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2009年05月 アーカイブ

2009年05月09日

日本に軍備はどうしても必要なのか―「朝から生テレビ」

 先日「朝まで生テレビ」で「問われる日本の選択と戦略」「どうなる?!新しい日米同盟、どうする?!日本の安全保障」「激論!日本の安全保障と外交」をやっていた。
 その論点は次のようなものだった。
(1)安全保障に抑止力が必要?
 「抑止力」とは他からの攻撃を抑止するための軍備のことで、我が国では、今ある自衛隊・日米安保条約(それに基づく米軍基地・駐留)・ミサイル防衛システムなどがそれであり、それらがあるおかげで我が国に対する外敵の攻撃が抑止されているというわけである。それがもっと必要で、敵基地攻撃能力、ひいては核武装もあって然るべきだという議論もある。
 
 番組の中では、次のような発言があった。
 司会者の田原氏―アメリカの元国務長官キッシンジャーの言葉を紹介、「抑制とは、得られる利益とは釣り合わないリスクを押しつけることによって、相手にある行動方針をとらせないようにする試みである」と。相手に、この国を攻撃すれば、得られる利益よりは、反撃されてかえって多大な損失を被る、と思わせることによって攻撃をひかえさせる、それが抑止力だということ。
 田原氏はまた、くぼたくや?氏の「基盤的防衛力構想」を紹介。(「日本および周囲が空っぽだと戦争が起きる。だから空っぽではないぞというところを見せる『はりこの虎』があれば、それでいい」というもの。)つまり、相手にこちらが無防備だと思われないように、『はりこの虎』としての防衛力は必要だという考え。
 田母神前航空幕僚長―「『一発殴ったら三発殴り返すぞ』という意思を示しておく、それが抑止力。それには『専守防衛』などという防衛力だけではなく、攻撃力も必要であり、核武装もあってよい。中国とは、将来、実際に戦うということはないだろうが、軍事バランスは必要。さもないとやらえてしまうから」と。
 民主党の浅尾議員―「鳩山内閣当時の政府答弁で『相手が日本を攻撃する時は、日本が先に攻撃しても憲法違反にはならない』とされている」と。―敵基地攻撃能力を持つことも憲法上可能ということか。

 しかし、このような抑止論は、「フセインのイラクがアメリカに敗れたのは、ひとえに核を持たなかったからだ。だから我が国には、どうしても核は必要だ」という北朝鮮と同じ論理。その国の核・ミサイル開発・実験を非難するのは論理矛盾となり、なんら説得力を持つまい。
 かつて(弱肉強食の戦国時代や帝国主義時代のように、虎視眈々として隙あらば攻め込んで占拠・併合してしまう侵略主義や植民地主義・覇権主義が通用した時代)とは違い、今時(世界中どの国、どの地域も対立・抗争し排除・孤立し合っていては経済も安全保障も成り立たないという21世紀の現代)たとえその国が無防備であっても(現に今、小国でありながらも軍隊を持たない国が192ヵ国中25ヵ国もあるのに、これらの国が)攻め滅ぼされることはあり得ないのだ。
 「抑止力」など無用だし、また、その効きめもないということ。世界は、対立・抗争し排除・孤立し合っては生活が立ち行かない「相利共生」時代とはいっても、中には富強な国家・支配的勢力(現状に安住する多数派)から疎外され、仕事もカネも無くどん底の状態に置かれて、憤懣と絶望から自暴自棄的な過激行動にはしるテロリストや「暴走国家」が存在する余地を残している。(現在の日本にも若者の中に、「この社会をぶち壊したい」「希望は戦争」という赤木智弘氏などの言説に共鳴する気分があり、無差別殺人など暴走行為にはしる若者が出現しているが、個人的・非政治的な次元にとどまっている。)そのようなテロリスト・「暴走国家」に対しては「抑止力」は効かないのである。なぜなら、それらは幾ら圧倒的な抑止力(軍事力)であっても、抵抗を諦めることなく、何とかしてそれを覆そうとして、可能なあらゆる手段を用いる。それらのテロは抑止しきれない。(アメリカに対するアルカイダやタリバン・北朝鮮・イラン、それにイスラエルに対するハマスやヒズボラなど。)
 「抑止力」(軍備)の費用対効果(コストパフォーマンス)という点では―たとえば、「テポドンを撃ち落すためにミサイル防衛システムに何兆円もの予算を割くのと、東海地震や東南海地震のための災害救援システムの構築や、原油高騰や地球温暖化問題の深刻化に対応すべく代替エネルギー開発により多くの予算を振り向けるのと、今の私たちの生命と財産を守るうえでどちらのほうが適切な安全保障であるか。」(前田哲男ほか「9条で政治を変える平和基本法」高文研)あるいは近隣諸国・北朝鮮とも和解(戦後補償を要するが)・信頼醸成・友好関係構築とそれに基づく平和外交による安全保障と比べて、コストはどちらが高くつくか、である。

 自民党の山本一太議員いわく、「万が一に備えるのが安全保障だ」「これまで日本が攻撃されなかったのは、日米安保の抑止力が機能していたからだ」と。
 しかし、地震や台風など自然災害なら一定の確率で必ず起こり、それを起きないようにするのは不可能であり、「起こさないでくれ」などと説得するわけにも、話し合いで未然におさめるわけにもいかないし、それが起きた場合の対策を事前に講じておくことはどうしても必要だが、人間がしかける攻撃はそれとは全く違うだろう。
 また、仮に日米安保がなく無防備だからといって、ソ連にしろ中国・北朝鮮にしろ、どの国にしても、敵対しておらず迷惑や危害をこうむってもいない(かつてこうむった危害・迷惑に対しては謝罪・賠償など―未だ果たしてはいないが―これから何らかの形で果たそうとしている)日本に対して武力攻撃する必要性がはたしてどこにあるのか。経済的利益のためといっても、日本に侵略攻撃をかけて得られるメリットとデメリット・リスク(日本国民の反発・抵抗と国際社会からの反発・制裁)を計算すれば割が合わないことは判りきっている。だから日本を攻撃しないだけの話しで、日米安保がおっかないから手が出せないなどというものでもあるまい。

 田原氏は、元防衛大学校教授でイラン大使にもなった孫崎氏が(その著書「日米同盟の正体」で)「日本はアメリカの完全な核の傘の下にはない。そのことを前提に安全保障政策を考えなければならない」と述べていることを紹介。
 青木理氏(ジャーナリスト)は、「核武装にかかるコスト、或はそれによって国際的に日本がこうむる外交的なデメリットを考えれば、核武装は非現実的だ。」「孫崎氏のその著書には『なぜ中国が、当たり前のこととして、日本を核攻撃しないかといえば、日中の経済的結びつきを考えたら、また外交的な問題を考えたら、そんなこと出来るわけがない。北朝鮮に対しても、(それと)同じアプローチをしたらどうか』とも書かれている」と。
 また田原氏は「ノドンが危ないというが、私はノドンなんか危なくはないと思う。なぜならば、北朝鮮が経済復興するためには1兆円近い日本のカネをあてにしており、その日本をノドンで攻撃して何のメリットがあるのか」と。

(2)外交に軍事力が必要?
 田母神氏らは、力(軍事力)を持たないと諸国から軽く見られ、国際社会における発言力を持てず、外交力を発揮できないという。
 それは、要するに力に頼り、力に物を言わせる外交であって、力を背景に相手国に対して要求を押し通そうとする「恫喝外交」ともなる。
 それに対する相手国の対応の仕方(外交姿勢)には次の3つがある。①力に対しては力で対抗しようとするやり方で、北朝鮮のアメリカに対するやり方だが、互いに不信と反感を強めるばかりで、緊張を高める危険なやり方。②屈従するやり方で、戦後日本のアメリカに対するやり方。日本人にはそれで平気な向きが多いが、諸外国からはあまり尊敬されず、国際社会で名誉ある地位を(「得たい」と憲法前文で唱っているが)得られてはいない。(日本が北朝鮮からナメられているとすれば、それは日本の軍事力が弱いからではなく、アメリカの威を借りながら力で対応するしか能が無いやり方をしているからだろう。)③相手がどんなに軍事大国・超大国であっても、そのことには左右されず、動じることなく、あくまで道理で対応するというやり方で、最近の米州機構における中南米諸国のアメリカに対するようなやり方。
 いずれにしろ、力による外交からは信頼と真の友好は生まれない。
 外交は軍事力を背景としない対等な立場でこそ、理性と道理に基づく対話・交渉が成立する。そして「外交戦」にどちらが勝ったとか、負けたとかではなく、「ウィン・ウィン」で、互いに利益が得られれば一番よいのだ。

(3)日本の戦争のどこが間違っていたのか?
 田原氏は、第二次大戦で日本の戦争が間違っていたのは「負ける戦争をしたからだ」という。関が原の戦い(徳川方と豊臣方)や第一次大戦(イギリス側とドイツ側)と同様であり、対決した双方のどちらが正しく、どちらが正しくなかったかなど問題ではなく、戦略的に負ける戦をした方が悪いのだ、というわけである。
 この論に対しては、天木直人氏(元レバノン特命全権大使)が「勝てれば善いということになるが、その考えは危険だ」と指摘していたが。
 田原氏の発想は、当時の為政者や支配層と同じ発想で、民衆の立場を度外視した考え方だろう。
民衆の立場から見れば、どっちもどっちで、人々を悲惨な目にあわせた(日本軍・アメリカ軍)双方とも悪いとは思っても、「負ける戦をしたのが悪い。勝っていれば善かった。」などとは思わないだろう。
それに、中国に対しても、東南アジアその他の人々に対しても、日本軍が侵入して占領し軍政を敷き、人的・物的資源を欲しいままに徴発して戦乱に巻き込んだその行為は不当な侵略以外の何ものでもあるまい。
 そして、その犠牲者は日本人310万人、アジア全体で2,000万人。このような未曽有の被害をこうむった諸国民・民衆の立場に立ったなら、単に「戦略的に負ける戦争をしたのが悪い」では済まされることではないだろう。

 また、田母神氏は「日本は追い込まれていて、戦うまいとしても戦争わざるを得なかった。」「日本が植民地になるかならないかのどっちかであって、それ以外に選択の余地はなかったのだ。」「天皇は一生懸命、戦争やるまいと努力したけれども、しようがなかった。」「真珠湾で一発殴った。殴らなかったら今頃日本は植民地になっていたし、東南アジアなどは未だに植民地のままになっていただろう」と。
しかし、この「しょうがなかった」論も、「生存圏の確保」「自存自衛とアジア解放のための戦争」という当時の戦争推進者の発想とまったく同じ発想で、侵略戦争の正当化以外の何ものでもない。
 あたかも、日本が植民地にならないように、またアジアを欧米の植民地支配から解放するために戦争を起こしたかのような言い分であるが、事実は日本が侵略され植民地化されようとしたわけでは全くなく、逆に朝鮮・台湾を植民地支配し、満州を始めとして中国をも植民地・属国化しようとして侵略し、さらに東南アジア諸地域にまで進出して欧米から支配権を乗っ取った。それに、諸国民が抵抗し抗日ゲリラ攻撃を行ない、アメリカ等の連合国軍とともに日本軍を降伏に追い込んで自ら解放を勝ち取った、というのが、中国・韓国・東南アジア諸国・欧米諸国それに日本でも大多数の人々の見方なのである。
 日本は真珠湾攻撃でアメリカに殴りこみをかけたおかげで植民地にならずに済んだかのようにいうが、それも逆で、殴りこみをかけ殴り返されて降参し、未だに日本のあちこちがアメリカ軍の基地にされ続け、「日米地位協定」(日本の警察権・裁判権が制約され、米兵が犯罪を犯しても、基地内に逃げ込んでしまえば日本の警察は手がだせないといった取り決め)や「思いやり予算特別協定」など植民地並みの不合理な協定が押し付けられている現状なのである。

(4)国際社会の安定に軍事力が必要?
 田母神氏いわく、「金持ちが貧乏人よりも強い力を持たないと国際社会は安定しない」と。単純率直な言い方だが、財界(資本家・資産家・実業家たち)など国家・社会の支配層の本音を露骨に言ってのけた言葉のように思われる。現実は先進諸国を初めとして世界の金持ちたちの、まさにこの考え(意向)のもとに、アメリカでも日本でもヨーロッパでもイスラエルでも、各国で軍備・軍事的安全保障政策が行われているように思われるのだ。この言説を聞いて、何故テロリストや「テロ国家」が生まれるのか、その訳がどうやら解ったような気がする。
 その軍備・安全保障政策(防衛政策)は、要するに金持ちたちや「金持ち国」のその富とそれをもたらす経済社会体制を守るためのものなのだ。
 しかし、そのような軍備・軍事的安全保障政策によって、国際社会も国家も安定・維持することができるのかといえば、それは不可能だろう。なぜなら、貧乏人も「貧乏国家」も、金持ちたち・「金持ち国家」の「力」による支配におとなしく従い、じっと我慢し続けることには耐え切れないだろうからである。彼ら、彼の国ではその軍事支配を覆そうとし、弱者の抵抗手段としてテロにうったえ、北朝鮮のような「貧乏国家」は国民が飢えても「弱者の武器」である核・ミサイルを開発し、それを「金持ち国家」にカネを出させる交渉カードにしようとする。
 要するに、テロリストや「テロ国家」を作り出しているのは金持ちたち・「金持ち国家」の「力」による支配にほかならず、テロリスト・「テロ国家」はなぜ絶えないのかといえば、それは金持ちたち・金持ち国家が富を独占し、貧乏人・「貧乏国家」を圧倒的な力で抑えつけようとするからにほかならない、ということだ。それをやめないかぎり、テロリスト・「テロ国家」は無くならないし、金持ちが「力」による支配をやめれば、それらは無くなるということだろう。
 早い話が、金持ちが武力を持ったら、かえってテロリストから狙われてしまうのであって、むしろそんなものを持たずに、カネを(納税や寄付・募金などを通じて)貧者に分配したほうが安全・安心が得られるというものだろう。
 それに、テロリスト・テロ国家には、たとえどんなに強大な軍備を備えても、前述のように、その「抑止力」は効かないのである。
 したがって、このような金持ちたち・「金持ち国家」の「力」によっては国際社会も国家も安定を保ち続けることは不可能だということ。
 そもそも、金持ち・貧乏人の格差をつくる経済社会体制・政治・政策が間違っているのである。その格差・貧困を拡大・放置しながら、人々の不満・義憤を力で抑え付けて社会の平和・安定を保とうとしても、所詮それは不可能なのであり、格差・貧困そのものを無くしてこそ、平和・安定が保たれるのであって、そこには力(軍事力・抑止力)など要らないのである。

 そのような考えに立って地域内諸国共通の非軍事的な安全保障政策をとっているのがASEAN(東南アジア諸国連合)をはじめとする平和共同体であり、今それが21世紀世界の潮流になろうとしているのだ。
(ASEAN―1967年、インドネシア・マレーシアなど5カ国が結成、76年東南アジア友好協力条約TACを締結、77年アメリカを盟主とする軍事同盟SEATOは消滅、TACにはその後日中韓など域外諸国も加入し、現在では東アジアのすべての国、インド・パキスタンなど南アジア、オーストラリア・ニュージーランド、ロシア・フランスそれに北朝鮮まで加入して加盟国は25ヵ国にものぼっている。
 この条約で加盟国は互いに紛争の平和的解決・武力行使の放棄を約し、仮想敵を持つ軍事同盟を排し、対決より協力優先を約束し合っている。
 一方、北朝鮮をめぐって「6ヵ国協議」が設けられているものの、現在北朝鮮が脱退を言い出して頓挫しているが、何とかそれを維持・発展させ「北東アジア非核地帯条約」とともに恒常的な地域安全保障の枠組みの構築をめざす考えもあるが、東南アジアにこの北東アジアを加えた「東アジア共同体」構想もある。
 また、「南米諸国連合」も昨年結成され、アメリカ中心の軍事同盟とは一線を画した地域共同の安全保障体制を構築した。)

 共産党の穀田議員がそのことを指摘したのに対して、村田晃嗣氏(同志社大教授)は、そのような潮流だけでなく、非国家主体のテロ・ネットワーク、それに北朝鮮のような国際的相互依存の枠の外にあるような「ならず者国家」の潮流も依然としてあるのであって、一方の自分の都合のいい潮流だけを議論してもしかたない、とクレームをつけていた。しかし、そのようなテロ・ネットワークや「ならず者国家」の潮流は、地域内諸国共同の非軍事的安全保障体制(不戦・平和共同体)の広がりと充実によってこそ、絶やすことが可能となる、というものではあるまいか。

2009年05月11日

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小川勲 パステル画展  5月6日~11日  大沼デパート米沢店

2009年05月21日

海賊対処法と自衛隊のソマリア沖派遣の間違い

(1)単純な表面的な見方
 ソマリア沖に海賊が横行し、日本関係船舶をも含め各国のタンカーや貨物船が襲われ、被害が多発している。
 これに対して国連安保理が関係国に海賊対策のため軍艦や軍用機を配備するなどの対応を要請決議している。
 米欧(アメリカ軍中心の有志連合軍とEU軍)、中国・ロシア・インドなど十数ヵ国の海軍(軍艦)が、この海域に出動し船舶の警護・救出などに当たっている。
 我が国政府は、海賊はロケット砲など重火器をもっており、海上保安庁では「手に余る」という(海保長官は国会で「遠方への派遣に耐えられる船が海保には一隻しかない。各国が軍艦を出しているところに日本だけが軽装備の警備艇を出すわけにはいかない」などと答弁)ので海上自衛隊を派遣(警察権を持つのは海上保安庁であって自衛隊は、それを「補完」―自衛艦に海上保安官が何人か同乗―するという形をとり)、護衛艦2隻、それに対潜哨戒機(P3C、対潜爆弾もつ)も派遣(ジプチ空港にその拠点を置き、機体警備のために陸上自衛隊中央即応連帯からも派遣)。政府は、それらは憲法違反には当たらないとしている。
 朝日新聞社説も「海賊行為からの護衛は、憲法が禁じる海外での武力行使にはあたらない」としている。
 メディアは、派遣自衛艦は「外国船を二度救った」「大音響装置で海賊を撃退した」(朝日5,13付け「ニュースがわからん」欄)などと「戦果」を報じている。
 日本の船も外国の船も海賊に困っているのだから、それに対処するのは当然のことである。「外国の軍艦が日本の商船を守ってくれるのに、外国の商船が襲われたとき、『日本だけできません』は通用しない。」(元自衛隊幹部で帝京大教授の志方氏)
 それに、シーレーン確保は死活的な国益であり、それに対してあらゆる手を尽くすのは当然のこと。海上自衛隊というものが現に在るのだから、在るものを使うのは当たり前、といったことが自衛隊派遣肯定論である。
 世論調査でも賛成多数(内閣府による調査では63%)である。

 しかし、このような判断は正しいのだろうか。
(2)ソマリアの実態―「海賊」といっても、単なる海賊とは言い切れない。
 そもそもソマリアという国は、1966年までイギリス・フランス・イタリアなどの植民地に分割されていたのが、イギリス領とイタリア領が統合・独立して生まれた。ところが冷戦時代で、ソマリア政府はアメリカに接近、隣国エチオピアでのソマリ族の反乱を支援、エチオピアと武力対立、ソ連はエチオピア軍を支援、米ソの代理戦争の場となった。1991年(冷戦は終わったものの)20年間にわたって軍事独裁を続けた大統領が反政府勢力によって追放され中央政府は崩壊、以後、氏族ごとに武装勢力が割拠、「国連平和執行部隊」―米軍を中心とする多国籍軍―が平定に乗り出しが、武装勢力の反撃にあって(93年、大勢の市民とともに18人の米兵が殺され、死体が引きづり回されるという事件があった)95年米軍は撤収、十数年も無政府状態のまま紛争が続いてきたのである。2000年ジブチで暫定政府が設立、2005年にはケニアのナイロビで設立した暫定政府がソマリア入りしたが、イスラム勢力(「イスラム法廷運動」、原理主義的色合いが強く、アメリカは「アルカイダに操られた組織」と見なす)がそれに対抗した。暫定政府軍はアメリカ軍とエチオピア軍(侵攻)の支援を受けてイスラム勢力に攻勢をかけた。そして今年になって、そのイスラム勢力(穏健派)と和解し、新大統領に彼らの中心人物(アフメド)を選出。新政府は旧暫定政府とイスラム勢力の民兵を統合して治安維持のための軍隊・警察づくりに取りかっている。しかし、イスラム過激派はなおも抗戦を続けている。
 アメリカはソマリアをアルカイダの拠点で「対テロ戦争」の戦場と見なす。 
 2007年アフリカ連合(EU)が平和維持部隊を派遣。
 2009年エチオピア軍撤退。
 国連安保理は本年6月までに平和維持部隊(PKO)設置を検討。

 この間、2006年末以降で、数万人が死亡し、100万人以上が難民になっている。
 生業がなく、そうする他にカネを得るすべのない人々は武装勢力に加わって武器を手にして、かねてよりソマリア人に不信感の強い外国人を襲い、漁民は海賊に化しているのである。(何度もソマリア各地を訪れた写真家の谷本美加氏によれば、「民兵」たちが外貨稼ぎのための外国人誘拐の場を陸から海に移したということにほかならない、というわけ。)
 アフメド大統領は、「海賊は陸上で生活しており、海に住んでいるわけではない。我々は、この人々を知っており、『イスラム法廷運動』の時代には彼らを抑止できていた」(実際、彼が議長を務めていた『イスラム法廷運動』が首都と南部一帯を支配していた2006年当時は、海賊は減少していた)と述べて、米国によるソマリア海賊の陸上拠点への攻撃に反対を表明。国際資金援助が得られれば、1年以内に海賊行為の4分の3は自立で防止できるようになるとし、外国軍駐留に反対をも表明。

 海賊には本来、沿岸国の警備隊が対応すべきもので、ソマリアとその周辺国(イエメン・オマーン・ケニアなど)が各国に求めているのは軍事力ではなく、ソマリアの中央政府と周辺沿岸国の警備能力強化への技術的・財政的支援であり、これら諸国の地域協力体制への支援であろう。

(3)自衛隊を出すとどうなるか
 海賊に対しては本来、警察機関が対応するのが原則。
 獨協大学の竹田いさみ教授は、「海賊対策の要諦は『海のお巡りさん』を育成すること」と書いている(朝日新聞3,16付け「アジアフェローから」)。
 早大の水島朝穂教授は「海上犯罪は海上保安庁で対応するのが筋で、各国横並びで軍艦を出すことはあまりに安易だ」と。
 わが国の海上警察機関は海上保安庁であるが、世界の「海賊の巣」とも言われたマラッカ海峡では周辺各国の沿岸警備隊に警備技術を指導し、大型巡視船を派遣、インドネシアには最新の巡視艇を供与までして、各国沿岸警備隊と連携・共同訓練を行い、情報共有センターも設立、この海域での海賊の激減に主導的な役割を果たしているのである。
 シーレーンの安全確保によって恩恵を得ている最大の受益国として、我が国が沿岸国の警備活動を支援するのは当然のことである。
 我が国の海上保安庁は、大型巡視船(複数の連装機関砲を装備、ヘリコプター搭載)を13隻もっている(「しきしま」はイージス艦なみで4,600万t、ヘリコプター2機搭載。英仏からのプルトニウム運搬船を護衛している。)「抑止効果」ならこれらの巡視船で十分。
 武器使用は、警察官と同様(警察官職務執行法7条が適用)、正当防衛・緊急避難の場合に限って相手に危害を与える可能性のある危害射撃を認めるほか、他人に対する防護、犯人の逃走阻止や抵抗抑止のため警告射撃・威嚇射撃、海保の場合、停戦命令に応じない船にたいする船体射撃も日本の領海に限って認める、ということになっている。
 ソマリア沖への派遣も、通常なら、また、このような海上保安庁の巡視船だけなら問題はあるまい。
ところが、今、そこは紛争地域。しかもそこに自衛隊が派遣されるとなると、紛争当事者はもとより国際社会からは「日本軍」の紛争への介入と見なされ(アメリカ軍が対テロ活動やソマリア本土への作戦を一体的に進める海洋作戦に対する支援―護衛艦や対潜哨戒機が米軍に情報提供を行えば、米軍の軍事作戦全体を支援することになる―とも見なされ)、その武器使用は武力行使と見なされることになる(日本国内では「海賊対策は警察活動だから、『武器の使用』即『武力行使』には当たらない」と説明しても、国際的には軍隊による武器の使用以外の何ものでもない)。国際社会では自衛隊は非軍隊とは見なしたりはしないのである。(自衛隊自身も現地では、警告用の大音響装置で「日本の海上自衛隊だ」と名乗るとともに「日本のNAVY(海軍)だ」とも名乗っている。)
 自衛隊の武器使用は、発足当初は極めて抑制的で、危害射撃は正当防衛・緊急避難のためである場合に限って認められるほかは、警察官と同様、逃走の防止、自己・他人に対する防護、公務執行に対する抵抗の抑止などのための警告射撃や威嚇射撃しか認められなかった。海外派遣が行われだして、それがPKO法からテロ特措法・イラク特措法へと少しづつ拡大されていったとはいえ、自己とともに現場に所在する他の自衛隊員、職務を行うに伴い自己の管理下に入った者の生命・身体の防衛・防護のためといったことに限定されてきた。
 ところが、今度の新法「海賊対処法」案では、それに加え、警護する船舶に「著しく接近し、つきまとい、進行を妨げる」(その判断は現場まかせ)だけで(攻撃を受けなくても)威嚇射撃だけではなく危害射撃(殺傷)をも認め、船体射撃(撃沈)を日本領海以外でも認める。また警護は日本船だけに限らず他国船をも対象とすることに。(アメリカ艦船保護のための集団的自衛権の行使につながることになる。)
 今回のソマリア沖での各国海軍の活動で、イギリス軍は銃撃戦で海賊2人を射殺、フランス軍も2人、アメリカ軍は3人を、人質救出で銃撃戦のすえ射殺。これに対して海賊側は「報復」を宣言し、貨物船にロケット砲攻撃を加えている。インド海軍はタイ漁船の母船を間違って砲撃し撃沈させるという事態を起こしている。
 我が国の派遣自衛隊も、新法が決まれば、その武器使用基準で、このような銃撃戦による海賊の殺害、船の撃沈が可能となり、戦後史上初めて我が国の自衛隊が「殺し殺される」事態を起こす可能性が強まることになる。
 この「海賊対処法」は特措法ではなく恒久法であり、期限も地理的な限定もない。これは、やがて「海賊対処」の場合に限るという限定もなくされて、海外派兵恒久法が制定される突破口となる。

(4)憲法9条はどうなるの
 かつて海外(南満州)の租借地や邦人経営の鉄道(満鉄)を警備するためとして派兵・駐留させたその軍隊(関東軍)が事変を起こした(満州事変)。また居留民保護の名目で北京に駐留させていた軍隊が中国軍との武力衝突事件(盧溝橋事件)を起こし日中全面戦争に発展した。それがさらに「アジア・太平洋戦争」・「第二次世界大戦」に発展、世界史上最悪の惨禍をもたらした。それに対する反省と道義的責任・民族的責任から憲法9条を制定し、国際紛争解決の手段として武力を用いることを禁じ、戦力も(陸海空軍とも)持たないと内外に誓ったはず。
 二度と再び、政府は自国民をも他国民をも一人たりとも戦争の悲惨に引き込み巻き込んではならず、日本国民は自国政府にそんなことをさせないようにする、というのが憲法9条なのである。

 それなのに、政府は何が何でも自衛隊を出すのだという、憲法よりも自衛隊を活用することを優先する考え。麻生首相は「強盗している人たちに対して、こっちも、やられたらやり返さないとしょうがない」などとスピーチしており、朝日新聞社説も「護衛艦の派遣はやむを得ない」などと書いている。世論はこれに対して賛成する向きが多い。日本人の「しかたない症候群」ともいうべきものなのか。そのいいかげんさ。

 日本船主協会常務理事の半田氏は、ソマリア沖を避けて喜望峰回りに切り替えたでは、「用船代・燃料代などのコストが800億円、日数が6~10日余計にかかり、日本経済全体への影響が大きい」と述べている。しかし、それこそ「しょうがない」のではあるまいか。
 ソマリア沖は日本から1万キロ、自衛艦2隻はそこまで行って、アデン湾(東西900キロ)を通る日本関係船を片道2日かけて護衛する。3月末から5月13日まで計17回、護衛した船は55隻で、1回平均3,2隻の割合。民主党は「政府の事前説明(麻生首相は1月末の国会答弁で5~6隻と言っていた)の半数の税金の無駄遣い」として、参院で近く始る海賊対処法案の審議で追及するという。海自では、今後、1回当たりの護衛を護衛船2隻から1隻に減らすことを検討しているという。
 海外派兵(自衛艦・自衛隊員派遣)にかかるコストは国民の税金から支払われるのだ。国民が耐え忍ばなければならないコスト負担というものがあるには違いないが、カネは、むしろ、人々を難民化・海賊化に追い込んでいるその国の経済と治安の自力回復を支援することにこそ当てるべきなのである。
東京外語大学院の伊勢崎教授(国際NGOに加わりアフリカで活動、アフガニスタンで日本政府特別顧問として武装解除を指揮)は「ソマリア沖を避けて、遠回りの航路を選ぶことです。アフリカ南端のケープタウンを回ることも必要でしょう(実際、そうしている商船もあるという―引用者)。そのために輸送日数がかかったり費用が増えたりしても、9条を持つ日本人が払わなければならないコストと受け止めるべきです」と述べている(朝日5,2付け「オピニオン」欄)。

 伊勢崎教授は派兵に猛反対をしない日本人のいいかげんさを嘆いてだと思われるが、「憲法9条は日本人にもったいない」という言い方をしている。
 朝日新聞(1月28日付け)の「声」欄に海上保安庁OBと称する方が寄せた社説批判投稿が載っていたが、その方は次のように書いている。「海上保安庁長官が昨年10月『総合的に勘案すると巡視船を派遣することは困難』と答弁しました」が、「海保の巡視船は世界一周航海ができ、欧州から日本までプルトニウム運搬船の護衛経験があり、北朝鮮不審船対応の武器・防護能力もあります。長官は配下の能力を理解せぬまま、責任を回避した格好です。答弁内容をマスコミや国会は精査せず、まず自衛艦派遣ありきとする政治家の言説に利用されています」と。


2009年05月25日

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4オクターブを越え、美空ひばり・石原裕次郎・さだまさし・ビートルズ・プラターズ・「スタンド・バイ・ミー」・「アンチェインド・メロディー」それに山辺町出身の音楽家遠山敦の「ピース・オブ・スマイル」にいたるまで歌いこなす

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1989年「ミュージック・ステーション」で光GENJIと共演、1991年「R.O.Iアイドル共和国」でSMAPと共演     写真に大きく写っている方は「ハミング・バード」店長の佐々木賢一くん(米沢中央高校吹奏楽部・米沢郵便局出身、米沢男声合唱団・混声合唱団メンバー)

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加藤マチャアキ(公亮)米沢中央高校(野球部)・神奈川大学卒 高畠町.中華食堂「永和軒」店主               H・P(「加藤マチャアキ」で検索)

ご案内

8月26日、午後6:30、伝国の杜で

左右田一平の朗読・一人芝居「月山が見ている」

上山出身の元憲兵で満州の戦犯収容所から帰還した土屋芳雄氏の物語

前売り券(2,000円)、その他詳しくは生活クラブやまがた生協の理事長兼、老人介護施設「結いのき」理事の井上肇さんにお問い合わせを

2009年05月29日

「抑止力、依存か自前か」以外には?

 本紙(27日付)に「抑止力、依存か自前か」という記事が出たが、それを読むと、北朝鮮などからの攻撃を抑止するには、アメリカの抑止力に依存するか、自前の抑止力をもつか、二つのうちどちらかしかなく、日本の安全を守る方法は軍事しかないかのようにも受け取られますが、他に選択肢はないのか、どうなのでしょうか。
 憲法前文で「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意し」9条に「戦力の不保持、交戦権の否認」を定めて不戦を国是としている我国民には、非軍事・外交力によって国の安全を守るという選択肢もあり、それこそが重視さるべきなのでは。
 「自衛的抑止力」のために核実験をしたと強弁している国に対して、アメリカの「核の傘」であれ、「自前の核」であれ、自らは核抑止力にしがみついていながら、相手にその放棄を迫ることはできない。また、いかに圧倒的軍事力を備えても、自暴自棄的・自爆的攻撃は抑止することは出来ないし、相手が一たび攻撃に走ったら、いかに「敵基地攻撃」や「ミサイル防衛」で応戦しても、自国民・隣国民に何万・何十万という犠牲者を出す覚悟なしには守り切れるものではない。
 軍事力を背景にしたりせずに、「道義的責任」と道理をもって誠実かつ必死になって対話・説得する外交力こそが抑止力なのでは。

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