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2021年01月 アーカイブ

2021年01月08日

民主主義って何だ―(その3) コロナ禍で試されてる(加筆版)

民主主義のキーワード
 ① 社会公共(公的領域)の課題に関する決定には人民が直接または間接(選挙・代表者県を通じて)参加―意見がまとまらない場合は多数決
 ② 個人の私的領域(私権)に関しては自己決定権

 世界の国々は大小いろいろ、国によって国民も(社会階級・階層・民族・宗教などが)いろいろで、多民族国家・移民国家もあれば単一民族国家(に近いような国)もある
その国の大多数の国民にとっては、国の統治システム(政治体制の形式)はどうあれ(民主主義であれ権威主義であれ)、それぞれの国民にとって肝心なのは、自分たちの暮らしの安全・安心にとってより有利で満足な政策・決定が行われる実利であって、その方がだいじ。
 多数者(少数の富裕層・資本家階級・エリート層などに対する勤労・庶民階級にとって「より有利で満足できる」政策・決定がなされるには、「人民主権」として全ての国民に参政権(投票権・選挙権・被選挙権など)が与えられていて、多数決によって決定される民主主義システムが最適ではある。しかしそれには、その政策・決定がはたして自分たちにとって「本当に有利で満足できるもの」なのかを自分で見分け見極められる知識・情報・判断力が必要であり、それが伴わなければ、結局、少数エリート政治家あるいはその逆のポピュリスト政治家に依存し、「お任せ民主主義」になってしまう。そのエリート政治家・名望政治家も人格者で「庶民の味方」であるならよいが、下心のある野心家でデマゴーグ(扇動政治家)ならば衆愚政治(民主主義の堕落形態)に陥ってしまう(民衆はごまかされ、フェイク―嘘や詐術にはめられてしまう)
 権威主義(専制・独裁主義)体制でも、その政治家が人格者で「弱きを助け、強きをくじく庶民の味方」であれば、衆愚政治よりは「まし」だともなる。(民主政体には合意決定に時間がかかるという難点があるが、権威主義体制にはその点では即断・果断な決定・執行ができるという利点もある。)しかし、そのような体制の下では、為政者は常に人格者で「庶民の味方」として善政が行われ続けるという保障はないわけである(とかく暴政・圧制に陥る)―「多数者専制」が暴政に陥るということもある(フランス革命ピーク時におけるジャコバン党独裁下の恐怖政治やソ連のスターリニズム或いは毛沢東の文化大革命の時のような)。
 暴政・圧制に陥らないようにするには、やはり民主主義システムの方が確かなやり方だ。それには権力を縛る立憲主義(法の支配)と権力の暴走を防ぐ権力分立(三権分立)がともなう。それに民主主義が「お任せ民主主義」や衆愚政治に陥らないようにするために、全ての国民に主権者として政治に主体的に関与(投票・集会・デモなどにも積極的に参加)する自覚とともに、そのために必要な知識・情報(判断材料)を得る権利(「知る権利」)が、思想・信条・言論の自由および出版・集会・結社などの政治活動の自由とともに各人に保障されなければならない(また権力チェック・監視機能をもつメディアには報道の自由が保障されなければならない―権威主義体制では権力によって国民が監視されるが、民主主義ならば国民の方が権力を監視し、権力側が握っている情報を必要に応じて開示させ、説明を求めなければならない―メディアにはその役割がある)。
 民主主義は、無条件では、最も優れている政体だとは云えず、権威主義体制と比べれば民主主義のほうが「まだましだ」とも言えない。
 民主主義も(形式的民主主義で)システムとしては整っていても、国民に主権者意識に欠け、知識・情報など「知る権利」と思想・言論・政治活動の自由が充分保障されていなければ、あるいは保障はされていても、国民にその気(主権者意識・責任感)と「不断の努力」がなければ、民主主義はうまくはいかない。(有力政治家や政党に)「お任せ民主主義」になってしまっては、権威主義体制と同然になってしまう。その指導者・為政者が有能で信頼できる人物であれば、任せっきりでもかまわず、庶民は「政治なんかに」煩わしい時間を割かれずに済んで(生業や余暇に専念できて)楽にできるし、選挙や投票や審議・決定に時間がかかり過ぎるよりは権威主義体制の方が「ましだ」となってしまう。
 
 その(民主主義の)良し悪しは、それによって為政者の統治が国民の大多数にとって恩恵が得られ、安心・安全が得られているか否かで国民は評価するのだから。(大多数の国民にとって安心・安全とは「恐怖と欠乏から免れ平和の裡に生存する権利」が保障されることにほかなるまい。)恐怖とは外敵との戦争や内乱など戦災と自然災害(天災)(コロナ禍もその部類)であり、欠乏とは飢餓・貧困。国民はそれら(恐怖と欠乏)から免れ、平和の裡に健康で文化的な生活を営む、その暮らしが、その政治体制の下で保障されていることこそが国民にとっては一番肝心なことなのでは。

 民主主義であれ権威主義であれ、政治体制が、コロナ禍(感染症の恐怖)のパンデミック(世界的流行)で、各国とも試されているのだ。
 それぞれの国の政治体制下でコロナ対策は巧くいっているのか、政治体制の不備・矛盾が露呈していないか(コロナ禍に遭っても恐怖と欠乏を免れているのか)どうか。
●アメリカ合衆国(人口3億2700万人、少数の先住民インディアンとヨーロッパ・アフリカ・アジアから渡ってきた色々な人種の移民から成る多民族国家)の場合はどうか
  感染者数2261万8066人 うち死者37万6280人(1月13日現在)
●中国(人口14億3500万人。大多数(9割)が漢民族で、他にモンゴル系・チベット系・ウイグル系・満州系など50以上の少数民族から成る多民族国家―統一維持の重要性)の場合はどうか
  人口14億3500万人。大多数(9割)が漢民族で、他にモンゴル系・チベット系・ウイグル系・満州系など50以上の少数民族から成る多民族国家―統一維持の重要性。
  感染者数 9万6920人 うち死者4793人(1月13日現在)
●韓国(人口5182万人)の場合は
  感染者数6万9651人 うち死者1165人(1月13日現在) 
●ベトナム(人口9500万人、社会主義体制)の場合は
  感染者数1590人 うち死者35人(1月14日現在)
●日本(人口1億2590万人)の場合はどうか
  感染者29万9021人  死者4190人(1月13日現在)  

 日本は、民主主義の現体制を基本的に維持するとしても、感染症などのパンデミックや大地震・津波など災害有事に際しては最悪の事態まで想定した災害対策・感染症対策など有事体制を構想し、必要な準備を予めしておくことが肝要。(中国の「権威主義」体制が望ましいとは思わないが、日本ではロックダウン(都市封鎖)をして全市民にPCR検査・感染者隔離措置を断行するようなことはできないなどと決めてかからずに、それが感染爆発・医療崩壊など最悪の事態を招かないようにするために有効であり必要不可欠ならば万難を排して断行することができるようにしておくべきだろう。)
 その準備には、平時には、医療機関・保健所など、多すぎ「不要不急」で無駄だとして見なされ、統廃合されてきた施設(専門病院・病床)・人材(医療従事者)の復活・確保も必要。
 人が起こす戦争とは異なり、自然災害や感染症はいつか必ず起こるもの。兵器や軍事施設などのように無駄になるということはあり得ないのだから。
 尚、ロックダウンして移動の自由や営業の自由を制限するなど、我が国の現行憲法では(改正して緊急事態条項を新設しない限り)不可能であると決めつける向き(改憲派)もあるが、現行憲法には12条に「この憲法が国民に保障する自由および権利・・・・国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負う」とあり、また13条には「生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重」とあり、憲法が保障する自由および権利(基本的人権)は「公共の福祉」により制約される場合があるのだ、ということだ。その災害対策や感染症対策などに際する「公共の福祉」のための非常特例措置を可能とする法律が制定されている。現に災害対策基本法や感染症法・医療法(感染症による入院隔離措置などの規定)があり、いま今回のコロナ禍で発せられている「緊急事態宣言」は新型インフルエンザ等感染症対特措法に基づいている。この感染症法や特措法に関して、いま罰則など強制力を強める改正案が検討・議論がされているが、これら現行の法律を改正するなり、「感染症対策基本法」などの新法を制定するなりすれば、ロックダウン等もっと徹底した非常措置を講じることは現行憲法下でも可能なはず。(強制的移動制限―交通規制や遮断―等の規定は現行の感染症法33条にあるが、その実施期間は最長わずか3日間に限定されている。これなどは「数週間」とするように改正すればよいのでは。)

 民主主義が「何」であれ、それぞれの国民にとっては、国や政治のあり方として最も大事なことは、全ての国民に「生命・自由および幸福追求に対する国民の権利」が保障されていることなのではあるまいか。その国で暮らせば「生命」と「健康で文化的な最低限度の生活」、「自由」(といっても、それは単に「自分の思い通りにすることができる自由」なんかではなく、自己の能力・個性・主体性の存分発揮すなわち自己実現と「恐怖と欠乏からの自由」すなわち平和的生存権など)、そして何人も幸福を求めて生きようとする権利すなわち「幸福追求権」が国家によって保障される、そのことが一番大事。

 日本は民主主義国と言われるが、この国の政府によって国民は誰もが「恐怖と欠乏から免れ」て暮らせているかだが、今は感染症の恐怖とそれ(感染対策による営業・生業・雇用等の縮減)に伴う欠乏にさいなまれている。
 
 感染症のパンデミックで、今はどの国も深刻な状況にあるが、とりわけ米国は、「民主主義の手本」などと云われる国だが、大統領の「暴政」・「分断政治」と思われるような言動や政策もあってコロナ禍は惨憺たる状況にある。
 「自由の国」ということで言論・表現の自由、集会・デモ・結社の自由、それに銃の所持の自由まである。そしてツイッターなどでフェイク情報や煽り演説、集会・デモに武装集団が加わり、議事堂に乱入・占拠するという事件まで起きている。(大統領のツイッター書き込みに対してツイッター社がアカウントを停止する、といったことも行われている。)

 一方、中国では、アメリカとは対照的に行政当局が徹底して規制を加え、政府に批判的な言論や政治活動を抑えこむ―情報統制。(ネット書き込み等はアダルトや暴力を楽しむ有害サイトや人を誹謗中傷する書き込みを削除するだけでなく、政府に批判的な論評をする特定サイトへのアクセスをブロック、書き込みを削除。)
 香港(かつてのイギリス領で近年返還され、「一国二制度」として自治を認めてきた特別行政区)における反政府的を動き(国の分裂や転覆につながる行為)に対しては徹底して取り締まる方針をとっている。
 中国はコロナ禍の震源地でありながら、その実態を明らかにせず、情報を隠蔽、それが感染を世界にまん延させ、被害を拡大させた、というので責任を問う向きがあるが、新型ウイルスの存在と人への感染が最初に発見・認知されたのが中国であるのは事実だとしても、様々謎が残っていることも事実。100年も前、第1次大戦中、戦没者を遥かに上回り、5000万~1億人、日本では40万人もの感染死者が出たパンデミックは「スペイン風邪」と称されるが、その発生源はアメリカで米兵がヨーロッパに運んだか、フランスの英軍駐屯地か、ヨーロッパに動員された中国人労働者か諸説あり、未だに不確定であり、断定は難しいとされている。しかし、最初に感染が確認された武漢をはじめ真っ先に感染拡大の兆しが見られた中国では、厳しいロックダウン・境界規制やPCRの大規模検査・感染者隔離、携帯電話の履歴を通じた感染者との濃厚接触者を追跡する監視網などによってさらなる感染拡大の抑え込みに成果を上げている。そしてGDPは、主要国(軒並みマイナス)の中にあって唯一プラス成長。

 他に、北欧諸国やニュージーランドなど民主主義がうまくいっている国やコロナがうまく抑え込まれている国があるが、それらの国を羨ましがるのもいいが、この国(日本)の民主主義を可能なかぎり良くする方法を考えたほうがいいかな。憲法だけを見れば、この国には、どの国にも劣らない民主的な平和憲法があるのだから。

2021年01月27日

憲法カフェでの話題から考えついたこと

参会の方々から提起され交わされたお話から当方が考えついたこと。

(1)自衛隊について―9条を変えるのではなく、自衛隊の方を変えては
 ①自衛隊は災害など何かあると有難がられ感謝されるが、「違憲だ」と云われると隊員やその身内の人は傷つき、肩身の狭い思いをする、だから合憲となるように改正すべきだ、という論について。
そういうふうに(自衛隊の当事者たちのプライドを傷つけるように)させるのは憲法(をつくった者)のせいではなく、「自衛隊」をつくって(警察予備隊~保安隊から改編して装備を拡充し、米軍の同盟軍として)実質的に軍隊化させてきた政権党政治家の責任なのであって、それを憲法に照らして「違憲だ」と指摘する論者の責任ではあるまい。
 だから自衛隊に対して(その当事者たちの心を害するような)違憲論なんか生じる余地のないように憲法を変えてしまえというのは間違いで、皆がしっくりゆくように変えるのであれば、自衛隊のほうを変えるべきなのでは―憲法が禁じている軍隊的側面(軍事の部分)を取り除いて、災害出動や領域(海上・領空・国土)警備や非軍事国際貢献などに特化するなど。
 ② 非軍事国際貢献について
 アフガニスタン紛争下で
  中村哲氏らペシャワール会はNGO(非政府組織)だが、彼らの偉業は、アフガニスタンで、医療だけでなく、あのような大規模な灌漑用水路建設工事をやってのけ、荒野を緑野に変えたという壮大なボランティア事業であった。
    伊勢崎賢治氏は国連職員・日本政府代表としてアフガニスタンで軍閥の武装解除を指揮した。
    ところが政府はアメリカのアフガニスタン侵攻を支援して自衛隊をインド洋に派遣し米軍の後方支援に当たらせた。
    自衛隊を海外に派遣するのであれば、(米軍を後方支援するなど)中村氏から「有害無益」と評されたようなやり方ではなく、中村氏らがやったような医療・灌漑などの事業に非武装でたずさわる平和的国際貢献であって然るべきだろう。

(2) 「お金でではなく、現物で」ということについて(T先生が提起された話題から)
 ① 交換・貨幣経済(商品・市場経済)―売って代金を得る、取引と購買の関係、債権と債務の関係―富や金銭・利潤の追及
   見返り(代金・金銭的報酬・利子・利潤)が目的
   売るもの(商品)があり、購買力のある者しか参加できない
   労働者は労働力が売りもの(すなわち商品)―賃金はその代金
   資本家は労働者を雇い(労働力を賃金で買って)彼らが稼ぎ出した生産物(それには剰余価値が付加されていて、それが利潤となる)を売却して利潤(儲け)を得る
 ② それに対して贈与経済(ギフト・エコノミーorボランタリー経済)―必要としている人に与えるのが目的、というやり方
   カンパは「お金」で行われるが、寄付は現物でも行われるし、ボランティアは労働で行われ「時間の贈与」とも云われる。
   それは「善意」(自然の人間心理で利他的欲求・相互協力欲求)から発し、任意(相手から「見返り」があろうとなかろうと、こだわらない)で、相手の必要(ニーズ)に応じて与える―但し、見返りを期待しないとはいっても、「与えれば、いつかは誰かから返ってくる」との期待が人間心理としてある。そこから互いに「お金」では量れない「善意」から発するサービスのやりとり・・・・「ボランティア切符」や「地域通貨」(エコマネー)のやりとり―なんらかのサービス(奉仕)の対価として受け取り、それを使ってまた別のサービスが受けられる。
 ③ 憲法25条「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」し、
 「国は、すべての生活部面について、社会福祉・社会保障および公衆衛生の向上・増進に努めなければならない」ということで、これには国民の権利と国の責務が定められている。そこで後者(国が行わなければならないこと)について―
   「生活保護」も、食糧は現物支給(炊事などできない場合は宅配弁当)(衣料・日用品も?)、住居は無料、医療・教育は無料、ただし「文化的な生活」の部分(新聞・テレビ・端末など)の経費は給付金。
   子供食堂・フードバンク・炊き出し等も、民間ボランティア任せではなく、国の責任で常時提供(或いは助成)するシステムがあって然るべき。
   
(3) 核のゴミ(使用済み核燃料)の始末―最終処分場の問題
 T先生は「まず原発は再稼働せずに廃絶して、これ以上始末のできない核のゴミを出さないようにすること」その方が先なのであって、その議論(核のゴミをどこに埋設するか等のこと)は、それからだと。
 そもそも核のゴミを「埋め捨てにするのは正しくない」と(日本学術会議2012年)。(小出・元京大原子力実験所助教によれば)再処理し「ガラス固化体」にして地中の底深く埋めても、「高レベル放射性廃物」は、この日本のような地震国ではどこでも10万年もじっとさせておくことなどできないのであって、核のゴミはそれを作り出した世代が「黒い目で監視」できるところに、とりあえず置いておくしかなく、そこから後の始末は専門家の知恵を集めて考えるしかないのだと。

(4)憲法の「制限規範」性と「授権規範」性(S・T先生から提起された話題から)
 憲法の主たる目的は国民の人権保障なのであって、憲法には、その人権の内容(平、が定められ、それを保障するために奉仕する国家の諸機関の役割と権限が定められている。憲法はその人権規定と統治機構の規定から成りたっていて、後者の統治機構について国の諸機関に権限を付与するのが授権規範であり、その権限の行使を制限し濫用を禁じるのが制限規範。現行憲法では憲法によって授権されている国家機関としては、国会に立法権・国政調査権、裁判所に司法権・違憲立法審査権、内閣には行政権(それに警察権も含まれる―自衛隊の運用権限はその延長線上にあるというのがこれまでの政府解釈)と外交権・条約締結権が授権されているが、軍事に関する権限(軍事権)はどこにも書かれていない。
 今、自民党などが企図している改憲(加憲)で、9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認という制限規定)に「その2」として「前条の規定は‥‥自衛の措置をとることを妨げず、・・・・自衛隊を保持する」などと書き加えられればどうなるか。
 それは国(政府)に自衛隊運用(軍事)の権限が憲法によって授権されることを意味する。これまで自衛隊法など法律によって授権され認められてきた自衛隊の運用権限は、最高法規たる憲法(9条)によって(自衛隊の武力行使など)軍事は制約を受けてきた。それが憲法に「自衛の措置・自衛隊の保持」と明記され、憲法によって国(政府)にその権限が付与(授権)されたとなれば、政府の自衛隊運用(軍事)に対する許容度が格段に高くなる(集団的自衛権の行使や敵基地攻撃など、これまで控えられてきたことが堂々と行えるようになる)わけである。(国の軍事に対する「制限規範」であるはずの9条が授権規範に変質してしまうことになる。)
 また、「緊急事態条項」の加憲も企図されており、憲法にその条項が「大地震その他の異常かつ大規模な災害により、国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情がある場合、内閣は政令を制定することができる」などと内閣への授権規定が書き加えられたりすれば、今、コロナ禍で感染症対策特措法の改正案が国会で審議され、野党から批判や反対のある改正事項(命令違反に罰則規定など)のようなものも、内閣(政府)の一存(閣議決定)で政令として制定され、権限の発動ができるようになってしまう。
 これらのことも、そもそも権力制限規範であるはずの憲法が授権規範性を強める結果(変質)を招くことになるわけである。

 

このところウオーキングは、いつもの「平和憲法の歌」とともに「イヨマンテの夜」を、声をはりあげながら歩いている。 ♪ アーホイヤー・・・・・ ♪

2021年01月28日

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          腰掛けている左の3人が 「福島三羽ガラス」
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伊藤久男     野村俊夫     古関裕而
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         伊藤久男

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