米沢 長南の声なき声


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国民国家に軍備はプラスかマイナスか?
2024年08月09日

 駒澤大学の加藤聖文教授は、国民国家は「歴史的に革命や戦争のなかで国民意識と連帯感が生まれ、維持され」、「国民意識を高め連帯感を維持させるために戦争は手っ取り早い手段にもなる。」「戦争は特定の為政者による野心で起こるものではない。むしろ、ナショナリズムに目覚めた国民が戦争を望むことも多い」と。
 もしそうだとすれば、そのような国民国家軍備があると国民は他国に対して友好・協力よりも武力で対抗し、軍事対決する方へ傾き、紛争を武力に訴えて力ずくで決着を付けようして戦争に走りがちとなる。つまり、戦争は望ましくないと考える平和主義の立場に立つかぎり、国民国家が軍備(軍隊・武器・兵器)を持つのはマイナスだ、ということになるでは?
 国民意識を持ち、同じ国民同士が連帯感・愛国心を持つのはいいとしても、それが自国第一主義で自国民の安全・生存のために他国民を犠牲にするようなことがあってはならず戦争(殺傷・破壊の交戦)は絶対避けなければならない軍備は戦争に備える準備にほかならず、戦争の火種となる(それに火がついて戦争になる)。
 軍備といっても日本の自衛隊は「専守防衛のための必要最小限の実力」(であって憲法9条2項に保持することを禁じている「戦力」には当たらない)と称しているが、日本の場合は(第2次大戦後、憲法で戦争放棄と戦力不保持を定めながら)世界最大の核軍事大国アメリカを同盟国として、その米軍駐留基地とともに保持している自衛隊は、その自衛隊だけで軍事力は世界ランキングで米国・ロシア・中国以下ではあるが第7位という上位にランク。それを日本国民の大多数が支持している。
 これらのことについて考えてみたい。
(1)国民国家とは―中世以来、国王と諸侯・騎士との間で領地の授受を通じて主従関係が結ばれ(家臣は主君に軍事奉仕)、王侯たちがそれぞれ領地を分権支配し、領民はそれぞれの領主に従うという封建国家体制だったのが、一人の君主(絶対君主)の下に権力が集中(中央集権化)し、その絶対君主が役人(官僚)と常備軍(傭兵)を使って全領土を一手に支配する(それに全国民が臣民として服す)という国家体制に変わり、さらに(フランスの場合)革命によって市民が絶対君主から権力を奪い、君主の傭兵も廃して市民義勇軍(民兵・国民軍)が対外戦争に携わるようになり、そのあげく国民皆兵の原則の下に徴兵制(兵役義務制)が採られるようになって、欧米各国それに日本でも明治以降そのやり方(国民皆兵原則と徴兵制)が採用されることになった。
 フランス革命・ナポレオン戦争・アメリカ独立戦争、ドイツ統一戦争・イタリア統一戦争それに日本の明治維新なども、それぞれ革命や戦争を通じて国々は「国民国家」をなすようになった。
(日本には徴兵制が明治以降1873年から太平洋戦争が終結した1945年廃止されるに至るまで存在。その間、日清・日露戦争、シベリア出兵、満州事変・日中戦争、太平洋戦争があり、徴兵された成年男子が従軍。)
(2)世界はこのような国民国家諸国に分かれていて、人々はそれぞれの国家に「国民」として帰属―国旗を仰ぎ国歌を唱和すること等によって一体感・連帯感を持ち「国民」意識(他国民に対しては対抗意識)持つ(ナショナリズム)→自国第一主義へ。
 国民国家―他国の脅威や侵害に対して「自分の国」は自分たち「国民」が守るという意識で軍隊に志願、徴兵にも進んで応じて入隊。。
(国歌といえば日本の国歌は「君が代」で、あのような歌詞と調子だが、フランス国歌や合衆国国歌・中国国歌となると、まるで進軍歌か戦いの歌だ。
 フランス国歌―「いざ祖国の子らよ!…武器をとるのだ、我が市民よ!…進め!進め! 敵の不浄なる血で耕地を染め上げよ!…汝を守る者と共に戦わん 御旗の下 勝利は我らの手に…」
 アメリカ合衆国国歌―「・・・砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中 我らの旗…ああ星条旗…恐れおののき息をひそめる敵の軍勢…愛する者を戦争の荒廃から絶えず守り続ける国民であれ…」
 中国の国歌―「いざ立ち上がれ…我らの新しき長城を築かん…起て!起て!…万人が心を一つにし 敵の砲火に立ち向かうのだ!…進め!進め!進め!」
 ウクライナ国歌―「ウクライナの栄光は滅びず…朝日に散る霧のごとく敵は消え失せるだろう…我らが自由の土地を自らの手で治めるのだ…自由のために身も心も捧げよう 今こそコザック民族の血を示す時ぞ!」     
 オリンピックは「平和の祭典」といわれるが、表彰式などでは国旗掲揚とともに国歌が吹奏される。その国歌はこんな歌詞なのだ。「平和の祭典」というよりも「国威発揚の場」というか戦意高揚の場みたいにさえなってはいないか。)
(3)国民国家(国外の脅威・侵害から国民を守る国防、国内の治安を維持する警察法律を制定する立法法秩序を維持する司法国民に教育・福祉・社会保障・公衆衛生・インフラなど公共サービスを提供する行財政)によって居住・生活の権利と安全が保障され、法秩序に服し、国家に財政資金を提供する納税などの義務が課せられている。
(4)諸国家は国ごとに国防のために軍備(軍隊・武器・兵器)を保持し、その資金は国民の税負担によって支えられ、軍隊の兵員も国民の志願(職業軍人)或いは兵役義務(徴兵)によって集められる。(徴兵制を採っている国-ノルウェー・スウェーデン・フィンランド・デンマーク・スイス・オーストリア・フランス・ロシア・ウクライナ・イスラエル・イラン・トルコ・エジプト・南アフリカ・ブラジル・タイ・ベトナム・モンゴル・中国・台湾・韓国・北朝鮮など60ヵ国以上、その他アメリカ・イギリス・ドイツ・オーストラリア・日本の自衛隊などは志願制)
(5)国家間には対立・紛争があり、戦争もある。その際に、国民に愛国心・連帯感(ナショナリズム)ひいては敵対感情が強まり、国民が好戦的になって戦争激化へ―軍備(軍隊・武器・兵器・軍事同盟)は「戦争を抑止するためのもの(抑止力)だ」などといっても、国民は敵対感情の激化によってそれ(武器・兵器)にとびつき戦争に走りがちとなる。軍備が(軍隊も武器・兵器も)なければ戦争はやりようがなく、国民は敵対感情や「攻撃欲動」に駆られることもなく、冷静に対話・交渉を尽くして対立・係争を解決するしかないのだが、軍備・兵器があるばかりに戦争になってしまうのだ。
 軍備は(自衛隊であれ同盟国の軍隊であれ、装備する武器・兵器であれ)それらを「抑止力」などと称して、それが「他国からの侵攻・武力攻撃を思いとどまらせて戦争を抑止し、平和と安全を維持する手段なのだ」と正当化されるが、それらは相手が実際、侵攻・武力攻撃を仕掛けてきても、いつでも直ちに応戦し反撃・撃退できるように万全の準備を整え待ち構えているということであって、決して戦争はせずに不戦を貫くということではない
 このような軍備を持つことの弊害―それ(軍備)を持つと他の国々を同盟国・同志国・友好国(「味方」)とそうでない国(「敵」)とを分け隔て、敵方の国々との間は不信感の方が先立って対話・信頼構築が疎かになり、軍事対決に傾きがちとなる。そして双方とも軍備増強・軍拡競争へと緊張が強まり、それが戦争の火種のなる(双方とも国民の間に不安・恐怖がつきまとい、心理学上「死の欲動」―攻撃・破壊衝動―に駆られて戦争に火が付いてしまうようになる)。
 尚、核兵器はあくまで「抑止力」として保持しているだけ使いはしないと云っても、相手が攻撃を仕掛けてきたら、或いは仕掛けようとしたら核兵器で反撃するとか、形勢不利・窮地に陥ったら「かくなるうえは」とか「いざとなったら使うぞ」という意思(戦意)をもっていることが前提になっているので、決して使われないという保証はないわけである。(ウクライナ戦争でロシアは核兵器を使うかもしれないとほのめかしているが、ウクライナ軍は抗戦・反撃を続け、核保有大国アメリカもそれを支援し続け、双方とも今のところ通常戦力で交戦を続けている―米ロの直接対決・核戦争は今のところは抑止されているが。アメリカのオバマ大統領当時、「核兵器の先制不使用」を宣言したのに対して日本政府が反対を申し入れ、それを受けて核先制不使用は断念したとされているが、それは日本政府が中・ロ・北朝鮮などに対するアメリカの核兵器先制使用を容認する意思の表れであろうし、なんとも恐ろしいことこのうえもない。)
 また圧倒的な核軍備を持つ大国とその同盟国に対して非対称な弱小国の自暴自棄的な(かつての日本軍のような)玉砕戦法や過激派勢力の自爆テロには抑止力は効かない
 軍備は他国が武力攻撃や侵攻を仕掛けてくるのを思いとどまらせ、くい止める「抑止力」「対処力」のためのものだといっても、それで必ず抑止でき、くい止めることができて安心・平和でいられるか(相手は決して仕掛けてこないし、立ち向かってもこない)という確証はないわけだ。
(6)したがって軍備は「抑止力」とか自衛・防衛「対処力」だなどと云っても、結局戦争につながる戦争の火種(誘因)をなすものにほかならず、平和にとっては有害無益。それら軍備はむしろ保持しない方がよく、撤廃すべきなのだ。
(7)国民国家であること自体は良しとしても、又ナショナリズムも愛国心もあったっていいとはいっても、国旗・「日の丸」は、人によっては、かつて戦争して被害・惨害を被った相手国民、或いは自国民の中にさえもある歴史的感情からなじめないか反感を持つ人もあり、(オリンピック憲章の規定から本来「国家間の競技ではなく個人またはチーム間の競技」であって国別対抗戦ではないはずの)オリンピックでの日本選手応援も、あくまでその人がなじみのある選手またはチームを応援するのはいいとしても、自国選手を応援するのは国民であるかぎり当然のことで、応援しないのは「非国民だ」とか、「国家の名誉」ため頑張れなどというのはお門違い。ましてや「国家の名誉のため全力をあげて」戦争も辞さず力(軍事)には力(軍事)で対抗しなければならないかのような軍事容認の安保政策は、日本国憲法が前文に掲げる「国家の名誉」には全く反する「とんでもない」お門違い
(8)国民国家では、国民は国家(政府)に対して一体感を覚え、他国に対してとかく必要以上に強く意識して脅威や嫌悪を覚え、軍備(武器・兵器)があれば国民は「愛国心に燃え、闘争心が燃えて」「国を守れ」とばかり、こぞって武器を取り戦争に走ってしまいがちになる。故に国民国家では軍隊・軍備はむしろ保持しない方が賢明なのであり、保持すべきではないのだ。
(9)但し、一国だけでもコスタリカ(領域警備などのための警察力は保持しても軍隊は持たない)のように自国憲法で軍隊を廃止することも不可能ではないが、どの国も軍備・軍隊は持ち合わないようにするのが最良(国連で各国が合意して)。
 国連は憲章で戦争禁止・武力不行使原則を定めている以上、軍備全廃を決めていいはず。(国連委は、国々がその合意・決定を実行し守っているか査察、違反を取り締まる警察機関が必要。)

 とにかく国民国家が互いに軍備・軍隊を持ち合って力(軍事力)対力で対抗し合っては国民はどうしても戦争に走りがちとなり危険。だから国民国家には警察(領域警備)はあっても戦争する軍隊・軍備はいらないのだ・・・・と思うのだが如何なものだろうか。

 <参考>2024年8月3日米沢市内での駒沢大学・加藤聖文教授の講演『戦争はなぜ起きるのか』


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