●1、戦争は無くせないのか
(1)戦争時代の始まり
人間は(原始社会から)農耕・文明社会になってからというもの、土地・領域・産物・資源・労働力などの領有・権益・支配権を巡って部族ごとに小国ができて国々が抗争、征服・統合が行われ、征服国家・大国も興亡、或いは宗教から異教徒・異端との争乱もあり、古代から中世・近現代にかけて世界各地域で戦争が展開されるようになった。それらにはあからさまな略奪・侵略戦争や争奪戦もありはしても、戦争の度に戦う双方とも国のリーダーたちはそれぞれ大義名分(戦いを正当化する理由)を掲げ、「正義」の名の下に戦いに臨むという場合が多かった。
それで石器時代の狩猟用の弓矢や槍が、人間同士が殺傷し合う戦争用の金属製武器に変わり、それ以来、刀剣・槍・弓矢から火薬・鉄砲・大砲・軍艦・機関銃・戦車・戦闘機・潜水艦・毒ガス・無線通信なども戦争を通じて科学技術とともに発達・進化していった。
そして国々では、これらの武器(殺傷兵器)を装備した軍隊(常備軍)が編成され、闘い殺し合った。
18世紀後半(フランス革命軍とドイツのプロイセン王国などヨーロッパ諸王国同盟軍の戦争が始まり、ナポレオンが頭角を現した当時)ドイツの哲学者カントは「永遠平和」論で、(人間の本性はそもそも利己的で邪悪なのであり、国家もまた然りで、どの国もみな自国の利益を追求し、そのために戦争に走りがちなのだが、そのために損害を被るようなことはしたくないし避けたいもの。ならば戦争して損害を被る方がかえって割が合わないことにもなる、ということを皆が理解し合って、国家間で国際的な平和連合を組んで公平な共通ルールを定め、それを守り合って友好関係を築いた方が、どの国にとっても有益なのでは、という考えで)国際的な平和連合構想を説くとともに、各国の常備軍(軍隊)全廃まで説いた。
(2)20世紀になり、第1次大戦(戦場は主にヨーロッパ)は(戦場で戦闘に携わる兵士だけでなく全国民が駆り立てられ、巻き込まれる)国家総力戦となる。その第1次大戦が終結して(1920年)国際連盟・創設→(1928年)パリ不戦条約→(1931年)満州事変→(1932年)ドイツでナチス第1党に→(1933年)ヒトラーがドイツ首相に就任、日本次いでドイツも国際連盟を脱退。
1932年、国際連盟がアインシュタイン(ノーベル物理学賞を受賞した科学者でユダヤ系ドイツ人、1933年アメリカに亡命)に「今の文明において最も大事だと思われる事柄を、一番意見を交換したい相手と書簡を交わして下さい、と依頼。彼が選んだ「最も大事な事柄」は「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」ということで、意見交換の相手はフロイト(心理学者・精神分析の大家でユダヤ系オーストリア人)だった。
アインシュタインはフロイトに手紙を送って、戦争を無くすための方法について自説を述べ、「すべての国家が一致協力して一つの国際機関を創りあげ、その機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねる。個々の国に対しては、この機関の定めた法を守るように義務づけるのだ」。そうして戦争をするかわりに国際的な裁判を行い、力ではなく法によって問題解決すればよい。」「但し判決が下っても、それが実施されないなら意味がなく、司法機関(国際司法裁判所)は、その決定を実際に押し通す力を備えた集権的な権力が国際社会に成立しないことには、裁判によって戦争を全て無くすことはできない」(法と権力は分かち難く結びついている)のだと。
それを受けてフロイトが返信。その見解は①法の支配は(権力というよりは)暴力によって支えられている。それが破綻して(反乱・内戦あるいは対外戦争)によって倒され他の暴力にとってかわられる。一つの暴力が他を制圧して集権的な権力を打ち立てて再び
法の支配が回復。征服戦争によって大帝国―例えばローマ帝国のローマ法による支配の下に平和―「ローマの平和」が招来。「平和のために戦争が必要」とされるのだ、というわけ。人類史上このような帝国は何度も成立したが、いずれも崩壊し、分裂。他の(国・勢力の)暴力によって制圧・統合がなされるも、地球全土の「永遠の平和」は未だかつて実現していないと。②(心理学上)人間の心には人を行動に駆り立てる無意識の衝動で「欲動」というものがあり、それには「生の欲動」(自己保存欲動)とともに「死への欲動」があり「死にたい」という欲動が内にむけられること(自殺や自傷)もあるが、それが外に向かう「攻撃・破壊欲動」がある(人間は本来、心に暴力性・攻撃性をもつ、ということか)。しかしそれらを、自我(エゴ)を超えた超自我((スーパー・エゴ)の(「汝、殺すなかれ」とか「盗むなかれ」とか)「天の声」ともいうべきものが心に生じ(攻撃欲動が内に転じて「人を殺すくらいなら自分が死んだ方がまし」だとか)、良心・道徳心、或いは暴力や戦争(殺傷・破壊)などに対する嫌悪感によって抑制し、好戦的傾向が平和愛好的な心に変わっていけるし、(「集団における超自我」ともいうべき)文化が発展するにつれ、人は戦争を憤り、嫌悪するようになって、(戦争文化から平和文化へと)文化の発展が人の心の有りように変化をもたらすともいう。
しかし、全ての人々が平和愛好的な心に変わり、平和主義者が世界の主流になる日はまだ遠い、ということで、二人の往復書簡の結論は結局
①戦争根絶のための国際機構を成立させることはできそうもない。
②人の心には戦争を引き起こす性質があり、それを取り除くことはできそうもない。
という悲観的なものだった。●2、国連はどうして戦争を無くせないのか、止められないのか?
(1)第2次大戦 1939年 勃発 (フロイトはこの年に死去)
第2次大戦はドイツ・イタリア・日本などの枢軸同盟国に対してアメリカ・ソ連・イギリス・中国などの連合国が戦い、兵器は地雷・航空母艦・重爆撃機で長距離・無差別空爆など破壊力はさらに高くなり弾道ミサイル(ドイツのVロケット)、核兵器(原子爆弾)まで登場し、大量殺戮・大量破壊・難民の発生などの悲惨・惨劇をもたらした。
そしてイタリアが降伏し、その後1945年ドイツが降伏してその翌月(6月)に現在の国連(the United Nations)が、アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国などの連合国(英語では同じ呼び名のthe United Nations 51ヵ国) によって創設され、日本はその後8月原爆投下とソ連の対日参戦があって遂に降伏。
(この年にアインシュタインは国連総会に手紙を送って「世界政府の樹立」を提唱したが)、国連は戦勝国で主要な米英ソ連など大国に都合のいい仕組みでそれは成り立っていた(現在は日本も含めて193ヵ国が加盟)。日本は連合軍に降伏して占領され(1946年、現行憲法制定)占領解除後、主権が回復して国連加盟が承認された(1956年)が、国連憲章には「敵国条項」があり、日本はドイツなどとともに「旧敵国」とされた(これら旧敵国から武力で侵害を受けた国や地域の国々は安保理の認定・許可を待つことなく独自に軍事制裁・自衛行動をとることができる、という規定になっている。この規定は、今は総会決議で失効したことになっているが、条文は未だに削除されていない)。
国連憲章では、安全保障の関する問題については全加盟国の総会(国の大小に関わらず一国一票の投票で過半数の賛成、重要問題については3分の2以上の賛成)で決議されることになっているが、そこで決定されたことには全加盟国が必ず従わなければならないという拘束力はなく(「できるだけしたがって欲しい」という)勧告だけの効力しか持たない。
それに対して15ヵ国(そのうちの10か国は総会で選出された国で任期2年の非常任理事国、あとの5ヵ国―アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国―は創設当初から変わることがない常任理事国)から成る安全保障理事会―そこで決議されたことには全加盟国が従わなければならない拘束力を持つ。つまりこの(安保理)の方が総会よりも権限が強いということだ。とりわけ、常任理事国は5大国とも一致して賛成のうえ非常任理事国が4か国以上(計9ヵ国以上で15か国の過半数を超える)賛成しないと議決は成立しない。つまり常任理事国5大国には、それぞれに拒否権があって、その一国でも反対すれば物事は決まらないことになる。その5大国は第2次大戦中には一致協力して戦勝を果たすことができたが、大戦が終わるとたちまち米ソ2大国間に対立が生じ、今は米ロ・米中間に何かにつけて対立、安保理事会ではそのどっちかの反対(拒否権の発動)で議決が成立しないようになったのだ。
ある国が不正・違法な武力行使(「侵略行為」「平和の破壊」)を犯したと安保理で認定されれば、その国に対して他の全加盟国が国交断絶、経済制裁を加えるなど非軍事的措置を講じ、それで不十分なら兵力(軍隊)を出し合って(国連軍を編成)軍事的措置を講じて共同制裁を加えるという(集団安全保障)方式をとることになっていて①、その決定・措置が実行されるまでの間は(暫定的に)直接侵攻された当事国が抗戦(個別的に自衛権を行使)するか、或いはその国と密接な関係にある国も加勢・協力して抗戦(集団的自衛権を行使)することを容認②。
ところが、①(集団安全保障方式)は安保理の決定が5常任理事国のいずれか一国の反対にあって未だかつて一度も実行されたためしがなく、②(個別的・集団的自衛権行使)があちこちで、てんでに行われて、戦争が繰り返されてきた。
そして大戦後、この間、中東戦争(第1~4次)・朝鮮戦争・ベトナム戦争・ソ連によるアフガン戦争・湾岸戦争・ボスニア紛争・アメリカによるアフガン戦争・イラク戦争・シリア内戦・アフリカ各地(コンゴ・ナイジェリア・ソマリア・ルアンダ・スーダンなど)で内戦、ミャンマー内戦、そしてウクライナ戦争・ガザ戦争が今未だ続いているし、そのうち台湾海峡と朝鮮半島でも戦争が起きるかもしれない、という状況。
国連憲章では、武力行使、武力による威嚇を原則として禁じている(武力行使禁止原則)。にもかかわらず、違法な武力行使を犯した国に対する共同制裁(集団安全保障)、及び個別的・集団的自衛権の行使のための武力行使は認め、そのために必要とする武力(戦力・軍備―兵器と軍隊)の保持を容認している。
(2)国連で提案された軍備全廃案
1927年、国際連盟の軍縮会議準備委員会に、ソ連が「即時完全全般的軍備撤廃協約草案」を提出するも、具体的進展なし。(但し、その翌年の1928年、パリ不戦条約―戦争放棄に関する条約が成立)
(1945年7月、原子爆弾の実験成功、8月6日広島に、9日長崎に投下)
1946年(現在の国連創設の翌年)ソ連が軍備全廃を提案―それをきっかけに「軍縮大憲章」(「軍備の全般的な規制及び縮小を律する原則」)を全会一致で採択も実効性のないものだった。
(この年、日本では新憲法が制定され、その9条2項に「戦力不保持」即ち軍備の撤廃を定める。)
(1949年、ソ連も原爆実験成功)
(1952年、アメリカ、水素爆弾の実験成功)
(1953年、ソ連も水爆実験成功)
1959年、ソ連首相フルシチョフが国連総会で演説―「全面完全軍縮に関する政府宣言」
その後(その年)、国連総会で米ソ両国起草の軍縮決議案が全会一致で採択—米ソが中心となって交渉へ。
1962年3月ソ連「厳重な国際管理のもとにおける全面的完全軍備撤廃条約草案」
4月アメリカ「平和な世界における全面的完全軍備撤廃条約の基本的規定の概要」提出。
両案を国連軍縮委員会などで審議—3段階を踏んで各国とも軍備を撤廃することとし、国内の治安維持と国連平和軍のための兵力だけを残すというもの—しかし、撤廃の実施期間とか各段階における撤廃の順序や程度など主張が対立—撤廃措置の実施中・実施後における自国の安全保障に不安があるなどの問題で進展せず、それっきりに。
(この年10~11月、キューバ危機―キューバにソ連のミサイル基地が建設されようとしたことから米ソ核戦争寸前の危機―米大統領ケネディとソ連首相フルシチョフが直接交渉―アメリカがキューバに侵攻しないことを約束、ソ連がミサイル撤去で解決)(3)各国の軍備―武器・兵器
今はガザでもウクライナでも武器を使って殺し合っている。その武器・弾薬を戦い合う一方の側に支援・供与している国もある。日本はこれらの交戦国どちら側にも武器は供与していないが、最近は武器輸出の解禁を進めている。
武器・兵器など軍備は、ほとんどの国が(自国に対してどこかの国が武力に訴え戦争を仕掛けてくることのないようにと)自国の安全保障・国防のために兵器・武器・軍隊とも互いに保持し合っている。ところが、それが紛争・対立関係のある相手国をはじめ他国にとっては、その兵器や軍備は脅威であり警戒心や敵愾心を駆り立てることにもなる(「戦力」は保持しない丸腰しならば安心なのに)。また兵器は進歩・高度化し「AI兵器」でドローン(小型無人機)や「自律型致死兵器」(殺人ロボット兵器)などが出現しつつあり、兵器が安価になり自軍兵士の犠牲者が減るなどハードルが低くなって作戦決行・戦争に踏み切りやすくなる。
こうなると、善良な市民はともかく、とかく政治家・為政者の中には戦争を思いとどまるどころか、紛争・交渉相手国に対して対話外交に徹するよりも武力に訴え戦争に走りがちとなる。
戦争を根絶し、恒久平和を実現するには、武器・兵器など軍備を保持したままではそれらの運用を為政者に委ねてはならず、力に訴え交戦しようにもできないように武器・兵器を廃棄し軍備を撤廃する以外にないのだ。(藤原帰一・東大名誉教授は、日本国憲法の9条は、「武器よ、さらば」で「武器そのものを無くさない限り、平和は訪れない」というもので、「正しい戦争」など「あり得ない」という「絶対反戦の立場」だと指摘している。)
9条は2項に「戦力は、これを保持しない」として、そもそもそれを世界に先駆けて定めているのだが、国連憲章にも我が9条と同様な軍備全廃条項を定め、各国とも軍備撤廃するようにすれば、戦争根絶・恒久平和は実現可能、というよりは世界の諸国民にとってそれは必要不可欠。さもなければ戦争に戦争を重ね、第3次世界大戦で最後まで勝ち残り生き残るしかあるまい。国連では加盟各国に武力・軍備・兵器の保持を禁じていないので、国々はそれを保持して活用しようとし、武力行使に走りがちとなる(「いくら話してもらちが明かない」「問答無用」だとか、「国家の存立危機事態」であり、生存権・死活的権益の確保のためには「そうする以外、他に手段がないから」だとか、「間接的侵略に対処する」ためだとか、「在外的自国民保護のため」或いは「予防的自衛のため」などと理由を付けて武力行使を正当化し、先に仕掛けたり、受けて立ったり。)
上に挙げた戦争や紛争はいずれもそうして起きて繰り広げられ、国連はそれを止めることができないでいるのだ。
(4)では、どうすればいいのか
①戦争はやり合っているどっちかがギブアップするまでやらせておくしかないのか。②一方を加勢・武器支援して、他方を屈服させるか。③国連か、どっかの国か誰かが仲介して双方を説得して停戦させ、戦闘再開を止めるか。今のままでは、そのどれかでいくしかあるまいが、③がうまくいけば、それが一番望ましいだろうが。
起きてしまった戦争は、止めるのは非常に困難だとしても、今後、これ以上戦争が起きないようにするためには、どうすればよいのかを考えなければなるまい。
それは、①国連憲章の規定や国際法のルールはそのままでも、それらを各国とも(勝手我がままを控えて)もっと厳格に守るようにすればいいだけの話で、今のままの安全保障方式で、各国ともその下で今のまま軍備を持ち合っていれば、それはそれでかまわないのか、(それとも)②抜本的に改正すべきなのかだ。
②で、国連憲章を改正しその体制を改革するとすれば、どう改正・改革すればよいのか。それには次のようなことが考えられる(構想)。
1、加盟各国の軍備(武力―兵器・軍隊)の保持を禁じ、一斉に撤去・全廃―そうすることによって戦争・武力行使・武力による威嚇の手段を除去して、戦争しようにもできないようにする。
兵器は核兵器・弾道ミサイル・通常兵器・AI兵器・無人機(ドローン)・自律型致死兵器(AIロボット兵器)・カラシニコフ銃など自動小銃など殺傷兵器は全て保持・製造・輸出入禁止。
(禁止を破ってそれらを密かに保持・製造・輸出入したりするのを)査察・取り締まる機関が各国と国連に必要。
Ⅱ、安保理への権限の集中と常任理事国(拒否権など特権的地位)のシステムを改める。
総会を最高機関とし、そこでの決定に拘束力をもたせ、安保理を執行機関とする。常任理事国は廃止し、理事(総長が統括する閣僚委員15人)は全員を総会で選出。
司法機関―国際司法裁判所と国際刑事裁判所―いずれも全加盟国が関わり判決には従う。
警察機関(実力組織・法執行機関)―国連警察軍の常設―要員は国連職員と同様に各国から募集。
Ⅲ、安保理が侵略者・平和の破壊者と認定した国や勢力に対して共同制裁を加えるため、安保理と特別協定を結んだ加盟国が提供する兵力によって(5大国が提供する兵力を中心に)国連軍を組織する(これまで一度も組織されたことがない)というやり方(集団安全保障方式)は、もうやめる。
Ⅳ、国連憲章の「敵国条項」削除(5)戦争を無くす(根絶)には、次の2点が実現できれば、それが可能と考えられる。
①国連を、中央集権的な権力(加盟国に対して裁定を押し通す権力)を持った世界政府に近づけること―個々の国が持つ主権のうち軍事権を譲り渡すなど―日本国憲法では9条で国に交戦権を認めておらず、軍事権も認めていないが、各国にも同様にそれを促す。そして各国とも「戦力不保持」即ち軍備全廃。それらを国連憲章の条項に加える―しかし、そのようなことに加盟各国が合意するかだ。大多数が同意したとしても、強硬に反対する国が脱退し、軍備を保持して抵抗し戦争になってしまう、といったことも考えられる。(自国の安全保障=国防にはあくまで自国の防衛力・軍備が必要だといって、それに固執して軍備を手放したがらない人たちの中には兵器産業・「死の商人」業者も。)
「裁定を押し通し、軍事抵抗を制圧、或いは密かに軍備・武器・兵器を保持する国や勢力に対する取り締まり・査察・兵器等の廃棄強制執行に当たる警察力(「国連警察軍」などの常設)が必要。
②(心理学上)人間の心には人を行動に駆り立てる無意識の衝動で「欲動」というものがあり、それには「生の欲動」とともに「死の欲動」があり「攻撃・破壊欲動」があるという。ならば殺傷・破壊兵器など軍備があれば、敵対する相手に対する憎悪とともにそれが攻撃・破壊欲動を掻き立て武力攻撃・戦争に走らせる。したがってそれを避けるには武器・兵器など軍備を持たないようにするのが、戦争回避の最上の策。我が国憲法の9条2項の戦力不保持規定は、その理に適ったものと考えられる。そのような条項を国連憲章に定めて各国とも軍備全廃すれば戦争は無くなるはず。
●3、結論
そもそも人間は心に暴力性・攻撃性を持つ動物(心理学者フロイトのいう「死への欲動」「攻撃欲動」など)なのだから、所詮、人間には(攻撃し殺し合う)戦争がつきもので、そのままではそれは無くならない。
ならば、戦争をしようにも、できないようにするしかないわけだ。そのためには、戦争手段(殺傷兵器など)を持たせないようにする。即ち戦力(陸海空軍その他の軍備・武器・兵器)の保持を禁止し、軍備を全廃させることだ。
人間にはそれを協議・合意して決定を守ろうとする(殺し合い破壊し合う戦争の危険を冒すよりも、そのほうがメリット・デメリット・リスク計算上有益だと判断する)理性が備わっており、また集団的な無意識の「超自我」というものもある。
(思想家の柄谷行人氏によれば)日本の憲法9条は、占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、それが個々人を超えた悲惨な民族的体験から(集団的に無意識のうちに)戦争アレルギーがこびりついた日本人の心に受け入れられて定着しているのでは、と。
日本では、憲法には(9条に)国が戦争しないために戦力(軍備)の保持を禁止しているが、一般市民に対しては法律(銃刀法)で武器(殺傷用凶器)の所持を禁止している。そのおかげで、日本では銃器などによる傷害・殺人事件は、日本のような銃器禁止法のない国に比してはるかに少ない。それにひきかえアメリカは、憲法でも、一般市民の武器の所持を認めていて(1791年に定められた合衆国憲法修正第2条には「規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから」、「国民が武器を保有し携行する権利は、侵してはならない」などと定めていて)、国による対外戦争も多いが、国内・市民間で殺人事件や自殺による死者は自動車事故での死者よりも多く―2021年4万8000人、19歳までの子どもの死因では銃によるものが最多―アメリカの人口は3億4100万人だが、市民に出回っている銃の数は4億丁。市民の4割が所有。トランプ氏を撃った犯人が使ったAR-15自動小銃は2000万丁出回っている)。
市民が銃器を所持しているから殺傷事件が多発し、国が武器・兵器・軍備を保持しているから戦争も起きるのであって、保持を禁じて武器・兵器を使えなくすれば人殺しも戦争(殺し合い)も起こらなくなるはず(しかし、アメリカでは民主党側の銃規制の主張に対して共和党側は反対。トランプ氏いわく、「武器が悪いのではなく、武器を使ってるやつが悪い」「武器を持つ悪い奴を止められるのは、武器を持つ良いやつしかいないのだ」―つまり悪い奴をやっつける戦争は「正義の戦争」だという考え方)。要は、国連憲章と各国憲法で軍備全廃を決定し、守らせることのできる国際機関(立法・司法・執行・警察機関)を確立することなのでは。
●我々庶民が今からできること、必要なことは―日本国憲法9条護憲のみならず、国連憲章の改正(「9条の国際法化」)を含む国連改革運動。(「反戦・平和運動」といっても、特定の国が行っている戦争行為や核軍備に反対するだけでなく、どの国であれ、それが「自衛戦争」であれ、戦争は容認すべきではない。武力の保持は、それが「抑止力」であれ「対処力」・「自衛力」であれ、その保持は容認すべきではない。メディアや識者の論調でも、国連はどの国にも軍備を撤廃させ全廃させるべきだという肝心なところが欠落しているのでは。)
●9条2項(戦力不保持・交戦権否認)は日本特有のものだが、それを日本だけにとどめて護り抜くという消極的な護憲ではなく、それを諸国(国連加盟国)に範とすべくアピールして、これを国連憲章にも各国憲法にも同様な条項を定めるようにして然るべきだ、などと云うと、それはとんでもない身の程知らずで現実をわきまえぬ大言壮語だとか空論だとして相手にされないか。
1999年オランダのハーグで開かれた「世界市民平和会議」(NGO主催)で、「21世紀の平和と正義を求める基本10原則」が採択。その第1項目に挙げられたのが「各国の議会が日本国憲法にならって政府の戦争行為を禁じる決議を採択するよう呼びかけていく」、つまり「9条を21世紀に世界の憲法にしょう」というものだった。
しかし、その一方、「平和学の父」と称されるノルウェーのヨハン・ガルトゥング博士さえも(?)が、「そもそも9条というのは平和主義の憲法ではなくて『けしからん日本』を罰する(国際法ではどの国にも認められている交戦権を日本には許さない)、そのための9条」なのであって、それは「積極的平和ではなく消極的平和」(それで「安倍首相は9条に3項―自衛隊条項―を入れる」と云われたが、3項を入れること自体には賛成でも、中身は国是として積極的平和を謳う文言であっても、首相とは違って「近隣諸国その他の国とより友好的な具体的な対外政策をとるということや、困っているところは助けるとか、救いの手を差し伸べるとか」)などと指摘している。
国連で他国からは、9条2項は連合国が旧敵国に科した懲罰的規定にすぎないだとか、「唯我独尊」の一国平和主義にすぎないと思われているのでは、ということだ。
9条を守る(護憲)、守らない(改憲)の議論が日本国内に留まるならば、国際社会からは、確かにその通り「唯我独尊的な消極的一国平和主義」だと思われ、しかもアメリカから護ってもらっている「情けない国」だとの誹りを免れない。
だからこそ、9条の「武力の放棄」を日本国内の議論だけに留めることなく、世界に向かって臆することなく堂々と、アメリカを含め全ての国が一斉に(同時に)軍備を全廃しようと声を大にして訴えなければならないのでは。それこそが積極的平和主義。
柄谷氏によれば、9条(武力の放棄)の規定は、敗戦国・日本が戦勝国から「目には目を」として強いられた懲罰的規定というよりは、「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」との云わば「天の声」に従ったかのような「純粋贈与」ともいうべきもので、それは自衛権の単なる放棄ではなく、むしろ(日本から)国際社会に向けられた「贈与」。即ち、その9条(武力の放棄と交戦権の否認)を(文字通り)実行に移すことを国連で宣言することによって、国際世論から共感・支援を呼び起こし、それに賛同する国々が続出し、それが、これまで第2次大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変えることに繋がるだろう、という(「贈与の力」、それは「愛の力」といってもいい、その力はどんな軍事力や金の力よりも強い、ともいっている)。9条に対するガルトウング博士の見方か、それとも柄谷氏の考え方か。どちらが妥当か。
いずれにしても、9条の会など護憲派の中でもコンセンサスとして確認しておかなければならない喫緊の課題のでは。国連憲章を改正して、日本国憲法9条2項に倣って「戦力不保持・交戦権否認」即ち軍備全廃条項を加えるなど、そんな大それたこと、できっこないか?
(そんなことを考えている人なんて誰もいない「たわごと」にすぎないか?)
現下の世界と日本の混迷・・・・いったいどうなるの?どうするの?どうしようもないのか?
●(追記)「全ての国が軍備を保持せずに全廃」といっても、アメリカやロシア・中国それにイスラエルなど(軍事強国で、国々から脅威として恐れられていながら、自国に対抗して戦争を交える程の戦力を保持している国を恐れ、或いは小国の非対称戦力でもテロ攻撃などを恐れている大国)は、軍備全廃なんてとんでもないと拒否・反対するのだろう。
アメリカとその同盟国(NATO諸国や日本)などは、相手国(中国・ロシア・北朝鮮・イランなど)から見れば自国側が脅威なのに、相手の方が脅威だとして、その脅威から自国を守るために相手に優る軍備を(「防衛力」「抑止力」などと称して)保持しなければならない。だから、軍備は放棄・撤廃するわけにはいかないのだ、といって突っぱねる。それがネックとなって、「軍備全廃」などいくら訴えても受け入れられそうにない。そしてこのような大国が核軍備を保持しているかぎり、他の国々も軍備は撤廃しようがない。結局、軍備全廃など100年経っても実現不可能ということになるのか。
それでも、今のところウクライナや中東、或いは台湾海峡や朝鮮半島などで局地戦争はあっても(ウクライナ戦争ではアメリカは、直接参戦は控えて、ウクライナ軍に兵器を供与して軍事支援。それに対してロシアは核兵器の使用も辞さない意向をほのめかしているが)大国が正面から激突する第3次大戦なんて起きないだろうといって楽観視できるのだろうか。仮に大戦(核戦争)など今は起きないとしても、この先いつ起きないとも限らない、不安・恐怖は無くならず、「軍事的抑止力による平和」では恒久平和の実現はあり得まい。
圧倒的な軍事力と経済力によって中小諸国に対して(「安全保障」条約などによって)法的に権益・支配権を確保し覇権を握っている(例えばアメリカのような)軍事大国は、それに従属国のように従っている(例えば日本のような)国の(例えば沖縄県民のような)耐え難い被害・不利益を甘受させられ屈従を強いられている庶民の実態があり、そのような地位に甘んずることなく対抗心を持つ国は(象と蟻のように)非対称ながらも対抗戦力を構える(それが、かつて「象と蟻の戦争」と云われたベトナム戦争で、「象」のアメリカ軍が「蟻」のベトナム軍に敗退した。かつての朝鮮戦争は停戦して以来長らく休戦中で未だ終結しておらず、アメリカに対して北朝鮮は未だに対抗戦力を構え核戦力まで保有するに至っており、中東ではイスラエルとアメリカに対してイスラム過激派はテロ戦術など非対称戦力で抵抗を続けている)。それらは身の程知らずの「ならず者国家」・「テロ国家」などと非難・蔑称されるが、脅威なのは、はたしてどちらなのか。大国の核軍備は当然であるかのように不問にされるが、その核軍備の脅威こそがむしろ異常と問われるべきなのでは。
いずれにしろ大国が強大な軍備を保持すれば、小国でも小国なりの「非対称戦力」で、ゲリラや自爆テロなどの戦術を駆使しての「殺傷暴力には殺傷暴力で立ち向かう」戦法をとらざるを得ない。だからこそ大国のそんな軍備はいくら保持し続けても脅威・不安は無くならないし、大国が軍備を保持し続けているかぎり、小国であっても何らかの軍事的対抗手段を保持して対応せざるをえず戦々恐々、いつまでも不安・恐怖が付きまとい、平和は訪れない。軍備は大国であれ小国であれ全廃する方が賢明なのだ・・・・・・と思うのだが、如何なものだろうか。