいて軍事的抑止力などあり得ないということだろう。

 憲法が今問題なのは、改憲することではなく、守り活かすことなのだ
 改憲は、安倍首相や自民党その他改憲派の政治家や歴史修正主義者の思惑(現行憲法の制定経緯から「押しつけ憲法」だから気に入らないとか、自分たちのイデオロギーや政治上の利益に鑑みて前文や条項に不都合があること等)によるニーズからではなく、国民(生活者)がこの国で生活するうえで、具体的に「憲法のこの部分に支障を来たしており、どうしても、そこを改正してほしい」という切実な要求がないかぎり、あり得ないのだ。


2016年09月13日

中村哲氏にノーベル平和賞を

 NHK・Eテレの『武器でなく命の水を』というドキュメンタリー番組で、NGOペシャワール会の中村医師が、戦乱と大干ばつにあえぐアフガニスタンで大河から水を引く灌漑用水路建設事業を計画し、17年間にわたって現地住民と共に取り組んで、荒野や砂漠を数十万人の命を支える農地に変え、村を再生、その事業のノウハウをアフガン全土に広めるための新たなプロジェクトにも取り組んでいる、その姿に感動した。
 日本にはノーベル平和賞受賞者は唯一人・佐藤栄作元首相しかいないが、この中村氏こそがその受賞者に相応しいのではあるまいか。「憲法9条にノーベル平和賞を」という推薦運動もあり、3年連続で今年もノミネートはされているが。
 氏自身は、それは「医療の延長で、命をつなぐ活動が、結果として、平和でなければならないということに繋がっているだけ」と語っているが、ある所では「僕は憲法9条なんて特に意識したことはなかった。でもね、向こうに行って、9条が僕らの活動をバックボーンとして支えていてくれている」とも語っている。その意味からいっても、彼こそが憲法9条の体現者としてノーベル平和賞に相応しい方なのでは。

2016年09月23日

平和・安全保障に得策かは事実から判断

 戦後71年、我が国がどの国からも攻撃されず、戦争に巻き込まれずに済んだのは、憲法9条のおかげか、日米同盟の軍事抑止力のおかげか、両方のおかげか。それに関して事実として確かなことは、日本は、この間あちこちの戦争に米国などから要請されても、9条をたてに参戦を断ることができ、戦死者を出さずに済んだということだろう。
 一方、周辺国に軍事的脅威はあっても、それらの攻撃を免れてきたのは日米同盟の抑止力のおかげなのかどうか。その可能性はあるのかもしれないが、事実抑止効果が効いているのかどうかは証明できない。なぜなら、こちら側がそう思い込んでも、相手側は日米同盟の軍事力が恐ろしいばかりに手出しできないでいるとは限らず、わざわざそんなことをする必要もメリットもないからにほかならないのかもしれないからである。
 事実として確かなことは、日米側の軍事同盟強化が、逆に周辺国にとって脅威となり、互いに軍拡とその脅威がエスカレートしてきていることである。そして、それがいずれの国でもその負担が国民に重くのしかかり、我が国でも、とりわけ米軍基地が集中する沖縄住民に過重負担となっているのは周知の事実だ。
 それらの明確な事実と不確かな事実を勘案すれば、9条に関わる選択肢の果たしてどちらが得策なのかだ。

2016年09月27日

軍事力による平和・安全はむしろ非現実的

 9月25日朝日の声に掲載された「抑止力保持が現実的、改憲必要」という投稿について。投稿者は以前スーダン大使などを務めた実体験からだろうが、世界には「自国の利害から外交の意義を認めない国もあり」、「『武力を背景に相手国を屈服させるのが国益』と考え」、「武力行使も辞さない」という国や勢力が存在するが故、(外交努力と相まって)軍事力と同盟国の抑止力によって自国と国民の安全を確保する、それが現実だと論じておられる。
 しかし、歴史的現実にはそのような実態が見られるとしても、それを固定化して「そういうものだ」と決めつけて、「だから、今まで通り、そうする以外にないとか、そうするのが最善の方法だ」と、現状(自衛隊とその装備・予算規模、日米同盟、新安保法制、それらを合法化する改憲)を合理化し、それにばかりこだわって(固執し)、そこで思考停止するのは如何なものか。「そうあってはならないのだ」と、現状を打破して理想(「核なき世界」はもとより「あらゆる兵器のない、戦争のない世界」)に向かって突き進もうと突破口(現行憲法9条こそがその突破口)を切り開く思考の発展とその実現努力があって然るべきなのでは。
 それに、今では、中東やアフリカにおける武力抗争や各地でのテロ、北朝鮮の核・ミサイル開発等々、列強諸国がどんなに強大な軍事力を保持し、それを活用あるいは背景にして制裁圧力を加えても、平定・抑止できていないことも、厳然たる事実である。このような現実を見れば、強固な軍事力と同盟国を保持すれば、それによって平和・安全が実現し保たれるという、その方がむしろ幻想なのではないか、と思われる。
 改憲して自衛隊を戦力として交戦権も認め、参戦や海外派兵が公然と認められるようにすれば、抑止力が強まって、北朝鮮も中国も武力による威嚇や攻撃はできなくなるなどという、そんな保障はあり得ず、それはかえって軍備増強を促す可能性のほうが強い。これらの国に対応するには、現行憲法9条原則を守って不戦態度に徹し、(国境警備・監視活動以外の)軍事対応は控えるようにしてこそ、北朝鮮など相手を外交協議に引き込めるというもの。それが現実なのでは。

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