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2006年08月 アーカイブ

2006年08月12日

テポドンが飛んできたらどうする?(その2)

この場合、「どうする?」の問いに対して(「ミサイル防衛」だの、「有事法制」の実行だのと)答えることよりも、どうして(何のメリットがあって)北朝鮮は日本を攻撃する必要があるのか、という逆質問に答えてもらわなければなるまい。

北朝鮮が日本(資源・産物は、今は停止している食料支援の分量の米ぐらいはあるとしても、それ以外は何もないし、工業力・技術力などというものは奪える性質のものではない、そのような国)から奪いたい物、得たい物が、たとえ何かあるとしても、そのために無法な攻撃をしかけてこうむるデメリット(損失)とリスク(仮に日本が無防備で何もしなくても、中国・ロシアを含めた世界中から経済断交・軍事制裁をこうむる危険)を冒してまで、それを行なう必要がどこにあるのか。理性がある限り戦略計算上それはあり得ないわけである。

(尚、先だってのミサイル発射は、あくまで実験と訓練であり、日本に向けて打ってはいないし、核開発も「自衛抑止」のためだと云っており、それは日本がアメリカの「核の傘」を「抑止力」と称しているのと同じこと。
 また、「何をするかわからない国だ」などといっても、狂信的なテロ組織とは異なり、アメリカなり日本に対して被害を与えられれば自分たちは死んでもいい、と思っているわけではなく、何とかして生き残りたいというのが金正日政権なのであって、核もミサイルも生き残りたいがための「瀬戸際外交」のカードにしていることはわかりきったこと。) 

もし、かの国が日本にミサイルを撃ち込むとすれば、それは理性を失って暴発にはしるというような場合だけであろう。それはどういう場合かといえば、国々から追い詰められ(日米韓ロそれに中国からまで完全に見放されて)にっちもさっちもいかなくなって、「窮鼠猫をも噛む」が如き状態となった場合である。「追い詰める」とは制裁措置を重ねていくということであり、先だってミサイル発射実験にさいして日本は万景峰号の寄港禁止など制裁発動に踏み切ったが、国連安保理は非難決議にとどまった。この先それ以上に、日米が経済制裁を重ね、さらに国連安保理が(中ロも合意して)制裁決議を行なうか、或はアメリカが軍事行動に及ぶといった事態に立ち至る(もしものことだが)。北朝鮮軍が暴発するとすればその時であろう。

強硬派には、実はそうなること(暴発)を望んでいるか、望みはしないまでも、そうなってもかまわない(しかたない)と思っている向きがある。

したがって問題は、北朝鮮や中国の「脅威」が強まって「核ミサイルがいつ飛んでくるかわからない」というよりも、むしろ日本の方がアメリカと一緒になって相手を追い込んで暴発を誘い戦争にもち込もうとするか、結果的に戦争になってもかまわないと思っている好戦派が日米の側に存在するということが問題なのである。彼らは、北朝鮮や中国の「脅威」を取り除き、懸案の問題(拉致問題や核・ミサイル問題、尖閣諸島や竹島、東シナ海ガス田の帰属問題など)を解決するには相手国の体制転覆・政権打倒しかないと考えている。(イラク戦争はそれで行なわれたし、ネオコンはそれを「レジームチェンジ」と称し、安倍晋三は「政体転換」という言い方をしているとのこと―朝日ニュースターの番組「パックインジャーナル」のコメンテーター田岡氏)

要するに、北朝鮮がミサイルを撃ってきたらどうするか、とか、中国と戦争になったらどうする、とか云いながら、内心では戦争を期待するか、戦争を容認する考えがあるということなのである。(それは石原都知事や一部のメディア―「正論」「諸君」「SAPIO」など―の論調のなかにかいま見られる。例えば「『日本海』波高し」とか「『2009年、日中戦争勃発』の衝撃」―それらは、そのような事態を招いてはならないというものではなく、それに備えよというもの。)

北朝鮮から暴発攻撃され、戦争が起きてしまったらどうなるか。アメリカ本土は無事でも、日本は多かれ少なかれ惨害は免れず、人口密集地・原発・石油貯蔵施設・ガスタンク、化学工場・鉄道・道路網などに着弾して、どこかが大惨事に見舞われかねないことになる。もっとひどいことになるのは韓国―ソウルその他の主要都市が「火の海」になりかねない。そして当の北朝鮮国民はさらに悲惨な結果をこうむることになるだろう。中国は大量難民の流入にみまわれる。

これらのことを考えれば、北朝鮮の暴発戦争はなんとしても未然にくい止めなければならず、そんなことが絶対起こらないようにしなければならない。「ミサイル防衛」だの「敵基地攻撃能力」だの有事法制だの、万全の備えをもって対処し被害を最小限にとどめるなどと、そんなことを考えるよりも、そういう事態(暴発戦争)を招かないようにすることが肝要なのである。

地震や台風は避けられないが、戦争は(相手をそこへ追い込まないかぎり)避けられるのである。地震・台風には常に備えが必要だが、戦争への備えなど無くてもよいものなのである。

したがって問題は日本が攻撃されたらどうするかとか、戦争が起きたらどうするかではなく、そういうことが起こらないようにするにはどうするか、それだけが問題のすべてなのだということである。そこで、それならば「抑止力」と称して軍事力によって攻撃されないようにするとか戦争にならないようにするといっても、そんなことは(軍事力によって攻撃を抑止することなど)所詮不可能であり、いかに(アメリカやイスラエルのように)圧倒的な軍事力をもってしても、それによって自爆攻撃・ゲリラ・テロなどによる攻撃を抑止・根絶することは不可能であるばかりでなく、その「抑止力」と称する圧倒的武力による威嚇はかえってゲリラやテロなどの暴力抵抗を招く。結局それ以外の方法によって相手からの攻撃や戦争を回避する、そういう手だて(非軍事的手段)を講じるしかないのであり、それをどのように講ずるかが、問題のすべてなのである。

即ち、我が国は(自衛軍なり日米同盟なり)軍事によって国を守ることができると考えるのはむしろ非現実的であり、あくまで現行憲法の9条(非軍事的手段による安全保障政策)によって国を守る以外にないのだ、ということである。

「もしも万一攻めてきたらどうする?」の問いに、もう一つ問い返すとしたならば、次のような逆質問を試みてはどうだろう。「あなたはもしかすると、迎え撃つまでのことだといって戦争を望んでいるわけではあるまいが、そうなってもしかたがないと思っているのでは?もしそうだとすれば、正義のためだと信じて人を何人殺し殺されてもしかたないと思っているテロリストと、いったいどこが違うのか?」と。

もう一つ、「政府は、北朝鮮から日本が攻撃された時アメリカから守ってもらえるようにと、アメリカの要請に応えてイラクに自衛隊を派遣したが、9条のおかげで戦闘行為を避けることに徹した自衛隊員は一人も殺さず殺されず全員無事帰還した。しかし帰還後(3月段階で)5人が自殺しており、5人の日本人文民が殺され、さらに何万というイラク人が戦争の犠牲になっていることをどう思うか?」と。

2006年08月17日

加藤氏は屈せずに挑め

 小泉首相は靖国参拝をついに強行し、次のようなことを述べている。「中国・韓国が反発しているから参拝はやめろというが・・・」「軍国主義を称揚するそのような気持で行なっているのではない。」「批判・反発し問題にして騒ぎにしようとする勢力はあるのだから、いつ行っても同じだ」と。

その朝テレビのワイドショーに出て参拝に批判的な発言をしていた加藤紘一氏は、夕方、郷里の実家が放火された。

首相は、参拝は「心の問題だ」と言っていたが、それならば自分の心の中で祈るか、祈りに行くにしても東京武道館の全国戦没者追悼式に行ってそれを行なっているわけであり、わざわざ首相参拝が問題にされ騒がれるようなところには行かなければよいものを。なのに、そこへ敢えて行くということは、それが政治的意図をもったアピール行為だからにほかならない。現に、特定の支持団体に対する「公約」の実行だと自ら述べており、その上結果的にではあるにせよ、反中・反韓ナショナリズムや軍国主義を煽り、批判者に対するテロ行為さえ招いている。まさに政治的行為なのである。

今、日本はおかしくなっている。それを立て直してほしい。加藤氏はテロに屈せず、「加藤の乱」を再び起こし、ポスト小泉に挑んでいただきたい。

2006年08月22日

2000万人もの犠牲者をどう思う

 先日の投稿「賛成できない合祀での解決」は、要するに靖国の考え方を支持するということのようである。

先の戦争は「自存自衛の性格もあった」と書いておられるが、ヒトラーの戦争も含め、どんな戦争でも、その国にとっては自国民の生存圏の確保とか自衛のための戦争だったのではないか。しかし、日本軍から侵攻をうけ、占領・支配された諸国民にとっては侵略以外のなにものでもないわけである。

中国をはじめとするアジア諸国民の犠牲者2000万人以上、それに掠奪・破壊、その惨害に対する加害責任をどう考えておられるのだろうか。法的責任だけでなく、道義的責任は?

 A級戦犯とその他を、一方が加害者で他方が被害者だとは割り切れないというのは、その通りだろう。

しかし、だからといって日本人の誰も責任を負わないのだとすれば、犠牲にされた2000万人の死は「犬死に」になってしまい、それこそ、彼らは浮かばれまい。彼らも日本人戦没者・犠牲者をもそうしないためには、日本軍を正当化し免罪して讃え祀るような神社を参拝することではなく、日本国民すべてが不戦平和国家に徹しアジアをはじめ世界の諸国民のために平和貢献することなのではないだろうか。

靖国と若者たち

 世論調査によると、若者世代ほど首相の靖国参拝に賛成が多い。それは一体何故なのか。「戦争を知らない」とか「近現代史を学んでいない」せいも確かにあるだろう。しかし次のような原因もありはしまいか。

このところ競争脱落者やニートといったものが増え、彼らは社会的に活躍できる場や精神的な拠り所を見出せないでいる。折から近隣諸国との間の様々な問題、それに自衛隊の海外派遣など国家を強く意識せざるをえないような問題がもちあがっている。そこに首相の参拝で靖国神社がクローズアップされると、その若者たちは、かつて国のために戦って散った若き命を祀っているこの神社にがぜん心が引き付けられる。

NHK19日の「@ヒューマン」で首相の靖国参拝を取りあげた中で、靖国神社崇敬奉賛会青年部に加わって奉仕活動に励んでいる一人の大学生を紹介していた。彼は将来不安にさいなまれ自宅にこもりがちであったが、硫黄島の遺骨収集作業に誘われ、そこで「この兵士たちの苦労を思えば」と発奮したようである。

若者たちの多くに居場所を見出せなくした、その埋め合わせに、彼らの心を「お国」の方に向け、「国のため」という国家主義の方向に導く。それが小泉政治だったのではないか。

2006年08月31日

靖国を訪れての感想

 神社付設の博物館には、一人一人の遺影、軍人たちの遺品、特攻兵器の実物、史資料が展示され、映像が流され、日本が行なった戦争が解説されていた。私には、戦死した叔父たちのことを思い、悲しくも痛ましいという思いの方が先だった。それに、そこで思ったのは、ここでは度外視されている、おびただしい数の犠牲者たちの悲惨である。ここを訪ねる者は人によって思いは様々であろう。しかし、この神社自体は日本の戦争をすべて肯定し、その前提の上に立って、そのために「命を捧げた」将兵それに戦争責任者も全て英霊として讃え祀っているのである。首相をはじめ公人には、個人的な「心の問題」だけでは済まない、諸国の犠牲者たちに対する配慮と憲法(政教分離原則)の厳守が求められるのは当然であろう。

 尚、見学者が感想を書き込むノートが置いてあって、その中に次のような意味の書き込みがあった。「英霊たちのおかげで今があるとよく言われるが、彼らはあくまで日本が勝つ為に戦ったのだ。ところが戦争は負けた。現在に至るまでの日本の平和と繁栄は、むしろ敗戦のおかげなのではないか」と。なるほど―もし勝っていたら、日本はどうなっていただろう。

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