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2010年03月 アーカイブ

2010年03月09日

高校無償化なら入試廃止も

 今、新政権によって高校教育無償化が実現しようとしています。
 欧米では多くの国で、授業料も入試も無いのが当たり前とか。我が国もようやく「途上国」から脱して欧米並みになりつつあるということで、授業料だけでなく入試も無くして義務教育化すれば、それこそ画期的な大改革となるのでは。
 今や、ハイテク化・高度情報化・グローバル化の時代、人々の職業生活も社会生活も、以前のように中学校レベルの知識・技能だけでは到底間に合わない世の中。高校レベルの知識・技能を身に付けることは、個々の人間にとって世の中を生きていくために必要なだけでなく、この社会、この国にとって、産業・経済それに裁判員制度なども含め民主政治を成り立たせる上で、国民全員に高校レベルの知識・技能を身に付けさせておくことは必要不可欠なものとなってきている、ということなのではないでしょうか。「学ぶ気のない生徒」だと決め付けて彼らを放っておくわけにはいかないでしょう。
だから、義務教育は小中学校にとどまらず、高校まで行うのが当然。
 義務教育であるかぎり、入学者を選別し、試験で振り落として入学させない、などということはあってはならないわけであり、入試は廃止しなければならない。
 それに、入試制度は受験競争を招き、狭い知識偏重の競争・選別教育など教育を大きく歪める元凶となっており、それを是正し我が国教育を正常化するためにも、その廃止は不可欠なのではないでしょうか。

2010年03月11日

高校無償化なら入試の廃止も

 高校の学費を生徒・親に出させるとか、入試で入学者を選抜するというやり方は、けっして当たり前なのではなく、欧米諸国ではむしろ、学費は公費でまかない(フィンランド・オランダ・スウエーデンなどでは私立も、北欧諸国やフランスでは大学も授業料は無料)、選抜入試などやらないのが当たり前なのであって、異常なのは我が国のほうなのである。
 国際人権規約(第13条2項)は高校と大学の学費を段階的に無償化することを定めているが、同条項の批准を留保している国は我が国とマダガスカルの2ヶ国だけ。2001年には国連の社会権規約委員会が日本政府に対して留保撤回を勧告したにもかかわらず応じてこなかった。また、1998年国連の「児童の権利に関する委員会」から我が国政府は「極度の競争的な制度によるストレスのため子どもが発達障害にさらされている」「さらに登校拒否の事例がかなりの数にのぼることを懸念する」といった勧告も受けているのである。競争的な制度とは生徒を受験競争やテスト点数競争に駆り立てる選抜入試制度のことであろう。
 鳩山政権は高校授業料無償化に踏み切った。これは画期的な決断であるが、このさい、入試制度の廃止にまで踏み切ったならば、それこそ「平成維新」に相応しい我が国教育史上の大変革となろう。(一挙に何もかもというのは難しいとか、非現実的だなどといって取り合わない向きが多いだろうが。)
 以下にその理由を論じてみたい。
(1)高校も義務教育に
 現実は高校進学率100%に近くなっている。「今の世の中、高校ぐらい出ておかないと一人前になれない」というのが常識である。
 実際、ハイテク化・グローバル化・高度情報化している現代社会、人々の職業生活(仕事)も社会生活(参政権や裁判員制度など民主社会における主権や権利の行使)も、以前のような中学レベルの知識・技能では到底通用しなくなっているのだ(指示され、与えられた仕事を機械ロボットのようにやっているだけでよい、というわけにはいかないのである)。中卒では、個々人の職業生活・社会生活が成り立たないだけでなく、社会も、国家も、良質な人材確保ができず、産業諸組織・社会諸組織の運営が成り立たず、維持もできない。そういう時代なのである。

 高校進学の受益者は、単にそこに入いれた生徒個々人だけではなく、彼ら人材を確保できる国家・社会そのものが受益者なのである。その国家が高校教育を義務化し、選抜試験なしに入学を認め、入学者の授業料を無償化しするのに何ら不思議はない。

 発展途上の国(我が国も以前そういう時代だった)ならば、庶民も出世志向が旺盛で、国は学歴取得競争(進学競争)にまかせておけば、庶民は受験に殺到し、無理をしてでも授業料・入学金を払うので、国は教育予算をあまり投じなくても済んだし、生徒の学習意欲を引き出すこともできて、詰め込んだ知識・技能が発展途上の産業にたずさわる人材確保に役立ち、全体を引っ張っていくエリートを養成することも可能だった。
 しかし、我が国は、もう、そんな「途上国タイプの教育」から脱却して、欧米並みに「成熟社会」の教育を目指さなければならないのである。

(2)入試制度の弊害
 入試制度とは、入学志願者に試験を課し、その試験成績に在籍中の学校成績(内申書)を勘案して成績順に上から選抜するというやり方。その入試があるおかげで、受験生がしのぎを削ってレベルアップしてくれて、その上澄みだけしゃくり取ればよく、高校もしくは大学側にとっては、教えるのが楽だし、「難関校」ほど自分の学校のステータスも上がることになる、というそういう点では好都合。しかし、さまざまな弊害がある。
①生徒にとっては「ここまで修得すればよい」という基準がなく成績順位(他の受験生たちとの成績の比較)だけが問題だから、とにかく他の受験生たちを一点でもしのぐ成績を上げなければならないと思えば、際限なく勉強しなければならなくなり、過重負担になる。
②高校以下の教育全体が受験に特化しすぎて(受験科目、入試に出そうなところだけを勉強し、内申書の評価につながりそうなものだけを気にし、力をいれ)、それ以外がおろそかになる。狭い学力(「偏差値学力」「点数獲得学力」)に矮小化。学習の幅を狭め、受験対策・テスト対策、ドリル(訓練的学習)・機械的な暗記に偏る。文字と言葉、図と記号だけの教科書的勉強に偏り、手や身体・感覚を総動員した学習がおろそかになる。心がせせこましく、豊な発想や感性が生まれなくなる。
 「内申書」重視とかOA入試(自己推薦と面接だけの試験)だから、「日頃から、ちゃんとやっていれば大丈夫」といっても、結果は受験勉強が日常にまで持ち込まれるだけ(提出物や授業中に手を挙げる等)。
 たとえ入試内容を狭くしたり、簡単にしても、同じ(今まで50点台で競争していたものが、80点台の競争になるだけの話。
③高校以下の学校が入試に縛られて独自教育ができなくなる。
 生徒にとっては勉強も何もかも、すべてが受験・合格目的になってしまい、自分の真の適性を見つけて開花させようとするきっかけがつかめなくなる(自分がしたいことを押し殺して、ただ机に向かっているうちに、自分のしたいことが何かわからなくなっていく。)
 その高校、その大学に入って何をしたいのか、何を学びたいのか(学問研究・芸術・技術・技能を磨く等)ではなく、入試に合格すること、学歴を獲得することだけが自己目的化。
④生徒も教師も受験競争・点数競争に追い立てられてストレスが高じる(口や顔には出なくても、心の中に、いつも「受験は大丈夫かな」「勉強しなきゃ」といった強迫観念がつきまとう。
⑤「競争による動機づけでは、全員を伸ばすことはできない。それどころか、かえって伸びない者を作り出す。」頑張ったのに不合格とされた生徒は劣等感に陥ったり、自己肯定感を喪失したり、やる気をなくす者が同時に生まれるからである。
⑥社会の歪み―学歴競争・格差社会―をもたらしている。

 週刊誌(サンデー毎日や週間朝日など)が「入試速報」―「大学合格者高校ランキング」なるものをこのところ毎週連載している。
 我が国では、このようなランキングによって、その高校・その大学に入学・卒業した者たちのステータスが決まり、社会階層が形成されているのだ。

(3)入試制度を廃止してどうするのか
 入試は廃止し、小中学校のように全員無試験で入学させる。
 卒業に必要な各教科(単位)の修得を、それぞれ基準に基づいて(評定、たとえば各教科10点満点で「6以上」というふうに)それに達していれば認定し、全教科単位修得すれば卒業を認定し、基準に達せず認定されなければ原級留め置き(落第)となる。(留年して授業を受け続けても授業料は無償。)
 少人数学級で、遅れている生徒は落ちこぼさずに基準に達するまで(補習・追試なども)手を尽くすことができるだけの教員を充当するなど、指導体制を整える。
 このような高校卒業認定者には同時に大学入学資格を認める。このようなやり方は欧米諸国で一般に行われているやり方。
 義務教育でない大学の場合は「最低限これができていないと、うちの授業にはついてこれませんよ」という最低基準を示し、その基準を満たしてさえいれば、できるかぎり本人の希望を尊重して入学させる(「教育の機会均等」の原則からいって、それは当然のことである)。
 実験・実習など人数が限定される医学部・工学部などの学部・学科の場合は
願書の先着順もしくは抽選で入学者を決める。
 高校の学区制は、地元学区入学の原則を守る。(現在、全県一学区制化に切り替えようとしている県があるが、これでは全県一斉高校入試で県内高校がトップからビリまで序列が付いてしまうことになる。)

(4)教育のあり方にたいする国民的理解・意識改革の必要性
 競争教育が嫌だからといって、個人でいくら、それを避け、成績など気にしない(孫に「テストなんかそんなに必死になって頑張らなくていいんだ」とか「成績など気にするな」)といっても、本人はともかく、親は(結局は本人も)点数と順位を気にしないではいられないのである。
 教師も競争主義や成績主義に反対だからといって、受験対応をやめれば、生徒を不利な結果に追いやり、かえって可愛そうな思いをさせてしまうことになる。
 現実の高校・大学は「試験と内申の成績順に上から何名」として入学させるのだから、志望校・志望大学の合格ラインを知り、自分の成績がどの位置なのかを知らないと合否予想はできない。そこで受験業者が、その需要に応えて行う模擬テストに参加して「偏差値」の提供を受けようとする。「そんなの関係ない」というわけにはいかないのである。
 このような教育改革は一つの学校、一人の教師・一個人だけがいくらその気になっても、変革は不可能であり、国家的に、全国一斉にやるしかないわけである。
 そのためには、これまでの既成観念を捨てて、次のような諸点での国民的な理解・意識改革が必要。
①教育観―学校教育の目的を、「子どもたちを競わせて『勝ち組』『負け組』を選別し、順位を出すこと」から、「一人ひとりの子どもを主体に考え、どの子も完全を期して育て上げるということ」に頭を切り替える。
 「教育の機会均等」「能力に応じて等しく教育を受ける権利」の保障を(教育基本法でも「改正」前は「能力に応ずる教育」だったのが、「改正」後のそれは「能力に応じた教育」とされるようになって)「能力が低ければ低いなりに」と、「簡単なことしか教えず」「(たとえ難しくても生きていく上で必要不可欠な事柄なのに)どうせ解らないだろうからといって教えずにカットしてしまう」という手抜きを容認する考え方から、遅れがちな生徒には「もっと丁寧に多くの工夫と手を尽くして教える」という考え方に。
②学力観
 受験科目の偏差値学力(受験学力―狭く、細切れで、競争的・訓練的な学力)が学力のすべてであるかのように錯覚し、(学力競争は実は学力そのものを歪め、かえって学力低下を招いてしまうものなのに)「学力は競争の中でこそ伸びるものだ」と短絡的に考える。
 競争による動機づけでは、全員を伸ばすことはできないどころか、かえって伸びない者を作り出す。(古山明男氏によれば)上位層には、勝ち残るほどにハードルが高くなっていき、ずり落ちる不安がつきまとう。中位層は、上に這いあがろうとし、「やみくもに」頑張ってつじつまを合わせている。本当に理解していることは一部だけで、あとは丸覚えと「あてずっぽう」でなんとかしている、といったようなことが多く、あせりやすく、挫折しやすい。下位層は「またできなかった。わからなかった。もうどうでもいいや」とそっぽを向き、ドロップ・アウト。生きていくために本当に必要な学習への意欲をそぎ、本当に必要な学力(生きていくために必要な理解力や見通す力など)が身に付かなくなる。かくして全体が「地盤沈下」。
 学力とは、そもそも学べる力・生きる力(他から学びつつ、人間として自立して生きていかれる力―生活と密着した知識・技能、状況・変化への適応能力、コミュニケーション能力、学習に取り組む意欲、理解力・思考力・独創力・応用力・問題解決能力・実践力など)のこと。それらは、一人ひとり多様で、獲得すべき目標が異なり、到達度・進度が異なるのであって(画一的一括指導ではなく、本来、個別的指導を要するもので)、他者との比較や順位競争は何の意味もない。
 競争的学力観を刷り込まれてきた、その頭を切り替えなければならないのだ。
③テスト観
 テストを、生徒に順位を付け、「できる生徒」と「できない生徒」を選別し、学校・学級の序列を付けるためのものという考え方から、テストは、本来、個々の生徒について、その学習の成果―基準達成への到達度を確認するとともに、学習上のつまづきなど問題点を明らかにして、指導法の改善、カリキュラム・教育システム・教育環境の改善に役立てるためのものだ(だから、市販テストや外部テストではなく、教えている生徒の生活の中に題材をとった手作りテストが望ましい)という考え方に。
 尚、07年から毎年実施されるようになった全国学力テストは、新政権下で従来の全員参加方式からサンプル(無作為抽出)方式に切り替えられることになった。しかし、抽出された学校(3割)以外の学校も希望参加を認められたために(抽出校・希望参加校あわせて)73%(秋田県など11県は100%、愛知県は25.4%、山形県は53,9%)もの学校で実施されることに。希望参加が多いのは、教師たちは学テ実施の弊害(順位競争に目を奪われるなど)を恐れるのに対して、それにとんちゃくしない保護者や自治体首長たちの中に学テ参加と結果公表(開示)を求める向きが多いからだろう。
 このような全国(大多数参加)一斉学力テストが行われれば、教師たちにプレッシャーがかかる(成績の悪かった学校の校長や教員はハッパをかけられる)ことになる。彼らはテスト対策に迫られ、校長会や業者による模擬テストが県・市町村規模で繰り返され、生徒の特訓が行なわれることになる。その結果は、試験科目や出題が予想される部分・分野の得点が高くなるだけのことで、総体としての学力は低下していかざるを得なくなる。
 それに、テストに際して、先生が正解のヒントを教えたり、カンニング黙認などの不正まで行われる。これまでどこかの学校でこのような事実があったし、最近では2月に、福島県いわき市の中学校長会テストで、一中学校の教員が答案用紙の答欄に正解を書き入れたり書き直したりして50人以上の点数をかさ上げしていたことが、答案を返却された生徒がクラス担任に申し出たことによって発覚。栃木県・広島県などでも同様の不正が発覚しているとのこと(新聞報道による)。
 テストには、このような弊害が付き物なのである。

④学校観
 市場原理主義で、学校は塾や予備校などと同様(知識・技能・テクニック・試験問題の解き方などを売る)「サービス業の一種だ」として、コスト、効率(費用対効果)、数値目標の達成・成果の観点でとらえる考え方(生徒・親たちを「消費者」「お客」と考えて、「お客様のニーズ」に応え「客受け」のする目標の羅列と実績づくりにはしり、「・・・合格率~%」・「・・・達成率~割」・「いじめゼロ」「不登校ゼロ」などと何でも数値化して、その数値目標達成を競い、それにばかりに囚われる考え方)―成果主義・点数主義・競争主義・コスト主義・効率主義。
 また、国家や企業などの組織にとっては、学校は、人材確保のために生徒に学力競争させて選別する場と見なす。
 学校(中高)が学力競争の場に化し、選別機関化し序列化。高校をいわば大学進学の予備校のように見なし、大学進学率で学校評価をおこなう。
 名門校への合格者を多く出している学校が良い学校とみなし、学校を「進学名門校と二流・三流校、教育困難校」「頭のいい学校、わるい学校」などと峻別・差別する考え方。
 
 それに対して、ヒューマニズムの立場では、学校は「人間性の上に立って友愛の絆で結ばれ『学びの生活』を共にする(教え合い学びあう)場」と考える。
 生徒と教師、それに生徒同士が心でつながる。生徒・子どもたちは教師から、単に知識・技能・テクニックを学ぶだけでなく、人としての生き方・心のあり様まで学ぶ。人間性や心は点数では計れないし、数値など出せない。
 
 前者のような人間性不在の学校観から後者の人間性中心の学校観へ、切り替えが必要。
⑤人間観―教師観・生徒観
 学歴・名門校入試合格で人を評価する考え方。
 教師をティーチング・マシーンとしか見ない考え方。
 他の生徒をライバルとしか見ない考え方。
 これらの考え方から、人は人間性と生き方と仕事で評価すべきもの。教師・生徒同士は互いにパートナー(協力者)・「友愛精神で連帯する市民仲間」、という考え方に。
⑥社会観
 「学歴・競争・序列社会」―「自己中心主義・分断・孤立社会」を肯定する考え方から、21世紀の世界、この国、この社会は「友愛の絆で結ばれ、援け合う共生社会」でなければならないとする考え方への転換。

 以上のように、教育にたいする考え方・意識の転換、発想の転換が全国民に必要なのだ。
 そのような国民的理解と国民意識変革のうえに立って、高校教育は義務教育化し、無償化とともに、入試制度の廃止にまで踏み切るべきなのだ。

 参考文献:①古山明男著「変えよう!日本の教育システム―教育に競争はいらない」(平凡社)②尾木直樹著「変われるか!日本の教育」(新日本出版社)

2010年03月16日

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           「トルコ富士」(ハッサン山)

2010年03月17日

無償化は恩恵ではない

 高校授業料の無償化に関する先の投稿に、「学ぶ気のない生徒救う必要あるか」との異論があった。そこには履き違えがあるように思われる。
 そもそも国民にとって教育を受けるのは権利であり、政府にとって教育事業は、社会保障などもそうだが、けっして恩恵ではなく、国民の権利に応ずる責務として行われるものであって、小中学校であれ高校であれ無償化はその一環にほかならない。ところが投稿者は、無償化は「学びたいのに貧しくて学べない生徒」を「救ってやる」国の恩恵でもあるかのように履違えている。
 それに、外見などで「学ぶ意欲に欠けると判断される生徒を排斥する教育観は正常」と書いておられるが、そのような生徒こそ指導を必要としている生徒なのであって、彼らにこそ教育対応しなければならないのでは。たとえその時点では生徒に学ぶ気はなくても、彼は指導を必要とし、彼には学ぶ権利がある以上、学校や当局がそれに前向きに対応するのは当然の責務。彼らを除外すれば、学校が荒んだり、教育困難校に陥る心配は薄らぐとはいっても、学校からあぶれ、教育を受けない若者があふれた社会はどうなるというのだろうか。

2010年03月30日

普天間基地問題(加筆版)

在日アメリカ軍、全体で4万人前後。
その内、海兵隊1万4,400人
    空軍 1万2,750人
    第7艦隊 6,850人
    陸軍   2,580人
    海軍   3,700人
米軍基地の数85ヵ所、総面積307平方キロ、その4分の3は沖縄に。
 沖縄駐留人数は1万2,000人
普天間基地は現在、宜野湾市のど真ん中にあり、全市面積の26%を占める。
 この基地に所属する部隊―ヘリコプターを中心とする海兵隊の航空部隊、2つの防空ミサイル部隊、特殊作戦部隊など、人員―軍人・軍属3,700人、日本人従業員207人
 常駐航空機―ヘリコプター56機、固定翼機15機など

 03年、沖縄視察に来たラムズフェルド当時米国防長官は「まるで占領の継続だ」と。
とりわけ普天間基地は「世界一危険」と言われている。 
 そのような普天間のアメリカ海兵隊はどうしても(沖縄県内の他の場所か県外、日本のどこかに「代替地」を探し、「移設」して)居続けてもらわなければならないのか?普天間基地は、「とにかく(無条件)撤去]ではだめなのか?

海兵隊基地必要論
 日本を外敵から守ってもらうために、またアジア太平洋地域の安定のためにも脅威(北朝鮮・中国など)に対する「抑止力」として居続けてもらわなければならない。それに、アメリカにとって戦略上、地政学的位置からしてそこに基地を必要としており、そのアメリカとの同盟関係、その信頼をつなぎとめる(アメリカの機嫌を損なわないようにする)ために基地提供は維持し続けなければならない、と。
 朝日新聞の論調
09.12.16社説「(在沖海兵隊は)日本防衛とともに、この地域の安定を保ち、潜在的な脅威を抑止する役割をもつ」。
09.12.29社説「日本の防衛や地域の安定のため、沖縄の海兵隊が担ってきた抑止力は何らかの形で補う必要がある」。
10.1.19社説「核やミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威や台頭する中国の存在を考えれば、安保体制の与える『安心感』が幅広く共有されている」。
3月5日社説「北朝鮮の脅威や軍事大国化する中国の存在を考えれば、今ただちに海兵隊すべてをグアムに移すわけにはいかない」など。
 NHKなど日本の主要メディアは、外務省やアメリカの「知日派」の発言―普天間基地の当初の(名護市反野古沿岸部への)移設計画変更は「日米合意・国際公約に反する」「アメリカは怒っている」といった言説―を鵜呑みにしたかのようなアメリカ寄りの論調で報じている。
 拓殖大学の川上高司教授は「日本の周辺に軍事的脅威がある限り」それは必要だとして、「中国軍の台湾上陸への対処」、「北朝鮮の韓国侵攻への対処」、「尖閣諸島・先島諸島など離島防衛」、「アジア太平洋地域の災害救援」などの事態を挙げている。(但し、同教授は、航続距離の長い垂直離着陸輸送機MV22「オスプレイ」や高速輸送艇など軍事技術の進歩で、沖縄にいるのと大差なく部隊を運べるようになる可能性が高いとも指摘している。)

さて、はたしてどうなのだろうか。
そもそも海兵隊というものは
 それは、本来「遠征軍」であり、前線基地はいらないはず。元防衛庁在職・内閣官房副長官補だった柳沢協二氏(現、防衛研究所特別客員研究員)によれば、それは「いつでも、世界のどこへでも出動する。特定地域の防衛に張り付くような軍種ではない。したがって『沖縄かグアムか』という問いには軍事的正解はない。(現に、いまイラクとアフガンでの戦闘に派遣され不在なことが多い―引用者)」「『海兵隊の抑止力』という考え方の本質的な意味は『いざとなったら海兵隊を使う』ということ。例えば、中国が台湾に侵攻した場合、海兵隊を投入すれば、米中は本格的衝突になり、核使用に至るエスカレーション・ラダー(緊張激化のはしご)も動き出すかもしれない。」要するに、それは中国と台湾の戦争を抑止するどころか、米中戦争への発展にさえつながる、その動因ともなる、ということだろう。(氏は「米国にとってそれは正しい選択なのか。日本は国内基地からの出撃に事前協議でイエスと言うのか」と指摘している。)
 また、軍事評論家の田岡氏(朝日ニュースターの討論番組「パックイン・ジャーナル」のコメンテータ)によれば、在沖海兵隊の任務は日本防衛ではなく、東アジアでの緊急事態への即応部隊なのであって、ソウルとか上海とかシンガポールなどで、万一動乱が起きたりした時に、在留邦人・外国人を救出するために現地に派遣され「強襲上陸作戦」にあたるのが主たる任務。そのさい、救出する優先順位は、一に米国人、二番目にグリーン・カード(米国永住権)を持つ人々、三番目にイギリス人やオーストラリア人などアングロサクソン系の人々、四番目にその他の人々で、日本人はその他の部類になっているとのこと。けっして「日本人を守るための海兵隊」と言えるような代物ではないわけだ。
 そもそも米国政府は海兵隊が「日本防衛のための抑止力だ」といったことはないのだという。
 1982年、ワインバーガー当時米国防長官は(上院歳出委員会で)「沖縄の海兵隊は日本の防衛に当てられていない」と証言しており、91年にはチェイニー当時米国防長官は(下院予算委員会で)「世界的な役割を果たす戦力投射部隊」と証言している。
 最近では、3月17日にドノバン米国務副次官補が(下院外交委員会の小委員会の公聴会で)、中国脅威論に対して「日本は中国の台頭によって脅かされてはいない」と証言。
 米外交問題評議会のスミス上級研究員は「米軍は受入れ国とその国民の求めに応じて奉仕しているのであって、もし海兵隊の撤去を求められれば、海兵隊は出ていく必要がある」と指摘。

 在日海兵隊は、もともと朝鮮戦争の後方支援部隊として、本土の静岡や山梨・岐阜などに駐留。それが各地住民の反対運動の高まりで、50年代の後半に、未だ本土復帰せず米軍統治下にあった沖縄に移転・集中することになったもの。

それでは、そもそも普天間基地は
 1945年3月下旬、米軍が沖縄に上陸、地上戦を開始、6月、日本本土を攻撃するために基地建設―宜野湾村の住民を収容所に押し込めている間に、土地・農地を奪って村の中心部(役場や学校があった場所)を基地に変えてしまった。―これは戦時国際法(ハーグ陸戦法規)で、戦闘状態の中で民衆の財産を侵害することを禁じた条項に違反。
 その普天間基地は、本土各地に駐留していた海兵隊の沖縄移転にともなって、54年「銃剣とブルドーザー」で周辺住民を排除して、さらに拡張。

95年、海兵隊兵士による少女暴行事件
96年4月普天間返還合意。ところが12月SACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意で普天間基地の「県内たらい回し」の方向に。
02年名護市反野古沖(埋め立て)合意
04年、沖縄国際大学、米軍ヘリ墜落事件
05年、反野古沿岸部に再修正合意(V字型滑走路など新基地建設案)
06年、在日米軍再編のロードマップ(工程表)に合意(普天間基地の反野古沿岸部への新基地建設移設とともに、海兵隊8,000人のグアム移転(但し、日本政府は公式に「1万人の戦闘部隊を残す」と言っており、現実に減らすのは2,000人程度)、嘉手納基地以南の米軍施設の全面返還も)。

普天間「移設なしの全面返還」(無条件撤去)論
 2月末、沖縄県議会は普天間飛行場「早期閉鎖・返還」を決議。
 田中均元外務省審議官は(橋本内閣当時、96年12月のSACO合意で普天間基地の県内「たらい回し」策を推進した中心人物なのだが)、沖縄県民の持続する反対意志の強さと国際環境の変化を理由に、「移設なしの全面返還を可能にする条件は何かについて、もう一回米国と話しをするべきだと思う」と述べている、という。

最善の選択肢は 
 普天間基地の沖縄県内の他の場所か他県への「移設返還」と「移設なしの無条件返還」(グアムなど国外への移設)のどちらのデメリットが大きく、どちらが難しいか。
 ポイントは①「沖縄県民の負担軽減」と②「抑止力の維持」、これら2点その他③「アメリカとの友好関係の維持」など諸点を総合して、どちらのデメリットが大きいかだ。
 ①「負担」とは基地があることによって被る迷惑・危険・損害・損失のこと。その点ではどうか。
 日本での米軍事件・事故は52年4月~09年3月までで20万6,805件(施政権返還以前の沖縄の分は含まず)。被害にあって死亡した日本人は1,084人。
 ②「抑止力」とは、「平和な生活が守られる」という「安全保障」。その点ではどうか。普天間にいた海兵隊から居なくなられると日本の防衛およびアジア太平洋地域の安定にどれほど支障を来たすというのだろうか。
 ③「アメリカとの友好関係維持」の点ではどうか。
 
 そもそも「移設」と「無条件返還」とで、どちらが難しいかだ。「移設」は、名護市反野古沿岸部(現行案)にしろ、名護市のキャンプ・シュワブ陸上部(ヘリポート増設)・徳之島(訓練施設)などへの基地機能の分散移設と「うるま市」のホワイト・ビーチ沖(埋め立て新基地建設)への2段階移設案にしろ、長崎県の大村・海上自衛隊基地への移設案にしろ、「広く国民の間で基地負担を分かち合う」といっても、「移設先」候補地の地元自治体はどこも首長は反対を表明し、議会は反対決議をしている。それらを押し切って移設・新基地建設を強行することは不可能であり、説得も難しく、移設先を沖縄県内にしろ県外にしろ日本のどこを探しても八方ふさがりとなる。
 それに対して「移設なしの無条件返還」という場合は、とにかく普天間基地を撤去するということであり、移設するなら日本領外・アメリカ領のどこかへということなのであって、その移設先(グアム島であれテニアン島であれハワイであれ)を考えるのは日本政府ではなく、アメリカ政府が考えるべきこと。それでアメリカにとって不都合が生じることになるとしても、それは到底受け入れ難い不都合なのか、日本側(とりわけ普天間基地住民・沖縄県民)の不都合に比べてどうなのかだ。
 アメリカの都合の中には、軍部などの考える戦略上の都合の他に、経費節減すなわち基地経費を日本政府から負担してもらえるので、基地は日本に置いた方が安上がりだというアメリカにとってのメリットもあるわけだ。(「思いやり予算」2,000億円前後、その他、民有地の借り上げ料、税金の減免など、5,382億円―それは他のアメリカ同盟国26ヵ国を合わせた分より多い)。
 このようなアメリカの都合と沖縄県民・基地住民の都合のどちらを優先するか。
 アメリカに普天間の海兵隊を引き上げてもらって、その基地を撤去すると、アメリカとの同盟関係に決定的にひびが入り、友好関係が崩れるなどということに、はたしてなるのだろうか?基地を全面撤去したフィリピン(交渉では、フィリピン側が基地撤去の話しをもちかけたのに対して、アメリカ側―交渉団長アーミテージ国防次官補―が「激怒」し、「会談決裂」等あったが、フィリピン上院は基地存続の条約批准を毅然として否決した。その後、それで両国の外交関係は決裂するどころか、非軍事の協力関係はむしろ発展している)をはじめ他のアメリカ同盟国で、基地を撤去・縮小してアメリカと関係を断絶したり悪化した国などあるだろうか。

 また普天間のアメリカ海兵隊から居なくなられると、「抑止力」が低下して、日本国民も、アジア太平洋地域の諸国民も、そんなに危うくなるのだろうか。中国にしても北朝鮮にしても、自ら被るリスク・不利益をかえりみずに、向こうから攻撃をしかけてくるなどということがあるのだろうか。北朝鮮の場合は、制裁によって追い詰められて苦し紛れに「破れかぶれ」の自爆的攻撃にはしる可能性がなくはないが、そのような理性を失した相手に対しては、どっちみち抑止力は効かない。(そもそも抑止力とは、へたに攻撃をしかけたりしたら、それを上まわる報復攻撃をこうむり、かえってひどい目にあうに違いないと相手に意識させることによって、攻撃を思いとどまらせる軍事力を備えることであるが、いかに圧倒的な軍事力を備えていても、自爆テロには通用しないのと同じである。)
 これらのことを勘案すれば普天間基地は「移設なしの返還」即ち無条件撤去が最善の選択肢だというほかあるまい。

 いま、鳩山政権は、この問題で「迷走している」。他の失点・無策とも重なり、「政権にとって命とりになるかもしれない」「さあ、鳩山政権はどうなるか」などと批評ばかりしていたり、他人事か高見の見物をきめこんでいる場合ではない。沖縄・普天間の住民の身になって声をあげなければならない。「鳩山さん、普天間は即時閉鎖・撤去されるよう決断して下さい!」と。
 

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